2010年の衝撃、育児放棄~ネグレクト
2010年、最も衝撃的な事件は・・・?
役者の酒癖について?あるいは中年タレントの浮気騒動?
えっ、アイドルAKB48の大躍進だって!?
今年は仕事の都合でAKB48についてはかなり調べる機会があったもんで・・・。ちなみに私は仁藤萌乃ちゃん“推し”でっ♪
気に入ったコのファンになることを“●●推し”というらしくて・・・(汗)。
と、そんなことより、身近な事件で最も衝撃的だったのは大阪の育児放棄事件でした。
これが何故、身近な問題かというと、誰にでも育児を投げ出したくなることがあるかもしれないからです。
この事件の母、下村早苗のブログには
「待望の娘を出産、私はひとりじゃないんだと思わせてくれた小さな命」こう書かれてた。この思いと対照的に、約1ヶ月間、子どもを放置し死体を確認しに部屋に戻って「茶色くなっていた」と言ったこととのギャップはいったい何か?
単なる経済的な理由だったなら、福祉サービスをすんなり受けていればと悔やまれる。
暴力による虐待を「しつけ」という親。外部から「虐待」と認定しても今はなかなか強制的に介入できない。
そもそも虐待や育児放棄が起こる起こらないは個々の家族次第で、他人がよその子どもを救う必要があるのだろうか?
・・・これは必要だろう、と。
「ほっといてくれ」といわれそうだが、もし虐待や育児放棄が放置され、どこかの国のように街中の至る所で捨て子が転がってると、朝、出勤するサラリーマンのお父さんたちも、自分の子はそうでなくとも、そんな光景を毎日見てたら、やがて人格も壊れてくるでしょう。
やはり虐待を許す親が増えてもらっては困るのです。
では、育児放棄をした親たちを裁判にかけ、法律で粛々と掃除してゆく・・・。
これも育児放棄自体を防ぐにいたらないわけで。
子ども手当てに批判的な意見は多い。「こんなことより保育所建設や保育士育成などに金を回せ」と。
しかし応急処置としてはやむを得ない面もある。それがたとえ母親のパチンコ代に消えるとしても。
もの言えぬ乳児やSOSを出せない幼児にとって、ひとときの母親のストレス解消となることで被害が一時的に回避されるならば、だ。
だがいつまでも金を手当てしてゆけるのか?
そして大阪の下村早苗の場合、離婚して母子家庭になった後は、児童相談所が再三にわたって自宅訪問をしても不在で、子どもの予防接種や旧・児童手当てなど福祉の支援を受けることは一切なかったという。
つまり桜子ちゃんと楓くんは社会福祉からこぼれた「消えた子ども」となった。
結局、セーフティネットというものは“待ち”のサービスであり、受ける側の親が拒否したり、手を挙げなければ育児の支援にはならない。
福祉だけでは育児放棄を防ぐのに限界があることをものがたっている。
「バカな親に子を産む資格などない!」
おっしゃる通り。
だが、バカであるがゆえにただ生み散らかすのではないだろうか?子どもからは産んでくれと言ってないのに、不幸な親の元に生まれてしまう。
だからバカとされる親たちに「産むな!」と言うより、ちゃんと育てられるようにせねばなるまい。
下村早苗は長女の桜子ちゃんを産んだ当初、子どもを可愛がるごく普通のお母さんだったという。
子の誕生と発育を素直に喜ぶ内容がブログに切々と書き込まれていて。
このことから下村は次第に子育てがいやになっていったのだろう。
だが、子育てがいや→育児放棄という単純な流れでは片付けられない。
なぜならどんな母も育児にときどき疲れ、ときどき愛するもので、毎日ロボットのように子どもを愛せるなんてそうは人間できていない。
下村は彼女なり手を尽くし、ファッションヘルスで働くことまで選択し、育児放棄にいたったときは既に行き場を見失い、先行きを悲観し、ただ新しい男を求め失望のただ中にさらされてる極端な状態だっただろう、と。
しかし育児がいやになる状態は失望に値するのだろうか?
国連の提唱した国際家族年の宣言文では、理想の家族モデルで両親を「善き父、聖なる母」とうたっている。さぞご立派な男と女が子どもを産んで育てられるかのごとく、この基準(モデル)にみんな向いなさいと。
児童虐待の権威、斉藤先生はこの理念が、暗黙のうちに言葉に出すことなく深いレベルで生活に浸透していると指摘する。
「母はいつでも子を愛するもので“母性本能”を備えてるもの」という“掟”として、儒教から来た「親孝行」とうまく融合し“日本の伝統”と言う名で根付いてる。
この掟は逆に、育児に疲れることに罪の意識を背負わせてる、と。そして疲れきった母は無意識に自分に罪の意識を感じてあるとき失望してしまう。
「生まれてきてくれてありがとう」
この言葉自体にもちろん悪意はなくても、同時に「この子さえいなければ・・・」と愚痴のひとつすら口にすることも封じ込めることになったり、母親の落ち度を少しも許さない。
子育てをいい加減にやってもいいと言いたいのではない。「育児が母の喜びであることが当たり前なんだから」と、それを許さない空気を夫(男)、社会、周りの環境が無意識に作り出し、育児に疲れた母に自主的に責任を感じさせ、育児放棄へ向わせるきっかけになりえるものだ、と。
だから、母性本能などフィクションであると思うので丁度よいのである。
児童虐待にくわしい神庭先生によると、子が母に愛着を示すということは、赤ん坊が笑ったり、泣いたりして何かを求め、それを母が「喜んでる」「悲しんでる」と読み取り意味づけする。
更にこのやり取りが反復され、その体験を乳児は記憶して愛着を持ったり、コミュンケーションの手段を覚える、と。
つまり、何もはじめから母性本能で母と子は結ばれてるという神秘的なものではない。
「この子は私に会うために生まれてきた」とかパワースポットとか、オカルトを大きな声で言うと、とんでもないところに行ってしまうんです。
せめて小声でお家の中だけにとどめておくのがよいのでしょう。
役者の酒癖について?あるいは中年タレントの浮気騒動?
えっ、アイドルAKB48の大躍進だって!?
今年は仕事の都合でAKB48についてはかなり調べる機会があったもんで・・・。ちなみに私は仁藤萌乃ちゃん“推し”でっ♪
気に入ったコのファンになることを“●●推し”というらしくて・・・(汗)。
と、そんなことより、身近な事件で最も衝撃的だったのは大阪の育児放棄事件でした。
これが何故、身近な問題かというと、誰にでも育児を投げ出したくなることがあるかもしれないからです。
この事件の母、下村早苗のブログには
「待望の娘を出産、私はひとりじゃないんだと思わせてくれた小さな命」こう書かれてた。この思いと対照的に、約1ヶ月間、子どもを放置し死体を確認しに部屋に戻って「茶色くなっていた」と言ったこととのギャップはいったい何か?
単なる経済的な理由だったなら、福祉サービスをすんなり受けていればと悔やまれる。
暴力による虐待を「しつけ」という親。外部から「虐待」と認定しても今はなかなか強制的に介入できない。
そもそも虐待や育児放棄が起こる起こらないは個々の家族次第で、他人がよその子どもを救う必要があるのだろうか?
・・・これは必要だろう、と。
「ほっといてくれ」といわれそうだが、もし虐待や育児放棄が放置され、どこかの国のように街中の至る所で捨て子が転がってると、朝、出勤するサラリーマンのお父さんたちも、自分の子はそうでなくとも、そんな光景を毎日見てたら、やがて人格も壊れてくるでしょう。
やはり虐待を許す親が増えてもらっては困るのです。
では、育児放棄をした親たちを裁判にかけ、法律で粛々と掃除してゆく・・・。
これも育児放棄自体を防ぐにいたらないわけで。
子ども手当てに批判的な意見は多い。「こんなことより保育所建設や保育士育成などに金を回せ」と。
しかし応急処置としてはやむを得ない面もある。それがたとえ母親のパチンコ代に消えるとしても。
もの言えぬ乳児やSOSを出せない幼児にとって、ひとときの母親のストレス解消となることで被害が一時的に回避されるならば、だ。
だがいつまでも金を手当てしてゆけるのか?
そして大阪の下村早苗の場合、離婚して母子家庭になった後は、児童相談所が再三にわたって自宅訪問をしても不在で、子どもの予防接種や旧・児童手当てなど福祉の支援を受けることは一切なかったという。
つまり桜子ちゃんと楓くんは社会福祉からこぼれた「消えた子ども」となった。
結局、セーフティネットというものは“待ち”のサービスであり、受ける側の親が拒否したり、手を挙げなければ育児の支援にはならない。
福祉だけでは育児放棄を防ぐのに限界があることをものがたっている。
「バカな親に子を産む資格などない!」
おっしゃる通り。
だが、バカであるがゆえにただ生み散らかすのではないだろうか?子どもからは産んでくれと言ってないのに、不幸な親の元に生まれてしまう。
だからバカとされる親たちに「産むな!」と言うより、ちゃんと育てられるようにせねばなるまい。
下村早苗は長女の桜子ちゃんを産んだ当初、子どもを可愛がるごく普通のお母さんだったという。
子の誕生と発育を素直に喜ぶ内容がブログに切々と書き込まれていて。
このことから下村は次第に子育てがいやになっていったのだろう。
だが、子育てがいや→育児放棄という単純な流れでは片付けられない。
なぜならどんな母も育児にときどき疲れ、ときどき愛するもので、毎日ロボットのように子どもを愛せるなんてそうは人間できていない。
下村は彼女なり手を尽くし、ファッションヘルスで働くことまで選択し、育児放棄にいたったときは既に行き場を見失い、先行きを悲観し、ただ新しい男を求め失望のただ中にさらされてる極端な状態だっただろう、と。
しかし育児がいやになる状態は失望に値するのだろうか?
国連の提唱した国際家族年の宣言文では、理想の家族モデルで両親を「善き父、聖なる母」とうたっている。さぞご立派な男と女が子どもを産んで育てられるかのごとく、この基準(モデル)にみんな向いなさいと。
児童虐待の権威、斉藤先生はこの理念が、暗黙のうちに言葉に出すことなく深いレベルで生活に浸透していると指摘する。
「母はいつでも子を愛するもので“母性本能”を備えてるもの」という“掟”として、儒教から来た「親孝行」とうまく融合し“日本の伝統”と言う名で根付いてる。
この掟は逆に、育児に疲れることに罪の意識を背負わせてる、と。そして疲れきった母は無意識に自分に罪の意識を感じてあるとき失望してしまう。
「生まれてきてくれてありがとう」
この言葉自体にもちろん悪意はなくても、同時に「この子さえいなければ・・・」と愚痴のひとつすら口にすることも封じ込めることになったり、母親の落ち度を少しも許さない。
子育てをいい加減にやってもいいと言いたいのではない。「育児が母の喜びであることが当たり前なんだから」と、それを許さない空気を夫(男)、社会、周りの環境が無意識に作り出し、育児に疲れた母に自主的に責任を感じさせ、育児放棄へ向わせるきっかけになりえるものだ、と。
だから、母性本能などフィクションであると思うので丁度よいのである。
児童虐待にくわしい神庭先生によると、子が母に愛着を示すということは、赤ん坊が笑ったり、泣いたりして何かを求め、それを母が「喜んでる」「悲しんでる」と読み取り意味づけする。
更にこのやり取りが反復され、その体験を乳児は記憶して愛着を持ったり、コミュンケーションの手段を覚える、と。
つまり、何もはじめから母性本能で母と子は結ばれてるという神秘的なものではない。
「この子は私に会うために生まれてきた」とかパワースポットとか、オカルトを大きな声で言うと、とんでもないところに行ってしまうんです。
せめて小声でお家の中だけにとどめておくのがよいのでしょう。
敵は取手駅前にあらず
“自分のことはあまり話さない、友人のいない孤独な男だった。”
取手駅前でバスに乗っていた江戸川学園の生徒たちを切りつけた事件の加害者、斎藤勇太。
高校の卒業文集アンケートで「一生独身そうな人」1位、「ストレスがたまりそうな人」1位、「事件を起こしそうな人」4位。
これが斉藤につけられた形容詞だ。
とりあえず・・・教師は何をさせとるのかね?
斎藤は高校卒業後、職を転々とし、1年前に失業して事件直前は野宿をしていた。
弁護士が犯行動機は無職の境遇なのかと問うと「そうかも知れないが、仕事があっても事件を起していたかも知れない。」と説明した。
おそらく、仕事も良好な人間関係を持てることが前提に続けられるという意味で言ってるのだろう。
「人間関係が苦手だ、友人のひとりもつくれないオレは何もかもイヤになった。」とでも言いたいだろうか。
つまり斉藤は、個人(斉藤)が何もない状態から自助自立できて初めて、社会(会社)に参加できる資格があるという「自己責任論」を言っている。
しかしそれは勘違いだと言いたい。
2008年に起きた秋葉原連続殺傷事件のとき、加害者の加藤が派遣切りにあっていたこと、無職がゆえの犯行という論調を封じ込めた。
誰が?
端的にいうと経団連のオヤジさんたち。つまりクビ切りした大企業が悪者と連想させるようなマスコミの報道のさせ方を封じた。ダガーナイフの規制などでカモフラージュした。
この背景には、小泉・竹中路線と言われた時期に規制緩和として、労働の自由化を行い、企業が派遣社員を、よく言えば即戦力、悪く言えばいつでも辞めてもらえる人材を雇えるようにした。
「派遣切り」とはそのときの失敗のつけが今、回ってきている一現象なのである。
だから、不況で辞めてもらわざるを得ないと言うのは言い訳で、経営の失敗なのです。
それなのに、何とかコメンテーターは、
「働き方が自由になった、バンザイ!と喜んでたのはあなたたちじゃない」
「そもそも派遣というリスクをヘッジしておくのは自己責任じゃない」という。おやめなさい!
そして、この自己責任論には全く与しない。
自己責任論が今の形で語られるようになった歴史は、経済を成長させるために、労働の機能を都市部に集中させることで、効率よく収益を上げられるようにした。
しかし地域の崩壊や地域間格差をまねき、地域社会にあったコネなども失われ、自助自立は個人個人の競争に委ねられるようになった。
これが自己責任論の原型だ。
つまり、合理主義と引き換えに、つながりの希薄な無縁社会で暮らしてゆくことを余儀なくされた。
マンションの隣にどんな人が住んでるか分からないというやつですよ。
こうして地域を壊しておきながら、あとは自己の責任というのは、妥協した自助自立でないだろうか。決して社会構造の完成形としての考え方ではないと。
人間関係が苦手だったという斉藤。
しかし斉藤を取り巻く同級生、先生、親、大人たちもまた自己責任論を好むと好まざるとに関わらず受け入れ、たまたま人間関係が苦手という特徴を持った斉藤をキモイ、KYなどと言う事で、妥協した形で自分の立場の安全を確保した。
斉藤よ、お前も一緒になってたまたまいた誰かにナイフを振るい、妥協した形で自分の立場を確かめたのだ。
そこでこの崩壊しつつある社会構造の問題を、現場で取り組むソーシャルビジネスに期待したい。
なぜなら[地域や集団]→[個人]の順番で崩壊したのなら、やはり立て直すのも[地域や集団]→[個人]の順番だろうと。
だから、社会を構造から転換する可能性を大いに秘めたソーシャルビジネスに期待したい。
派遣村村長・湯浅誠氏、マザーハウス代表・山口絵理子氏たちだ。
そして彼らが共通して言ってるのが、人は何かが欠けてるのでなく、可能性を閉ざされてるだけという点。
欠けてる人がかわいそうという悪しきヒューマニズムではない。
自己責任論の洗脳から解いてくれる唯一の発想だと思う。
殺すのは誰でもよかった。それは誰を殺しても解は得られないと自分で言ってるじゃない。
お前の敵は取手駅前にあらず。
取手駅前でバスに乗っていた江戸川学園の生徒たちを切りつけた事件の加害者、斎藤勇太。
高校の卒業文集アンケートで「一生独身そうな人」1位、「ストレスがたまりそうな人」1位、「事件を起こしそうな人」4位。
これが斉藤につけられた形容詞だ。
とりあえず・・・教師は何をさせとるのかね?
斎藤は高校卒業後、職を転々とし、1年前に失業して事件直前は野宿をしていた。
弁護士が犯行動機は無職の境遇なのかと問うと「そうかも知れないが、仕事があっても事件を起していたかも知れない。」と説明した。
おそらく、仕事も良好な人間関係を持てることが前提に続けられるという意味で言ってるのだろう。
「人間関係が苦手だ、友人のひとりもつくれないオレは何もかもイヤになった。」とでも言いたいだろうか。
つまり斉藤は、個人(斉藤)が何もない状態から自助自立できて初めて、社会(会社)に参加できる資格があるという「自己責任論」を言っている。
しかしそれは勘違いだと言いたい。
2008年に起きた秋葉原連続殺傷事件のとき、加害者の加藤が派遣切りにあっていたこと、無職がゆえの犯行という論調を封じ込めた。
誰が?
端的にいうと経団連のオヤジさんたち。つまりクビ切りした大企業が悪者と連想させるようなマスコミの報道のさせ方を封じた。ダガーナイフの規制などでカモフラージュした。
この背景には、小泉・竹中路線と言われた時期に規制緩和として、労働の自由化を行い、企業が派遣社員を、よく言えば即戦力、悪く言えばいつでも辞めてもらえる人材を雇えるようにした。
「派遣切り」とはそのときの失敗のつけが今、回ってきている一現象なのである。
だから、不況で辞めてもらわざるを得ないと言うのは言い訳で、経営の失敗なのです。
それなのに、何とかコメンテーターは、
「働き方が自由になった、バンザイ!と喜んでたのはあなたたちじゃない」
「そもそも派遣というリスクをヘッジしておくのは自己責任じゃない」という。おやめなさい!
そして、この自己責任論には全く与しない。
自己責任論が今の形で語られるようになった歴史は、経済を成長させるために、労働の機能を都市部に集中させることで、効率よく収益を上げられるようにした。
しかし地域の崩壊や地域間格差をまねき、地域社会にあったコネなども失われ、自助自立は個人個人の競争に委ねられるようになった。
これが自己責任論の原型だ。
つまり、合理主義と引き換えに、つながりの希薄な無縁社会で暮らしてゆくことを余儀なくされた。
マンションの隣にどんな人が住んでるか分からないというやつですよ。
こうして地域を壊しておきながら、あとは自己の責任というのは、妥協した自助自立でないだろうか。決して社会構造の完成形としての考え方ではないと。
人間関係が苦手だったという斉藤。
しかし斉藤を取り巻く同級生、先生、親、大人たちもまた自己責任論を好むと好まざるとに関わらず受け入れ、たまたま人間関係が苦手という特徴を持った斉藤をキモイ、KYなどと言う事で、妥協した形で自分の立場の安全を確保した。
斉藤よ、お前も一緒になってたまたまいた誰かにナイフを振るい、妥協した形で自分の立場を確かめたのだ。
そこでこの崩壊しつつある社会構造の問題を、現場で取り組むソーシャルビジネスに期待したい。
なぜなら[地域や集団]→[個人]の順番で崩壊したのなら、やはり立て直すのも[地域や集団]→[個人]の順番だろうと。
だから、社会を構造から転換する可能性を大いに秘めたソーシャルビジネスに期待したい。
派遣村村長・湯浅誠氏、マザーハウス代表・山口絵理子氏たちだ。
そして彼らが共通して言ってるのが、人は何かが欠けてるのでなく、可能性を閉ざされてるだけという点。
欠けてる人がかわいそうという悪しきヒューマニズムではない。
自己責任論の洗脳から解いてくれる唯一の発想だと思う。
殺すのは誰でもよかった。それは誰を殺しても解は得られないと自分で言ってるじゃない。
お前の敵は取手駅前にあらず。
マンガ家先生たちが怒ってる
東京都の条例で「露骨な性行為の描写」「暴力的な強姦・レイプを誇張するもの」を含むマンガなど18歳未満への販売を規制する、と。
これにマンガ家先生たちが怒ってる。表現の自由侵害だ、と。
しかし東京都、マンガ家先生たち、双方の意見を聞いていると、おやおやと言いたくなるのです。
そしてここで議論されようとする“表現”とはイコール、「セックス」そして「暴力」・・・「死」、と?
おいちょっと待てよ、これってハリウッド映画お得意の表現手法じゃない。
もっぱらハリウッドの場合、この3つにドデカイ爆発音も入るらしいが。
これらの要素を作品に入れると、読者・視聴者に臨場感、リアリティを与え、作中に引き込むのにより効果的なんでしょう。
このテクニックを使えば容易に感情移入させて、ハラハラドキドキさせられる。つまり「おもしろかった」と思ってもらえる、と。
創作に常套テクニックを使うこと自体に今さら悪いとはいえないが、しかしこれらのテクニックを使わなければ、彼らのマンガ作品の表現はもうもたないと宣言しているようなもんじゃない。
結局、表現の自由と大それたことを謳いながら、ふたを開けてみればハリウッド仕込みのテクニックをめぐる論争に陥ってる。
ついでだからハリウッドをけなしておくと、(映画ファンのみなさんゴメンナサイ!!)リーマンショック以降、ハリウッド映画からヒット作が生まれていない。
スターウォーズ、ダイハード、ゴースト、タイタニックなどなど次々ヒット作が生まれてたのに?
それは投資マネーが一斉に去ったからです。
簡単に言えば、ハリウッドの至上命令は良い作品を創ることでなく、ヒット作、売れる物を作ることだったのです。
ヒット作メイクのテクニックごときをさも崇高な表現の自由とたてまつること自体に、大きなクエスチョンマークをつけたくなる。
「規制されると売れなくなっちゃうからやめてくれ」と誤魔化さないで本音を言ってちょうだい。
しかし一方で規制する側の論理も全くもっておかしい。というか危険な発想だとも思う。
有害とされる図書を隠してしまおう。これで子供達が健全に育つ、と。なんだかおかしくない?
もう十年以上も前になるが、酒鬼薔薇の事件にひとつのヒントがあるように思う。
彼の場合、カエルの解剖ではじめて勃起し、内蔵を食うのを想像してマスターベーションしてた、と。
そして近所の小学生の首を切って校門に置いた。その小学生の死体でもマスターベーションをした、と。
彼はネクロフィリア(死体愛好)、ペドフィリア(児童性愛)とされているが、彼の生い立ちの背景に父親の無関心、母親からの異常な抑圧や、友人からの壮絶ないじめがあったことは見逃してはならない。
また異常性欲者ではないが、秋葉原連続殺傷事件の加藤の場合も、子供時代の恋愛観を母親から徹底的に否定されていたとある。
つまりこういいたい。
卑猥なマンガ作品がそこにあるだけで犯罪の温床となるのではない。
なぜなら普通の感じ方だと犯罪行為に嫌悪感を示し、少なくとも犯罪の一歩手前で踏みとどまる力が子供とて持っているはず。
一歩踏みとどまらず、異常なものに固執しコミットしてしまう“感じ方”の問題だろう、と。
つまり異常なものに固執してしまわなければ、自己を開放できない何ほどかの背景があるわけで、それが子供たちの場合、壮絶ないじめや親からの抑圧が大きく影響する。そして行き場を失った自己がタブーとされる領域になぜか開放感を覚える、その“感じ方”。
卑猥なマンガを読んである日突然、天から異常な性向が降ってくるわけではない。
なぜタブーの領域でしか自己を開放できないか?
はっきりとは分からない。しかしそこに至る背景は色濃く映し出されてる。
ですから世のお母さん方たち、端的に言えば、男の子のマスターベーションくらいで動揺しないでやってください、と。
親御さんたち、嘘でもいいから子供に関心を持ってやってくださいな、と。
てことで、今回の条例改正の影響は「マンガ家先生の儲けが減る」だけです。子供は健全になりませ~ん♪
これにマンガ家先生たちが怒ってる。表現の自由侵害だ、と。
しかし東京都、マンガ家先生たち、双方の意見を聞いていると、おやおやと言いたくなるのです。
そしてここで議論されようとする“表現”とはイコール、「セックス」そして「暴力」・・・「死」、と?
おいちょっと待てよ、これってハリウッド映画お得意の表現手法じゃない。
もっぱらハリウッドの場合、この3つにドデカイ爆発音も入るらしいが。
これらの要素を作品に入れると、読者・視聴者に臨場感、リアリティを与え、作中に引き込むのにより効果的なんでしょう。
このテクニックを使えば容易に感情移入させて、ハラハラドキドキさせられる。つまり「おもしろかった」と思ってもらえる、と。
創作に常套テクニックを使うこと自体に今さら悪いとはいえないが、しかしこれらのテクニックを使わなければ、彼らのマンガ作品の表現はもうもたないと宣言しているようなもんじゃない。
結局、表現の自由と大それたことを謳いながら、ふたを開けてみればハリウッド仕込みのテクニックをめぐる論争に陥ってる。
ついでだからハリウッドをけなしておくと、(映画ファンのみなさんゴメンナサイ!!)リーマンショック以降、ハリウッド映画からヒット作が生まれていない。
スターウォーズ、ダイハード、ゴースト、タイタニックなどなど次々ヒット作が生まれてたのに?
それは投資マネーが一斉に去ったからです。
簡単に言えば、ハリウッドの至上命令は良い作品を創ることでなく、ヒット作、売れる物を作ることだったのです。
ヒット作メイクのテクニックごときをさも崇高な表現の自由とたてまつること自体に、大きなクエスチョンマークをつけたくなる。
「規制されると売れなくなっちゃうからやめてくれ」と誤魔化さないで本音を言ってちょうだい。
しかし一方で規制する側の論理も全くもっておかしい。というか危険な発想だとも思う。
有害とされる図書を隠してしまおう。これで子供達が健全に育つ、と。なんだかおかしくない?
もう十年以上も前になるが、酒鬼薔薇の事件にひとつのヒントがあるように思う。
彼の場合、カエルの解剖ではじめて勃起し、内蔵を食うのを想像してマスターベーションしてた、と。
そして近所の小学生の首を切って校門に置いた。その小学生の死体でもマスターベーションをした、と。
彼はネクロフィリア(死体愛好)、ペドフィリア(児童性愛)とされているが、彼の生い立ちの背景に父親の無関心、母親からの異常な抑圧や、友人からの壮絶ないじめがあったことは見逃してはならない。
また異常性欲者ではないが、秋葉原連続殺傷事件の加藤の場合も、子供時代の恋愛観を母親から徹底的に否定されていたとある。
つまりこういいたい。
卑猥なマンガ作品がそこにあるだけで犯罪の温床となるのではない。
なぜなら普通の感じ方だと犯罪行為に嫌悪感を示し、少なくとも犯罪の一歩手前で踏みとどまる力が子供とて持っているはず。
一歩踏みとどまらず、異常なものに固執しコミットしてしまう“感じ方”の問題だろう、と。
つまり異常なものに固執してしまわなければ、自己を開放できない何ほどかの背景があるわけで、それが子供たちの場合、壮絶ないじめや親からの抑圧が大きく影響する。そして行き場を失った自己がタブーとされる領域になぜか開放感を覚える、その“感じ方”。
卑猥なマンガを読んである日突然、天から異常な性向が降ってくるわけではない。
なぜタブーの領域でしか自己を開放できないか?
はっきりとは分からない。しかしそこに至る背景は色濃く映し出されてる。
ですから世のお母さん方たち、端的に言えば、男の子のマスターベーションくらいで動揺しないでやってください、と。
親御さんたち、嘘でもいいから子供に関心を持ってやってくださいな、と。
てことで、今回の条例改正の影響は「マンガ家先生の儲けが減る」だけです。子供は健全になりませ~ん♪
海老蔵がどうしたってぇ?
歌舞伎役者の市川海老蔵が酒場で半殺しの目にあったとか。
酒乱の癖があったのか、少々度が過ぎたのか、人間国宝クラスの芸に対するストレスもさぞかしおありだったのでしょうか。
何があったか良く知らないが、しかし大衆の意見を集約すれは多かれ少なかれこういうものじゃないでしょうか。
「ざまあみろ、六本木で毎日飲み歩きやがって、女子アナと結婚してデカイ顔しやがって、伝統芸能にたずさわるものがけしからん」と。
このようなある意味特権階級の人たちの失敗は、同じことの繰り返しの一般人にとっては、声を大にして言わないまでも、どこか痛快な一面があるのだろう。
無理もない。私たち一般人はとうてい特権階級(本当は日本に特権階級などないが)に出入りを許されることはない、それを空気で分かってる。だったら、せめて失脚劇を楽しんでやろうとする気持ちはわかる。
しかし私のようなスケベ根性丸出しの者からすれば、ここに日本特有の資本主義の論理がちらちら見え隠れするのであります。
経営者H氏が資本主義は人気商売だと言いました。
人気商売とは世間の人気を得ることで成り立つ職業で、自分の努力と別に他人の評価が必要になってくる。
人気とはシーソーのようなものと例えられる。
自分がシーソーの片方に乗ってるだけじゃいつまでたっても地面に足がついてる。
しかし誰かがもう片方に乗ってくれれば、上に浮き上がるチャンスが生まれる。しかし一方で確実に今度は誰かが地面に足がついてしまうわけで。
だから持てるものは常に世間のねたみにさらされ、いつ足元をすくわれ、その座を追われるかわからないような宿命を背負わされる。ひとり勝ちは許さん、と。
成功者は手放しで賞賛されるようになれば、もう少しマシな上下関係が出来ると思うのだが。
これについては、アメリカ、中国というあまりお手本にしたくない大国の方が少々よい考え方がある。
アメリカはキリスト教的宗教観にチャリティーの精神があって、ビルゲイツやバフェットのような資産家は多額の寄付をして、少なからず世の中に還元しようとする考え方がある。
あの中国でさえも鄧小平が「先富論」と言ったように「先に豊かになれる者から豊かになれ、その後に落伍者を助けよ」という考え方で今の成長を遂げたわけです。
ボランティアにしても日本だとどこか偽善的な響きに聞こえる。
これも他人のために何かやっても自分の得にならないという諦め、疑いが根付いてるからでしょう。
競争が根本原理の資本主義を引き受けるものとしては少々甘いか?
しかし金持ち三代続かずというように、競争の果てにあるものを想像する力くらいは持ってあの世にいってもらいたい。
酒乱の癖があったのか、少々度が過ぎたのか、人間国宝クラスの芸に対するストレスもさぞかしおありだったのでしょうか。
何があったか良く知らないが、しかし大衆の意見を集約すれは多かれ少なかれこういうものじゃないでしょうか。
「ざまあみろ、六本木で毎日飲み歩きやがって、女子アナと結婚してデカイ顔しやがって、伝統芸能にたずさわるものがけしからん」と。
このようなある意味特権階級の人たちの失敗は、同じことの繰り返しの一般人にとっては、声を大にして言わないまでも、どこか痛快な一面があるのだろう。
無理もない。私たち一般人はとうてい特権階級(本当は日本に特権階級などないが)に出入りを許されることはない、それを空気で分かってる。だったら、せめて失脚劇を楽しんでやろうとする気持ちはわかる。
しかし私のようなスケベ根性丸出しの者からすれば、ここに日本特有の資本主義の論理がちらちら見え隠れするのであります。
経営者H氏が資本主義は人気商売だと言いました。
人気商売とは世間の人気を得ることで成り立つ職業で、自分の努力と別に他人の評価が必要になってくる。
人気とはシーソーのようなものと例えられる。
自分がシーソーの片方に乗ってるだけじゃいつまでたっても地面に足がついてる。
しかし誰かがもう片方に乗ってくれれば、上に浮き上がるチャンスが生まれる。しかし一方で確実に今度は誰かが地面に足がついてしまうわけで。
だから持てるものは常に世間のねたみにさらされ、いつ足元をすくわれ、その座を追われるかわからないような宿命を背負わされる。ひとり勝ちは許さん、と。
成功者は手放しで賞賛されるようになれば、もう少しマシな上下関係が出来ると思うのだが。
これについては、アメリカ、中国というあまりお手本にしたくない大国の方が少々よい考え方がある。
アメリカはキリスト教的宗教観にチャリティーの精神があって、ビルゲイツやバフェットのような資産家は多額の寄付をして、少なからず世の中に還元しようとする考え方がある。
あの中国でさえも鄧小平が「先富論」と言ったように「先に豊かになれる者から豊かになれ、その後に落伍者を助けよ」という考え方で今の成長を遂げたわけです。
ボランティアにしても日本だとどこか偽善的な響きに聞こえる。
これも他人のために何かやっても自分の得にならないという諦め、疑いが根付いてるからでしょう。
競争が根本原理の資本主義を引き受けるものとしては少々甘いか?
しかし金持ち三代続かずというように、競争の果てにあるものを想像する力くらいは持ってあの世にいってもらいたい。
耳かき店員殺害事件と婚活詐欺事件
最初にことわっておくが、事件の被害者に何の落ち度もないと強調しておきたい。
耳かき店員殺害事件とは、耳かきエステに1年以上も通いつめた客の林貢二(42)が店員の江尻美保さんに恋心を抱き、ストーカー行為の挙句、美保さんの自宅で祖母と共に包丁で殺害した事件。
婚活詐欺事件とは、木嶋佳苗容疑者が婚活サイトで次々に知り合った男性から金をだまし取った挙句、自殺に見せかけ殺害し、大出嘉之さん(41)が殺害されたことをきっかけに余罪が判明した事件。
この二つの事件には見逃せない共通項がある。
・40歳過ぎいわゆるアフラフォー世代の男性が関わってしまったこと
・男女の問題、つまり恋愛を背景にして起こった事件であること
一方は加害者、もう一方は被害者である。しかし事件の背景にこの共通項が垣間見える。
なぜアラフォー世代の男がこのように恋愛というものにもてあそばれたのか?
それはひとえに・・・
彼らがモテないからである。
そして、モテないとは一般的に言われる、見た目や性格という人間の表面に現れてる性向を指してるのではなく、
人とのつながりが持てない=モテないということを意味する。
なぜ彼らが人とつながりを持ててないといえるのか?
林貢二の場合、一方的な恋愛感情という犯行の動機が如実にものがたっている。
「今、耳かき店に通ってて20歳すぎのかわいいオナゴがいる。何とか彼女にしたい。」
「やめておけ、無理とは言わんが妄想に支配されすぎてないか?」
その一言が仲間からあったなら。仲間の忠告が、なぜそういうのかと立ち止まらせ、自分を冷静に見るきっかけになったかも知れない。
「フラれたか、女など幾らでもいる。飲みにいくぞ!」そんな仲間。
そして大出さんの場合、もしつながりを持つことに慣れていれば、
いくらやさしく接してくれても数百万という金をせびってくる女に、どこか怪しさを皮膚感覚で感じ取り、浅はかな女の画策など見破れたのでないかと悔やまれる。
ではどうしたらつながりを持てたのだろうか?
確かに人によって遺伝的に内向的な性格もあると思う。しかし、そういうおとなしい人でも、しっかりつながりを持ててる人は幾らでもいる。
だからやっぱり、後天的に生まれてから5年、10年くらいの経験が、つながりが持てる、持てない個性が形成されるのに大きな影響をもたらすのではないだろうか。
そして生まれてから5年、10年くらいの経験というのは一般的には家庭環境に起因するものだろう。
例えば、虐待を受けた人が大人になって自分の子供に虐待をしてしまう(あくまでも統計的に3割未満の人といわれてて、必ずしも皆がそうではないが)という例のように親を見て育つ子供としては、虐待の日常しか経験してないので、それが再現されても何の不思議もない。
だから仲良くしてる親を見て育つ子供は、無意識に仲良い家庭を築くだろうし、その逆も然り。
いくらドラマやテレビCMの温かい家庭を見せられても経験してなければ、思うように再現できないのは当たり前。親のいない子でも親だけでなく他にも様々な大人との関係の中で育つわけでその中の経験が重要だろうと。
そこで、親、大人たちは子供らに教えてやるべきことはたったひとつ。
「仲間の作り方」
男なら、女の口説き方、女なら男の見極め方。
それをそのままオヤジが女を口説くセリフをとくとくと教えるのでなく、夫婦、親子関係のふるまいを通して、無意識に伝授されるといった方がいいかもしれない。
公務員になるための勉強やピアノレッスンなど処世術を教えるのも大事だろうが、最低限、仲間の作り方だけ教えてやっておけば、後は適当でいいんじゃない。
金の切れ目が縁の切れ目。これは逆で縁の切れ目が金の切れ目。仲間を幾らでも作れれば、少なくとも食べて行けるもんなのさ、と。
最後につながりをもてないアラフォーに言いたい。
数を当たれと。
日本人は1億2千万人いるが、なぜか分かるだろうか?
1億という数はどんだけの数か?
1億から無視されることなど不可能な数字なのさ。
ひと昔前だと、1億を相手に商売をするだけで世界トップの富を得られたのだし。
案ずるな、気の合うオナゴのひとりやふたり必ず出てくる。現にオナゴも婚活?トンカツ?などと溢れ返ってるのだから。出会いを重ねる内にあんたの奥手な性格など、つながりを持てない理由にならなくなるさ。
耳かき店員殺害事件とは、耳かきエステに1年以上も通いつめた客の林貢二(42)が店員の江尻美保さんに恋心を抱き、ストーカー行為の挙句、美保さんの自宅で祖母と共に包丁で殺害した事件。
婚活詐欺事件とは、木嶋佳苗容疑者が婚活サイトで次々に知り合った男性から金をだまし取った挙句、自殺に見せかけ殺害し、大出嘉之さん(41)が殺害されたことをきっかけに余罪が判明した事件。
この二つの事件には見逃せない共通項がある。
・40歳過ぎいわゆるアフラフォー世代の男性が関わってしまったこと
・男女の問題、つまり恋愛を背景にして起こった事件であること
一方は加害者、もう一方は被害者である。しかし事件の背景にこの共通項が垣間見える。
なぜアラフォー世代の男がこのように恋愛というものにもてあそばれたのか?
それはひとえに・・・
彼らがモテないからである。
そして、モテないとは一般的に言われる、見た目や性格という人間の表面に現れてる性向を指してるのではなく、
人とのつながりが持てない=モテないということを意味する。
なぜ彼らが人とつながりを持ててないといえるのか?
林貢二の場合、一方的な恋愛感情という犯行の動機が如実にものがたっている。
「今、耳かき店に通ってて20歳すぎのかわいいオナゴがいる。何とか彼女にしたい。」
「やめておけ、無理とは言わんが妄想に支配されすぎてないか?」
その一言が仲間からあったなら。仲間の忠告が、なぜそういうのかと立ち止まらせ、自分を冷静に見るきっかけになったかも知れない。
「フラれたか、女など幾らでもいる。飲みにいくぞ!」そんな仲間。
そして大出さんの場合、もしつながりを持つことに慣れていれば、
いくらやさしく接してくれても数百万という金をせびってくる女に、どこか怪しさを皮膚感覚で感じ取り、浅はかな女の画策など見破れたのでないかと悔やまれる。
ではどうしたらつながりを持てたのだろうか?
確かに人によって遺伝的に内向的な性格もあると思う。しかし、そういうおとなしい人でも、しっかりつながりを持ててる人は幾らでもいる。
だからやっぱり、後天的に生まれてから5年、10年くらいの経験が、つながりが持てる、持てない個性が形成されるのに大きな影響をもたらすのではないだろうか。
そして生まれてから5年、10年くらいの経験というのは一般的には家庭環境に起因するものだろう。
例えば、虐待を受けた人が大人になって自分の子供に虐待をしてしまう(あくまでも統計的に3割未満の人といわれてて、必ずしも皆がそうではないが)という例のように親を見て育つ子供としては、虐待の日常しか経験してないので、それが再現されても何の不思議もない。
だから仲良くしてる親を見て育つ子供は、無意識に仲良い家庭を築くだろうし、その逆も然り。
いくらドラマやテレビCMの温かい家庭を見せられても経験してなければ、思うように再現できないのは当たり前。親のいない子でも親だけでなく他にも様々な大人との関係の中で育つわけでその中の経験が重要だろうと。
そこで、親、大人たちは子供らに教えてやるべきことはたったひとつ。
「仲間の作り方」
男なら、女の口説き方、女なら男の見極め方。
それをそのままオヤジが女を口説くセリフをとくとくと教えるのでなく、夫婦、親子関係のふるまいを通して、無意識に伝授されるといった方がいいかもしれない。
公務員になるための勉強やピアノレッスンなど処世術を教えるのも大事だろうが、最低限、仲間の作り方だけ教えてやっておけば、後は適当でいいんじゃない。
金の切れ目が縁の切れ目。これは逆で縁の切れ目が金の切れ目。仲間を幾らでも作れれば、少なくとも食べて行けるもんなのさ、と。
最後につながりをもてないアラフォーに言いたい。
数を当たれと。
日本人は1億2千万人いるが、なぜか分かるだろうか?
1億という数はどんだけの数か?
1億から無視されることなど不可能な数字なのさ。
ひと昔前だと、1億を相手に商売をするだけで世界トップの富を得られたのだし。
案ずるな、気の合うオナゴのひとりやふたり必ず出てくる。現にオナゴも婚活?トンカツ?などと溢れ返ってるのだから。出会いを重ねる内にあんたの奥手な性格など、つながりを持てない理由にならなくなるさ。