「異端児、常識を疑う」 -27ページ目

北朝鮮ヤケクソ説

北朝鮮が韓国領の島に砲撃をして民間人、軍人が亡くなったが、この砲撃の意図をヤケクソだと言うジャーナリストT氏。
新聞記者たちはアメリカと対話したいもくろみと指摘するが、そうでなくヤケクソだ、と。

なぜヤケというのか?

それはもしこれから韓国と戦争になれば、軍事力の差で韓国は間違いなく勝ち、北朝鮮は負ける。
そのことを北朝鮮も重々承知しているはず。

では、負けると分かってのヤケなのかというとそうではない。
負けると本当に困るのは北朝鮮自身ではなく、中国、韓国なのだ、と。

もし韓国が戦勝すれば、敗戦国の北朝鮮難民を引き受けなければならない。それは困ると。
そして朝鮮半島は南の韓国は親米、つまりアメリカの力がおよぶ。北朝鮮は中国との親交があり中国の力が及んでいるわけで、北朝鮮が滅びると朝鮮半島全体にアメリカの力が効いてくる。
つまり中国にとっても北朝鮮の敗戦は困るわけで、いずれにせよ、北と南がにらみあってる状態が一番望ましい。
そしてそのことを北朝鮮も分かっている。戦争で負けることは何も怖くない。
「うちはいつでも滅びるぞ」と言うわけである。

だから砲撃に細かい戦略などなく、ヤケクソなのだ、と。

一方であえて砲撃の理由を金正日(キム・ジョンイル)の息子キム・ジョンウンの世襲問題と結びつける見方もある。
指導力のない後継者に実績を作ったという見方である。
つまり息子のためにミサイルを打った、と。
かわいい息子のためにディズニーランドの花火打ち上げを見せてやっただけだ、と。
金正日は死にたくても安心して死ねない世襲問題をかかえてるということなのである。

ところで、拉致問題のときにT氏は北朝鮮へ行き、帰国した以外の残りの拉致被害者は本当はどうなってるかを取材したことがある。
再三に渡って取材を断られ交渉を続けた結果、何とか北朝鮮高官とのインタビューにごぎつけ、誰が拉致した当事者か、残りの生存を調べ、死んでいるならどこでどうやって死んだかを公表しろと迫った。
すると高官は「それは無理だ、私たちにはその力はない」と。
そこでT氏は「あなたには無理でも、金正日将軍はできるだろう」と。
そしたらなんと高官は『金正日将軍でもできない』のだと。

独裁者は日本人が考えるほど強い立場ではないのだと。

謎のベールに包まれた北朝鮮の指導力。
ショッカー軍団のようなピラミッド構造では説明できないようだ。

いじめ問題を学校や家庭でどうにかできるか?

最近、いじめ自殺の報道があいついでいる。
一時的にメディアが表面に出してると見ることもできるが、実体の件数はここ2,30年、横ばいでずっと頻発しているのだろうと思う。
と同時に“いじめ”は社会という集団生活においては避けられない、なくならないものと認めねばならなくなってきたのだと思う。

誰しも学校、会社など集団の場でいじめ、もしくはそれに近い状況に関わったり、目撃した経験はあると思う。
いじめの種類は、仲間はずれから始まり、使いパシリ、暴力、カツアゲといういわゆる標的にした相手を制圧する“支配欲”的なもの、あるいは女子に対する「ブサイクだ」「臭い」「汚い」など美醜についての蔑みという“差別”的なものと実に様々である。
また、いじめられる側は報復を恐れたり、親への気遣いからいじめの事実を隠したりと、第三者の目に届かない場合も多くいじめの助長につながっている。

この支配欲にしても、美醜という差別にしても、根本的には自分はよくありたいという人間の欲求から発せられてるもので、いじめの行為自体の欲求というより、自分と集団との関係性をいじめによって安定させたい心理状態の産物でなかろうか。
人間であれば誰しもが持っている、このようなえげつなさを消すことは釈迦やキリストのような人以外、ある意味不可能でないだろうか。
ここにいじめはなくならない理由が隠されてるように思う。

事件があってからいつも、いじめる者が悪い、いやいじめられる方にも非はある、親の監督責任、教師がだらしない。
結局、犯人探しだけが主題になって、残念ながら対策、つまり子供・親・教師の有りようは考えられないままになって、次のいじめの発生を待つことになっている。

もちろん、行政や福祉関係団体の活動などが、対策を怠っているということではないが、しかし、やっぱりいじめが発生すると校長先生は、「いじめはなかった」と言う。
決して「いじめはあったが、対策をとっていなかった」とは言えない。

また、いじめを未然に防ぐため、教師たちが徹底した監視をしている学校もあるというが、自由主義(個人主義)でやってきた帰結が、自由を束縛する監視主義でしかもたなくなってるというのも皮肉な話である。

ではこれから子供たちはどうなってゆくのか?

もし学校教育、家庭教育というものでいじめ問題をどうにかしようとするならば、知育よりやっぱり徳育に頼らざるを得ないのだろう、と。
しかしこの道徳というのはやっかいで、教師、親とて誰も人格者などいない。そして教師、親たちを教育する人格者は誰かと?
誰もいないのです。

つまり道徳教育など誰にも出来っこない。
しかし、この道徳教育さえできれば・・・、と、この矛盾をはらみながらの徳育をやってゆこうとする気構え。
そこから出発しないから、モンスターペアレントやモンスターティーチャーというおかしな道徳者が出てくるのでしょう。

YOU TUBE流出の衝突ビデオの真実!?

YOU TUBEに流出した尖閣の漁船衝突ビデオ。

「よくやった、勇気ある行動だ!」
「管理能力がずさんだ!」
ビデオは公開すべきだが、一保安官がする行動としては問題というのが一般論ですね。

ところで散々、日本の巡視船の方からぶつかってきたという中国側、本土でのこのビデオの反応は・・・?

残念ながら、Googleの中国撤退後、ユーチューブは検閲規制されて見れない。
一部、香港などのメディアからの流出に対しては、「映像は日本で改ざんされてる」などと。
おいおい。

中国本土(中国国民というより中国共産党政府)では依然、
日本側に問題あり、尖閣は中国の領土だ、と。

てことはですよ、
ビデオを公開しても、中国に対してはあまり影響はなかったわけで。

では国際的にはどうか?
こんな国境の小競り合いなど、世界中の至るところで起こっているわけで、各々の国の問題として片付けなさい、と。


どうやら大騒ぎしてるのは日本のメディアだけのようです。
わざとらしく大騒ぎしてるんじゃないっすかぁ?

では何故、こんなに大騒ぎするのか?

「管理能力がずさんだ」をきっかけに民主党をたたくチャンスとにらんでかもですね。


まぁ、もっと大変なのは、依然、中国は東シナ海、南シナ海に覇権を伸ばし、アセアン(東南アジア)の支配、そしてマラッカ海峡からインド洋に出て更に覇権を伸ばそうとしてる。
こうなると、アジアでの日本の力は今以上に弱くなる。

つまりですよ、我々一般市民にとっては政治的にというより、経済的に更に追い込まれるのは間違いないわけです。

いずれ日本より中国人の方が年収が高くなる日がもうそこまで来てるってことです。
日本では年収200万円時代が来るとか、今より更に貧しい生活はいやですよね~。

なんてね♪

悪しき個人主義がもたらす育児放棄

前回の記事で、子供を産んだら離婚をするなというように聞こえたかも知れない。
離婚するために結婚するわけはないのだから、どちらかがろくでなしか、相手を見る目がなかったとひとまずは言えよう。
とはいえ、母子家庭で子供を立派に育て上げてる方もたくさんいるし、夫が子供に性的虐待をする場合、避難措置として離婚も止むを得ない場合もある。
都内に限っては離婚率が世界でカリフォルニアに次いで多いという状況の中で、離婚自体を問題視しても本質は見えず、生活苦なり、虐待の横行なりが、経済的、社会的に悪い意味で成熟しきった場での現象と見なくてはならない。
つまり親たちも生きにくいのだろう、と。

そして下村の場合、この生きにくさが襲い掛かる以前に、抜け落ちてる重大な部分がある。
それは下村の歴史を辿ってみなければ見えてこない。
過去の記事で書いたが、下村早苗もまた親から異質な形で育児放棄を受けていたとみる。
そんな下村が母になる資格がなかったというのは表面的なことで、本質的には結婚にしろ、出産にしろ、ホスト通いにしろ、遠く昔に得られなかったものを埋め合わせようとしていたに過ぎないのだろうと思う。

遠く昔に得られなかったものとは親からの愛情だ、というのはこれまた表面的なもので、本質的には親から愛情を受けられなかったゆえの怒り、その怒りが解消されないまま今まで生きてきたため、ぽっかりと心が空虚で満たされないままなのである。

そう、極論すれば結婚、出産、ホスト通いは全て無意識の怒りのはけ口であり、下村の子供、楓ちゃん桜子ちゃんらが置き去りにされたことは、つまり遠く昔に自分が置き去りのままであることの怒りを今ここで再現してみせている。
下村は育児がいやでも、ホストと遊びたいのでもなく、自分でも気付いてない怒りがそれらに置き換わってるだけのことなのである。
これが本質である、と私は見る。

そこに金がかかる実生活の苦しさ、結婚、出産、老後というパッケージ化された“幸せ”と呼ばれたものを、いつしか誰かに求めるよう急かされ、あっけなくこぼれ落ち、不“幸せ”と名づけられた。
それらが空虚な心に二重に襲い掛かった、と。

親からの愛情があればよかった、格差のない平等な社会主義的な理想主義の社会があればいい、
私はどちらもそうは思わない。

親からの愛情という核家族の中だけで起こる閉鎖的な情は時に、共同体や地域コミュニティというような、少し鬱陶しいつながり(口うるさい老人や出来損ないのおばさんとかがいての社会)とのバランスで平衡を保つだろうし、格差は悪平等による怠け者を作らないだろうし、よき平等は競争を公正なものにする。
こういうバランス感覚が欠けているため、悪しき個人主義だけが強調され、育児放棄や貧困によるジェラシーが蔓延するのだと思う。

愛は金で買えない。いや、きれい事を言ってもやっぱりお金が大事。
いずれも個人であることの不安を免れるためにラストリゾート、最後のよりどころとするのは危険なのである。

「子ども手当て」あげるから子供産みなよ♪

前回、かわいいから育てるのは本能的な愛情で、いやでも子供を育てるのは自発的な愛情、愛情とは必ずしも“かわいい”とか“いとおしい”という気持ちいいものばかりではなく、ときに“いやだけど・・”と気持ち悪い面もあるのだと。

だから愛情があることと、子育てをやる行為はいつも一体となってるわけではない、そう締めくくったわけだが、しかし子供を置いて出かけようとする下村にそう語りかけたとしても「はいそうですか」とは納得されないだろう。

それは下村自身が意識する自我や判断基準、価値観が、やはり下村の親からの影響を受け、そして下村の親もまたその親、そして、あらゆる核家族が近代の社会の風景というものの影響を受けて成り立っているからである。

育児放棄した下村だけを捕まえて、育児とはこういうものだと教育しても、育児放棄へ至らしめた感じ方の動機の根を摘みとることにはならない。
つまり第二第三の下村を救済することにはならない。
ましてや「子ども手当て」をあげればおしまいというわけにはいかないのである。

では近代の社会の風景とは?

アマゾン川の奥地に、先進国に住む我々には想像もつかない文明が止まった国?部族がまだいる。
ヤノマミ族といわれる原住民だ。
流行や携帯電話や会社など勿論ない。裸同然で、狩りをして踊って、村同士で戦争をして暮らす。
そしてここでは生まれた子供を殺す?慣習があると。

出産した女子は子供を社会的に「不必要」と判断した場合、赤子を葉にくるみ白アリに食わせ最後に焼く。そして精霊へと昇華させる。
超自然的に子供殺しを精霊に返すという慣習の中に組み込んでいる。
つまり子供を育ててゆくか、否かの選択肢が部族社会の意思・宗教心という荘厳なものの中で見守られてる。
見守りとは育てるも、育てないもひとつの選択として尊重することだ。

我々近代人の場合、中絶にあたるのだろうが、この場合子供を育ててゆくか、否かの選択肢は個人個人の思いだけにゆだねられていて、あなたは社会の一員を産むのだよといういわば目には見えない社会の見守りはなく、あるのは産んだ場合のみの「子ども手当て」くらいだろう。

誤解しないで欲しいのが、中絶や精霊に返す慣習を単によしとすると言いたいのでない。

近代人において、中絶で育児を断念する場合、経済的理由つまりお金の問題、そしてそこから派生する“産んで育てる自信がない”という活力の問題が多くを占める。
それに感化された発想が、産んだらお金をあげるよ的な「子ども手当て」というもの。
これはまだ産んでない夫婦や結婚してない者たちにも、子どもを持った場合のリスクを金計算であるのだとよりリアリティを深めていることになってしまってる。

「育てられないなら産むな」これもまた「お金がないなら産むな」を指してるのだろう。

また逆にある程度裕福な者が大手を振って、さあ産もう!育児放棄なんて信じられない!
かくして“育児”が勝ち組負け組み、幸不幸のジェラシーの対象と化し、ジェラシー合戦に敗れた者が育児放棄と流れてしまう。

産むのは勝手、出来ちゃった婚、大いに結構。

いけないのは産み散らかしておきながら、「よし、ここはひとつ子供をしっかり育てるか」とか、無職だった夫が「よし、とにかく働きにでるぞ」とか、また暮らしの中で育児ノイローゼや育児に疲れ切ったときに「ここはふんばりどころだ」と夫婦で助け合う、そのために二人もいるのに夫婦のすれ違いなどと、活力のみせどころもなく、簡単に離婚、挙句に母子家庭で行き詰まり、いよいよ本当に育児を投げ出してしまう。

そういう風に破滅へと思いを至らしめられやすい近代社会の風景、そしてその社会の風景に影響を受けてしまってることに気付こうとしない夫婦、こういうもののしわ寄せが子供に回ってきていると見ないと、児童相談所がいくらがんばったところであとの祭りなのである。

下村も同じ道をたどったと言えよう。そして下村も下村の父もまた社会の見守りから見放され、社会の風景に踊らされてしまった、と。

次回はこの近代社会の風景というものを更に掘り下げ、
市場経済に放り込まれた子どもたち、核家族という危険地帯などを徹底的に見てゆく。