2010年の衝撃、育児放棄~ネグレクト | 「異端児、常識を疑う」

2010年の衝撃、育児放棄~ネグレクト

2010年、最も衝撃的な事件は・・・?
役者の酒癖について?あるいは中年タレントの浮気騒動?
えっ、アイドルAKB48の大躍進だって!?

今年は仕事の都合でAKB48についてはかなり調べる機会があったもんで・・・。ちなみに私は仁藤萌乃ちゃん“推し”でっ♪
気に入ったコのファンになることを“●●推し”というらしくて・・・(汗)。


と、そんなことより、身近な事件で最も衝撃的だったのは大阪の育児放棄事件でした。
これが何故、身近な問題かというと、誰にでも育児を投げ出したくなることがあるかもしれないからです。

この事件の母、下村早苗のブログには
「待望の娘を出産、私はひとりじゃないんだと思わせてくれた小さな命」こう書かれてた。この思いと対照的に、約1ヶ月間、子どもを放置し死体を確認しに部屋に戻って「茶色くなっていた」と言ったこととのギャップはいったい何か?
単なる経済的な理由だったなら、福祉サービスをすんなり受けていればと悔やまれる。

暴力による虐待を「しつけ」という親。外部から「虐待」と認定しても今はなかなか強制的に介入できない。
そもそも虐待や育児放棄が起こる起こらないは個々の家族次第で、他人がよその子どもを救う必要があるのだろうか?

・・・これは必要だろう、と。

「ほっといてくれ」といわれそうだが、もし虐待や育児放棄が放置され、どこかの国のように街中の至る所で捨て子が転がってると、朝、出勤するサラリーマンのお父さんたちも、自分の子はそうでなくとも、そんな光景を毎日見てたら、やがて人格も壊れてくるでしょう。
やはり虐待を許す親が増えてもらっては困るのです。

では、育児放棄をした親たちを裁判にかけ、法律で粛々と掃除してゆく・・・。
これも育児放棄自体を防ぐにいたらないわけで。

子ども手当てに批判的な意見は多い。「こんなことより保育所建設や保育士育成などに金を回せ」と。
しかし応急処置としてはやむを得ない面もある。それがたとえ母親のパチンコ代に消えるとしても。
もの言えぬ乳児やSOSを出せない幼児にとって、ひとときの母親のストレス解消となることで被害が一時的に回避されるならば、だ。
だがいつまでも金を手当てしてゆけるのか?

そして大阪の下村早苗の場合、離婚して母子家庭になった後は、児童相談所が再三にわたって自宅訪問をしても不在で、子どもの予防接種や旧・児童手当てなど福祉の支援を受けることは一切なかったという。
つまり桜子ちゃんと楓くんは社会福祉からこぼれた「消えた子ども」となった。

結局、セーフティネットというものは“待ち”のサービスであり、受ける側の親が拒否したり、手を挙げなければ育児の支援にはならない。
福祉だけでは育児放棄を防ぐのに限界があることをものがたっている。

「バカな親に子を産む資格などない!」
おっしゃる通り。
だが、バカであるがゆえにただ生み散らかすのではないだろうか?子どもからは産んでくれと言ってないのに、不幸な親の元に生まれてしまう。
だからバカとされる親たちに「産むな!」と言うより、ちゃんと育てられるようにせねばなるまい。

下村早苗は長女の桜子ちゃんを産んだ当初、子どもを可愛がるごく普通のお母さんだったという。
子の誕生と発育を素直に喜ぶ内容がブログに切々と書き込まれていて。
このことから下村は次第に子育てがいやになっていったのだろう。

だが、子育てがいや→育児放棄という単純な流れでは片付けられない。
なぜならどんな母も育児にときどき疲れ、ときどき愛するもので、毎日ロボットのように子どもを愛せるなんてそうは人間できていない。
下村は彼女なり手を尽くし、ファッションヘルスで働くことまで選択し、育児放棄にいたったときは既に行き場を見失い、先行きを悲観し、ただ新しい男を求め失望のただ中にさらされてる極端な状態だっただろう、と。

しかし育児がいやになる状態は失望に値するのだろうか?

国連の提唱した国際家族年の宣言文では、理想の家族モデルで両親を「善き父、聖なる母」とうたっている。さぞご立派な男と女が子どもを産んで育てられるかのごとく、この基準(モデル)にみんな向いなさいと。

児童虐待の権威、斉藤先生はこの理念が、暗黙のうちに言葉に出すことなく深いレベルで生活に浸透していると指摘する。
「母はいつでも子を愛するもので“母性本能”を備えてるもの」という“掟”として、儒教から来た「親孝行」とうまく融合し“日本の伝統”と言う名で根付いてる。
この掟は逆に、育児に疲れることに罪の意識を背負わせてる、と。そして疲れきった母は無意識に自分に罪の意識を感じてあるとき失望してしまう。

「生まれてきてくれてありがとう」
この言葉自体にもちろん悪意はなくても、同時に「この子さえいなければ・・・」と愚痴のひとつすら口にすることも封じ込めることになったり、母親の落ち度を少しも許さない。
子育てをいい加減にやってもいいと言いたいのではない。「育児が母の喜びであることが当たり前なんだから」と、それを許さない空気を夫(男)、社会、周りの環境が無意識に作り出し、育児に疲れた母に自主的に責任を感じさせ、育児放棄へ向わせるきっかけになりえるものだ、と。

だから、母性本能などフィクションであると思うので丁度よいのである。
児童虐待にくわしい神庭先生によると、子が母に愛着を示すということは、赤ん坊が笑ったり、泣いたりして何かを求め、それを母が「喜んでる」「悲しんでる」と読み取り意味づけする。
更にこのやり取りが反復され、その体験を乳児は記憶して愛着を持ったり、コミュンケーションの手段を覚える、と。
つまり、何もはじめから母性本能で母と子は結ばれてるという神秘的なものではない。

「この子は私に会うために生まれてきた」とかパワースポットとか、オカルトを大きな声で言うと、とんでもないところに行ってしまうんです。
せめて小声でお家の中だけにとどめておくのがよいのでしょう。