下村早苗の育った環境と喪失感
下村早苗の生い立ちについて考えてみたい。
何故なら、人は環境の中で育つからだ。そして早苗がしたことは具体的には育児放棄で子供を部屋に放置したことであるが、人間を環境の中で育つ生き物と定義した場合、
自分の思いを何より優先し、他者(この場合子供)を省みることを重要でないとするのが当たり前の感覚で育った環境があったということ。
このことが最も重大な問題で、人が否が応でも環境に影響を受けて育つことが恐ろしいことと再認識しなければならない。
では、早苗の育った環境というと、父・大介は三重県四日市の高校ラグビー部監督で高校ラグビー界ではかなりの有名人である。母親は早苗が幼い頃に離婚。早苗が長女で、次女、三女と3人の姉妹をもうけた。
監督である父は、熱血指導でラグビー部員達を家族同然に手を掛けたという。しかし、実の娘・早苗に対してはまるで正反対の接し方であった。
早苗がグレて更正させるために、父の東京の知人にあずけ、高校生活を送らせたというが、曲がりなりにも高校教師が娘の大事な思春期を教育できないとは尋常なことではない。例え教育する自信がなくても、引き受けるのが父親でないだろうか。
乱暴な解釈かもしれないが、この尋常でない養育の実体から判断すると、父・大介はラグビーを一から教え込むための“息子”が欲しかったのが本心ではなかろうか。生まれ来る子に対する期待・希望が叶えられず、やむを得ず、部員達への熱血指導に愛情を注ぐことに拍車を掛けさせた。理解する母親もいない、その報われぬ愛情を否が応でも感じざるを得なかった早苗はグレるしかはけ口を求められなかった。
いや、父・大介が“息子”を産めなかった絶望感を早苗は無意識の内に悟り、無言の内に自身の育児放棄を感じ取ったのではなかろうか。そういう、我々が想像できる範囲外の感覚でもってしか、今回の残酷な子供の死を結びつけたくない。
早苗は大きな、そして漠然とした「喪失感」を運命と共に背負わされてしまった。やがてその喪失感を埋めようと、自分の物質的に満たされぬものを埋めることが生活の中で大きな部分を占有してしまった。
そして子に対する愛情がないと言われるが、この大きな「喪失感」を抱いた状態で自発的な愛情は出てこないのではないか。丁度、乾いた砂漠の土から水分が出てこないように。
恐らくであるが、この漠たる「喪失感」の変わりに、普通人は漠たる「安心感」の上で社会に送り出されてる。この人の心を支配する見えないイメージのようなものの違いが、残酷な子供の死という形となって現れたようにすら感じる。
早苗が犯した罪は早苗だけが償えるが、
しかし早苗が育った環境は早苗だけで創造したわけではない。
社会起業家という人生の目標
枋迫篤昌(とちさこ・あつまさ)氏という社会起業家がNHKで取り上げられていた。
ラテンアメリカの低所得者層向けに金融サービスで少ない収入を守る事業だ。
中米は極度の貧困にあえいでいる途上国のひとつで、仕事は少なく、多くの者は米国へ出稼ぎに出ている。
年収200万円程度の出稼ぎ夫というのはゴロゴロいる。その少ない収入から祖国の家族へ送金して何とか生きている状況である。
ところが途上国への送金や換金には高額の手数料が取られる。銀行口座があればわずかな程度の手数料で他国へ、しかも瞬時に送金できるものが、
現状は30%以上も取られてしまっている。汗水たらして稼いだ10万円を送っても7万円しか手元に残らない。貧困層にとって3万円はとても厳しい額だ。ここに目をつけた枋迫氏は手数料を数%に抑えたワンストップサービスを開始したのだ。
低賃金のラティーノ(中南米人)の生活を安定させる社会事業である。
一方、有名な経営者である山口絵理子氏という社会起業家がいる。
彼女は世界一貧しい国バングラッデシュで世界に通用するバッグメーカーを起こし、資本主義国へかかんに挑戦している。
いずれも貧困国へ金銭の支援でなく、貧困国の人々自らが豊かになる手伝いをしている。つまりサービスやノウハウの支援だ。
かつて拝金主義の権化として表舞台から追放されたホリエモン、村上ファンド代表たちとは正反対にクリーンなイメージの起業家として、彼らはマスコミで多く取り上げられている。
ギスギスした就職活動に疲れた学生が、人のために尽くす自分に希望を見出し夢を抱き活動を開始する学生たちは後を絶たない。
しかし現実に社会貢献を事業とするわけだが、収益性の悪いビジネスモデルも多く資金繰りが大変厳しく撤退を余儀なくされるケースも決して少なくない。
ところが、先述の彼ら偉大な起業家たちが語られるとき、現在取り組んでるすばらしい事業内容がクローズアップされるが、いくつもの苦難をかかえつつ事業を続けられる原動力や、ひとりの人間としてのエゴイズムとの折り合いは必ずしも伝え切れてない。最も重要な部分に目を向けられぬまま「社会貢献」が理解されてるとも思う。
極論してしまうと、人間、私利私欲からそう簡単に離れられるものではない。それなのに「社会貢献するのが人生の目的」と簡単に言ってのけるのは
危険ではないだろうか。社会貢献を批判するつもりは毛頭ない。しかしそういう発想を持って出発しないと、折角善意で始めた事業がいとも簡単に
頓挫してしまうとき、「やっぱりお金は大事だった」なんてことになって欲しくないのだ。
自分を高貴な職に身を置きたい気持ちは誰にでもある。それは自分の存在意義を無意識に確かめてる行為かもしれない。
つまり将来と言う不確実な不安の中に、確実なる自分を描いておきたい。それを「将来、自分がなりたいもの」というならば、人間は不安の中にいるからこそ、人生目標をもたずにいられない動物なのかもしれない。
小学校3年生が自殺~いじめの本質
小学校3年生が自殺したという事件が起きた。大阪の高槻市という人口密集地で起きたことから、東京でも同じような問題が潜在してるとも推測される。
「いじめ」が原因であるらしいが、貧困や借金苦の自殺のように金があったら食い止められた問題とは一線を画す、別次元の根深い社会問題だ。
9歳という低年齢で何故、死を選んだか?どうしたら生き続けられたか?いじめによる自殺が報じられるたびに「教育問題」や「いじめる子の家庭環境」や「いじめられる側の問題」など好き勝手に論じられるが、いつも決定的な解決策は見出されぬまま、「ひどい事件だ」「かわいそうだ」と感情論だけが飛び交い、1週間もすればコロッと忘れ去られてしまう。
そしてまず目を向けねばならないのは「いじめは本質的にはなくならない」という素朴な命題だ。何故なくならないのか。いじめとは少数派を多数派がたたくことである。1人対多人数の構図だ。これが20人対50人とかだといじめにならない。また100人対1億人だといじめ(差別)になるだろう。つまり圧倒的少数に対しての圧力のことである。このような少数に対し、多数派が善だろうが悪だろうが、多いから勝つ。つまり多数派が正しくなる。だから「いじめ」はなくならない。これは民主主義の原理と同じなのである。多数決で物事が決まる。問題は多数決に参加してる者が<善>か<悪>なのかは誰にも決められない。それが「いじめ」の本質であり、「民主主義」の本質でもある。
イギリスの英雄チャーチル元首相ですら言っている。「民主主義は最悪の政治形態だ。ただし他の政治形態を除いては」と。多数派は多いから何となく正しいと思ってしまい、少数派の弱者は自分たちが悪いと勘違いしてしまう。つまり民衆とは多数派に流されてしまうものなのだ。
「いじめ」を形成している多数派というのは、その“多さ”に流されてしまうのだという本質を知っていれば、子供たちが多数派に簡単に流れてしまうこと、少数派はほとんどの確率で負けてしまうということがわかるだろう。
いじめをする(かも知れない)子供の親、いじめをされる(かも知れない)子供の親たちは、その労多き人生の智恵からそれとなしに集団社会生活においての民意というものが流されてしまうことをそれとなく教えてやる義務があるのではなかろうか。ましてや最近話題となってる子供の虐待や養育放棄などしていては、いつまでたっても子供にものを教えてやれる親が育ってこないことを気付いて欲しい。
9歳というまだ自我が何なのかもはっきり分からないはずで、無我夢中に生きる世代なのに何故死を選んだのか、どうしたら生き続けられたか、深い理由は簡単にはわからないが、たったひとつ残る疑問はこの子供が生きた9年の間、親は何をしてたのか、だ。
終戦記念日と核保有
終戦から65年経ち、年に一度、黙祷するだけになりつつあるが、平和主義というものはどこに行こうとしてるのだろうか?
実体験者の高齢化が進み、また亡くなられたりして行く中、戦争の悲惨さ、原爆の残酷さを語り継ぐことを強調する、この動きだけが顕著になっている。
悲惨さや残酷さ、つまり感情論に訴えることだけで、国防の方針が動かされてることにいささか気持ち悪さを覚える。
この気持ち悪さは何なのか?
「日本は戦争という過ちを犯した」
「核保有反対」
この二点についてだ。
─少々、反米保守的な意見になってしまうことを予め宣言しておきます─
「日本は戦争という過ちを犯した」というが原爆を落としたのはアメリカだ。確かに、かの裁判で日本は侵略戦争として裁かれたから、外国が日本の過ちとするのは仕方ない。しかし、被害を受けたこの国までもが過ちと言うのが少し気持ち悪くないだろうか。「広島・長崎に謝罪しろ」とアメリカに言えない。メディアが報じない。
敗戦後、GHQという進駐軍が数年に渡り占領政策を実施した。とりわけ戦争観を徹底的に変えた。「戦争は過ちだ。」残虐な支配でなく、近代的なソフトな占領。捕虜や強制労働などなく、市民生活は自由を保障されるが、二度とアメリカに弓を引かせないための思想刷り込み。
日本の特攻精神は極めて危険視された。こんな国やドイツに核など持たせたら何をしでかすか分からないというのが本音だったとも思う。
そういった背景の上で生まれた平和主義だということを気付かないと慰安碑の前で流す涙もむなしくなってしまう。
「核保有反対」、これは被爆国としての民意だが、多くの国が核保有をしていて、この国の平和の声は全く届いてない。薄々気付いてるのかもしれないが、現実的に「核廃絶」は一筋縄ではいかないのだ。
「核保有反対」とだけ言うのは、いじめが社会問題になってる中で、教師が「いじめはいけない」と言うだけなのと同じで核保有の現実を知る必要がある。
冷戦下でアメリカとロシアが核兵器を持っていなかったら、総力戦になっていたと分析する学者もいる。つまり、戦争の一歩手前の抑止力として機能した、各国の指導者たちの判断を慎重にさせたという見方もできるのである。
またもし今アメリカやロシア、中国など各国が持っている核兵器を世界から廃絶するとなると実際の手段として、地中深く埋めるか、宇宙に捨て去るしかない。
しかし、核を作る方法の「知識」自体はどう消し去ればよいのか?それは可能なのか?となると核廃絶の行き着く先は、核を持つ世界以上に恐ろしいものとならないだろうか。
「核保有反対」は世界から核をなくそうという主旨だが、現実的には「二度と核を落とすな」ではないだろうか。そしてもっと具体的に言うと「二度と日本に落とすな」が真意ではないだろうか。
3発目の原爆を日本に絶対に落とさせないようにするには・・・・。
核を触ったこともない者が核保有について論じるのも気が引ける。
被爆にあった親子は皮膚がケロイドにただれながら、溶けた子を抱きつつ、母親はうめき声を上げてたという。確かに残酷な兵器だ。
しかし、国際情勢とはもっと残酷なもので、国内の平和思想とは違う次元で動いている。
日航機墜落事故の2次被害
日航機墜落事故から8月12日で25年経ったが、被害者は事故の犠牲者や遺族以外にも2次被害という形で存在していた。
事故で子供を亡くした父親が事故後、失意のうちに病死したり、同じく子供の死を苦にした両親が不和となり離婚したケースなど遺族側の2次被害は本当に気の毒だ。そして遺族以外で2次被害者となった方々というのはこの事故の身元確認作業に関わった人たちにいたのです。
例えば、群馬県の医師3名。猛暑の中、窓を塞いだ体育館で、連日午前7時頃から深夜3時頃まで2065体(犠牲者520人の身体が遮断遺体として検屍された)の遺体の鑑定を行った。また生存者を受け入れ、死者の鑑定を行った多野総合病院のレントゲン技師2名。入院患者に臭いが届かないよう窓を塞いで、休日もレントゲン撮影を続けたと言う。
更に遺体安置の拠点となった藤岡市の旅館を営むおばあさん。経営が苦しい中、お金を受け取ることなく、死者の鑑定を行う人を宿泊させて献身的に世話したらしい。
彼らはいずれも事故後短期間で過労などのために亡くなっていたのです。
死因を詳しく知る由はないが、もしこの想像を絶する過労の末に亡くなっていったのならば、彼らは自分以外の人のために死んでいったのだろう。もちろん彼らだって誰だって、生きて楽しいことをしたい願望は持っていただろう。どうやら神は人のために尽くす人を必ずしも長生きさせないのだろうとも揶揄したくもなる。
しかし人命尊重第一主義に身を投じていると、長生きすることが生きがいや、生きる価値とされてしまう。自分のことを棚に上げて言うと、世の中確かにロクでもない人間が長生きしていることもある。だからこそ人のため、つまり「公」に身を投じ、自分の命にかえてもこの状況だけは譲れないという彼ら、墜落事故2次被害者たちの気概を語り継ぐことは次の世代があればこそ必要じゃないでしょうか。歴史は連続性です。正義やら秩序やらを保持するのが、その時代その時代に生きてるものたちに役割があると思います。
そういえば日航、JALですが、今年経営不振・債務超過やらで政府の巨額の支援を受けました。会社をつぶさない方針です。そして政府の支援とは国民の税金です。航空会社が1社という国はたくさんあります。全日空(ANA)1社で十分だろうと思うが、何でJALはつぶさないんでしょう?JALは旧・運輸省の天下り先でもあったし、おそらく政府がつぶすのは忍びないのでしょう。こうやって長生きする「命」もあるわけですね。