京大カンニング青年
二十歳前後の人生これからという青年が、なぜ人生を棒に振りかねない捨て身の暴挙に出てしまったのだろうか?
京都大学の二次試験中にYahoo知恵袋を使ってカンニングした予備校生、19歳。就職活動に悩んだ挙句に自殺しようと思い、就活帰りに乗った高速バスを横転させた大学生、楫田(かじた)優希、22歳。
いずれも自分の状況に切羽詰っての行動だった。
カンニングした予備校生は、母子家庭で何としても合格しなければならないという事情でやったと。
バスを横転させた楫田は就職活動がうまく行かないストレスが理由だったと。
しかしこれらの行動は、青年らの気質や育ち方に問題があるという直接的な見方はできるものの、もう少しよく考えてみると、受験や就職が人生を大きく左右するという狭い世界観、まぎれもなくそういう切羽詰った社会の風景しか彼らには見えてなかったゆえの暴挙だったと解釈できる。
就職氷河期で学生の質が落ちてるわけでもないのに数十社以上も断られたり、そういう先輩たちを見て自分の実力よりひとつでも上の大学を目指そうとする受験生らにとってこの事件の当事者でなくとも、今ほとんどの学生は将来を悲観し、大きな不安を感じてるのだろう。
一方で、努力した結果それに見合った成功や高い報酬が得られるべきであるという自己責任論の立場からは 努力が足りないゆえの失敗、成功した者は皆努力してきたという正論もある。だからこいつらは自分に負けたのだ、と。
そして双方の言い分を踏まえた社会の現状はというと、生活保護所帯が今120万世帯を超え、統計をはじめてから最大の数になったそうだが、これは社会の不安が実害として現れてる端的な例と言える。120万世帯もいれば何割かは怠け者だったかも知れないが、まじめに努力してた者もそうとうの数いると思うのだが。
事件を起こした青年たちを無条件にかばうつもりはないが、自己責任論で片付けてしまいたい風潮にもひとこと言いたい。人間は犬猫と違い、過去を振り返り、未来を展望する、どうしても時間を意識する生き物で、将来の見通しをある程度たてられて初めて、ヤケを起こさず地道な努力をしてみようか、努力が報われるはずだと活力が生まれるというものである。市場競争でも負けるかも知れないが、勝つ見込みも少しはあるなら参加する意欲もわくが、はじめから負ける競争に参加したがらないんですよ。
これは我が敬愛する西部邁先生がよく言うことです。(若干のニュアンスは違うかもしれないが)
オレなりに解釈すると、生きるか死ぬか分からないような状況で出てくる活力はヤケクソに近いということです。「死ぬ気でやれ」とよく簡単にいうが、人間、本当に死を意識した状況では恐るべき力を発揮すると同時に常識的な判断もできない可能性も十分あると言うことです。バス横転は死ぬ気だったらしいし。
これじゃ周りも迷惑の巻き添えになりかねないのです。
言っておくが、怠けてる奴には根性論を叩き込むべきと思いますよ。
だが隣をちょっと見たら生活保護で貧しい暮らしが厳然としてるような社会不安に陥れておいて、普通に生きてる者に「お前が悪い」とだけで片付けてしまう自己責任論は“状況論”を踏まえてないという最大の欠点があるのも事実です。問題行動の表側には個々人の人としての責任は確かにある、一方裏側に必ず社会文化的な要因があることは面倒くさいから見逃してしまうのも事実。途上国で貧しい人々をつかまえて、お前らが貧しいのは自己責任だ、なんて言うと国民全員が怠けていたということになるでしょ。
自己責任論のいい面もあるんだが、考えないで済むから誰でも使いまわしてるだけなんです。
つまり社会不安を与えないこと、これこそが最大の社会保障なのだが、それが具体的に生活保護や年金の生活保障として現れてるだけであって、貧乏人にいくら恵むかという議論だけが注目されがちだから、自己責任論で片付けたくなるのです。
西部邁先生のお言葉を紋切り型で使わせてもらうと、社会を作るのに失敗してるんですよ、日本は。
京都大学の二次試験中にYahoo知恵袋を使ってカンニングした予備校生、19歳。就職活動に悩んだ挙句に自殺しようと思い、就活帰りに乗った高速バスを横転させた大学生、楫田(かじた)優希、22歳。
いずれも自分の状況に切羽詰っての行動だった。
カンニングした予備校生は、母子家庭で何としても合格しなければならないという事情でやったと。
バスを横転させた楫田は就職活動がうまく行かないストレスが理由だったと。
しかしこれらの行動は、青年らの気質や育ち方に問題があるという直接的な見方はできるものの、もう少しよく考えてみると、受験や就職が人生を大きく左右するという狭い世界観、まぎれもなくそういう切羽詰った社会の風景しか彼らには見えてなかったゆえの暴挙だったと解釈できる。
就職氷河期で学生の質が落ちてるわけでもないのに数十社以上も断られたり、そういう先輩たちを見て自分の実力よりひとつでも上の大学を目指そうとする受験生らにとってこの事件の当事者でなくとも、今ほとんどの学生は将来を悲観し、大きな不安を感じてるのだろう。
一方で、努力した結果それに見合った成功や高い報酬が得られるべきであるという自己責任論の立場からは 努力が足りないゆえの失敗、成功した者は皆努力してきたという正論もある。だからこいつらは自分に負けたのだ、と。
そして双方の言い分を踏まえた社会の現状はというと、生活保護所帯が今120万世帯を超え、統計をはじめてから最大の数になったそうだが、これは社会の不安が実害として現れてる端的な例と言える。120万世帯もいれば何割かは怠け者だったかも知れないが、まじめに努力してた者もそうとうの数いると思うのだが。
事件を起こした青年たちを無条件にかばうつもりはないが、自己責任論で片付けてしまいたい風潮にもひとこと言いたい。人間は犬猫と違い、過去を振り返り、未来を展望する、どうしても時間を意識する生き物で、将来の見通しをある程度たてられて初めて、ヤケを起こさず地道な努力をしてみようか、努力が報われるはずだと活力が生まれるというものである。市場競争でも負けるかも知れないが、勝つ見込みも少しはあるなら参加する意欲もわくが、はじめから負ける競争に参加したがらないんですよ。
これは我が敬愛する西部邁先生がよく言うことです。(若干のニュアンスは違うかもしれないが)
オレなりに解釈すると、生きるか死ぬか分からないような状況で出てくる活力はヤケクソに近いということです。「死ぬ気でやれ」とよく簡単にいうが、人間、本当に死を意識した状況では恐るべき力を発揮すると同時に常識的な判断もできない可能性も十分あると言うことです。バス横転は死ぬ気だったらしいし。
これじゃ周りも迷惑の巻き添えになりかねないのです。
言っておくが、怠けてる奴には根性論を叩き込むべきと思いますよ。
だが隣をちょっと見たら生活保護で貧しい暮らしが厳然としてるような社会不安に陥れておいて、普通に生きてる者に「お前が悪い」とだけで片付けてしまう自己責任論は“状況論”を踏まえてないという最大の欠点があるのも事実です。問題行動の表側には個々人の人としての責任は確かにある、一方裏側に必ず社会文化的な要因があることは面倒くさいから見逃してしまうのも事実。途上国で貧しい人々をつかまえて、お前らが貧しいのは自己責任だ、なんて言うと国民全員が怠けていたということになるでしょ。
自己責任論のいい面もあるんだが、考えないで済むから誰でも使いまわしてるだけなんです。
つまり社会不安を与えないこと、これこそが最大の社会保障なのだが、それが具体的に生活保護や年金の生活保障として現れてるだけであって、貧乏人にいくら恵むかという議論だけが注目されがちだから、自己責任論で片付けたくなるのです。
西部邁先生のお言葉を紋切り型で使わせてもらうと、社会を作るのに失敗してるんですよ、日本は。
モンスター●●という言葉はよくない
「モンスターペアレント」とか「モンスターティーチャー」という言葉はよくないね。
モンスターペアレントといった瞬間、無条件で親が悪いと決まってしまうことになるし、逆に生徒指導で手を上げる教師をモンスターティーチャーというとき、昔ならそんな先生ゴロゴロいたもんで、時と場合、状況を踏まえて話さないと、双方、納得ゆかなくなる。
でないと、手を上げる教師は「オレが子供のころは当たり前だったぞ」と親と教師の認識の違いがいっこうに埋まらない。
「モンスターなんとか問題」は正確には「親と教師の食い違い問題」というべきだろうね。
だが、この問題の主人公は“子供”なわけで、子供を育てたり教えたりするのに、親も教師も苦労してるところに原因があるんだな。
最近、子供らしくない子供が多いと思わない?
英単語をペラペラ話す子(話すよう仕向けられてる子)、駅名を暗記して親に自慢する子供(自慢するよう仕向けられてる子)。
陰湿ないじめをする子供、教師や大人に対し生意気な子供などなど。どれも子供らしくない。
別に英語や駅名を覚えること自体どうでもいいが、その影に親の入れ知恵が見え隠れしてしまうのが不自然な感じ。
本当は子供たちはそんなこと覚えたくないかもしれない。
陰湿ないじめなんて成人になってから好きなだけできるのに、覚えるにはちと早すぎやしないか。
ち○○んに毛が生えてもないくせに生意気な口をききすぎるし。
そして子供社会の中で英単語を、駅名を話せる奴がスゴイとなって、やがて話せないグループの中からいじめられる奴が出てくる。勘弁してよ。
この前、今年の大学センター試験の問題を解いてみたけど、つまらなかったね。
頭が悪いから間違えたんだろうけど、全部ひっかけ問題なのさ。駅名の順番を間違えたようなもの。全部総武線の駅名なんだからいいじゃないっていうような問題さ。
つまり高校生くらいまでの勉強って、たいしたことやってないのよ。
多分ちゃんと教えれば誰だって理解できるのよ、差がつくことがおかしい。
教師だって立派な人がそんなにいるもんじゃない。少なくともオレの経験上、印象に残ってる教師などいない。
たいした教科書やたいした教師がいるわけでもないのに差をつけられるなんて、子供同士、意味ないとこでジェラシーを募らせてると思うよ。
もちろん教師で立派な人もおられるし、ひとくくりにするのは乱暴だが、そんな不完全な教師に親たちはたくさん求める。
「うちの子は50点だ。70点取れるよう教えられてないのはあんたたち教師の力不足だ」という理屈。
聞いたら平均点は50点らしく、あんたたちのような親の子供にしては上出来じゃないかと思うのに。
結局、この親たちは家庭では何も教えられないと言ってのけてることになる。
つまり教育熱心の仮面をかぶって、実のところ育児放棄、養育放棄とイコール。
でも本人らは子供のことを人一倍考えてると思ってるからたちが悪い。
要するに子供が無自覚に不本意なまま育つ。
自分の人生でなく、他人の人生を生きるという恐ろしいことになる。
「お前、子供を育てたことがないくせに、えらそうなこと言うな!」
・・・おっしゃる通り、えらそうなこと言ってスンマセン。
でもね、ちょっと待ってほしい。
子供を育てたことがなければ、子供のことを考えられないかというとそれも違う。
だって子供を育ててても虐待する親もいれば、捨てる親もいるわけだし、育てたくても産めない体の人もいるだろうし。
子供がどうあるべきかを考えるとき、子育ての経験と同じくらいに子供目線で考えることができるかが重要というか、先に生まれた者が後に生まれた者のことを考えないと、またその後に生まれてくる者もまたまたその後のことを考えない、つまり滅ぶでしょ?
オレが言いたいのは“プロレタリア”になるなということ。
結婚して子供を“産む”ことは、のちに虐待をしてしまうロクデナシでもできるの。そこから“育てる”ことはロクデナシだとできないわけ。
プロレタリアとは語源は「子供を産むしか価値のない階級」という意味だそうで、子供を産んで育てるだけの給料しかもらえなかった階級のことを言う。つまり「労働の再生産」が転じて現在の「労働者階級」の意味になったわけ。
親の代に変わって税金を納めるためだけに子供は生まれてくるなんて寂しいじゃない。
また、「子供好き」かどうかで、子供目線になれるかというとこれも違う。
オレだって子供が好きかっていうと、嫌いだよ。
子供なんて汚いし、うるさいし、手がかかるだろうし。
でもそれが“子供”で“子供らしさ”でしょう。
子供時代に子供らしくないと、大人時代に大人らしさは身についてこないように思うの。社会的年齢ってやつ。
こんなエピソードがある。
ある日そのわんぱくな坊やが、保育所のお散歩の途中に列を離れドブに落ちた。
そしたら、その坊やは「先生」と言って助けを求めた、と。
泣きわめくだけでなく、「しぇんしぇ~」って。
日ごろから親が「何かあったら先生に助けを求めろ」と教えていたわけではない。
そんな理屈がわかる年齢でもない。
つまり目くじら立てて日常から仰々しく教育なんて言わなくても、子供も子供なりに大人社会で生きる術を身につけるチカラを持ってるって証拠だと思う。
子供の中に潜在的に眠る「生きるチカラ」を覚醒させてやれるか、閉ざしてしまうか。
親や教師が子供の可能性を信じるのは難しい。厳しさとやさしさがぶつかりあう中で大人も日々格闘を迫られるのだろうと思う。
親よ、そして教師よ、優秀な子に育てる努力より、まず変な子にならないように気をつけたほうがいいかも知れない。
以上、子育ての子の字も知らぬおっさんの意見でした。
モンスターペアレントといった瞬間、無条件で親が悪いと決まってしまうことになるし、逆に生徒指導で手を上げる教師をモンスターティーチャーというとき、昔ならそんな先生ゴロゴロいたもんで、時と場合、状況を踏まえて話さないと、双方、納得ゆかなくなる。
でないと、手を上げる教師は「オレが子供のころは当たり前だったぞ」と親と教師の認識の違いがいっこうに埋まらない。
「モンスターなんとか問題」は正確には「親と教師の食い違い問題」というべきだろうね。
だが、この問題の主人公は“子供”なわけで、子供を育てたり教えたりするのに、親も教師も苦労してるところに原因があるんだな。
最近、子供らしくない子供が多いと思わない?
英単語をペラペラ話す子(話すよう仕向けられてる子)、駅名を暗記して親に自慢する子供(自慢するよう仕向けられてる子)。
陰湿ないじめをする子供、教師や大人に対し生意気な子供などなど。どれも子供らしくない。
別に英語や駅名を覚えること自体どうでもいいが、その影に親の入れ知恵が見え隠れしてしまうのが不自然な感じ。
本当は子供たちはそんなこと覚えたくないかもしれない。
陰湿ないじめなんて成人になってから好きなだけできるのに、覚えるにはちと早すぎやしないか。
ち○○んに毛が生えてもないくせに生意気な口をききすぎるし。
そして子供社会の中で英単語を、駅名を話せる奴がスゴイとなって、やがて話せないグループの中からいじめられる奴が出てくる。勘弁してよ。
この前、今年の大学センター試験の問題を解いてみたけど、つまらなかったね。
頭が悪いから間違えたんだろうけど、全部ひっかけ問題なのさ。駅名の順番を間違えたようなもの。全部総武線の駅名なんだからいいじゃないっていうような問題さ。
つまり高校生くらいまでの勉強って、たいしたことやってないのよ。
多分ちゃんと教えれば誰だって理解できるのよ、差がつくことがおかしい。
教師だって立派な人がそんなにいるもんじゃない。少なくともオレの経験上、印象に残ってる教師などいない。
たいした教科書やたいした教師がいるわけでもないのに差をつけられるなんて、子供同士、意味ないとこでジェラシーを募らせてると思うよ。
もちろん教師で立派な人もおられるし、ひとくくりにするのは乱暴だが、そんな不完全な教師に親たちはたくさん求める。
「うちの子は50点だ。70点取れるよう教えられてないのはあんたたち教師の力不足だ」という理屈。
聞いたら平均点は50点らしく、あんたたちのような親の子供にしては上出来じゃないかと思うのに。
結局、この親たちは家庭では何も教えられないと言ってのけてることになる。
つまり教育熱心の仮面をかぶって、実のところ育児放棄、養育放棄とイコール。
でも本人らは子供のことを人一倍考えてると思ってるからたちが悪い。
要するに子供が無自覚に不本意なまま育つ。
自分の人生でなく、他人の人生を生きるという恐ろしいことになる。
「お前、子供を育てたことがないくせに、えらそうなこと言うな!」
・・・おっしゃる通り、えらそうなこと言ってスンマセン。
でもね、ちょっと待ってほしい。
子供を育てたことがなければ、子供のことを考えられないかというとそれも違う。
だって子供を育ててても虐待する親もいれば、捨てる親もいるわけだし、育てたくても産めない体の人もいるだろうし。
子供がどうあるべきかを考えるとき、子育ての経験と同じくらいに子供目線で考えることができるかが重要というか、先に生まれた者が後に生まれた者のことを考えないと、またその後に生まれてくる者もまたまたその後のことを考えない、つまり滅ぶでしょ?
オレが言いたいのは“プロレタリア”になるなということ。
結婚して子供を“産む”ことは、のちに虐待をしてしまうロクデナシでもできるの。そこから“育てる”ことはロクデナシだとできないわけ。
プロレタリアとは語源は「子供を産むしか価値のない階級」という意味だそうで、子供を産んで育てるだけの給料しかもらえなかった階級のことを言う。つまり「労働の再生産」が転じて現在の「労働者階級」の意味になったわけ。
親の代に変わって税金を納めるためだけに子供は生まれてくるなんて寂しいじゃない。
また、「子供好き」かどうかで、子供目線になれるかというとこれも違う。
オレだって子供が好きかっていうと、嫌いだよ。
子供なんて汚いし、うるさいし、手がかかるだろうし。
でもそれが“子供”で“子供らしさ”でしょう。
子供時代に子供らしくないと、大人時代に大人らしさは身についてこないように思うの。社会的年齢ってやつ。
こんなエピソードがある。
ある日そのわんぱくな坊やが、保育所のお散歩の途中に列を離れドブに落ちた。
そしたら、その坊やは「先生」と言って助けを求めた、と。
泣きわめくだけでなく、「しぇんしぇ~」って。
日ごろから親が「何かあったら先生に助けを求めろ」と教えていたわけではない。
そんな理屈がわかる年齢でもない。
つまり目くじら立てて日常から仰々しく教育なんて言わなくても、子供も子供なりに大人社会で生きる術を身につけるチカラを持ってるって証拠だと思う。
子供の中に潜在的に眠る「生きるチカラ」を覚醒させてやれるか、閉ざしてしまうか。
親や教師が子供の可能性を信じるのは難しい。厳しさとやさしさがぶつかりあう中で大人も日々格闘を迫られるのだろうと思う。
親よ、そして教師よ、優秀な子に育てる努力より、まず変な子にならないように気をつけたほうがいいかも知れない。
以上、子育ての子の字も知らぬおっさんの意見でした。
東京マラソン物語
東京マラソンのキャッチフレーズに“東京がひとつになる日”とある。
おそらくこれだけの大イベントのフレーズならそこそこ一流のコピーライターが考え、見た人をグッと引き寄せられるのを狙って決められたのだと思う。
そしてマラソンの日だけひとつになるというこの言葉を言い換えると、「東京はいつもはバラバラ」ということが強調されてくる。
また、この言葉にグッと引き寄せられるのは、やはり誰かと、あるいは社会とつながっていたいという願望を皆が共通に持っているといえるだろう。
本来“社会”とは狩猟民族だろうが、近代社会だろうがある単位のつながりがあるのが前提のはずだが、いつもはつながってないという我々が住んでるこの得体の知れない場所は何なのか?
そしてつながるとは何か?
我々は職場、学校、家族、友人、行きつけの飲み屋など社会と多くのつながりを持っている。
その中でも特に職場、つまり労働での社会のつながりは重要だ。なぜかというと社会が“経済”を基盤にしておおむね設計されてしまっていて、労働は個々人の経済に直結してるからだ。オレの知り合いで目の見えない人や自閉症の人も仕事を持ってる。仕事を通して社会参加を果たし、生きる意欲とも大部分が直結してるのが労働なのだ。
しかしこの労働とのつながりが弱く細くなってきて、仕事を失えば社会の大部分とつながりを断たれてしまうのが現状だ。
それは失われた10年や20年という我々が住む社会の基盤である経済全体の縮小を機に一気に表面に現れた。
つまり低所得や失業で貧困から抜け出せない、抜け出せたとしても短期のバイトや低賃金の労働のサイクルに陥る新たな社会問題として現れたのだ。
ちなみにこれをノーペイ(失業)・ローペイ(低賃金)サイクルといって、その子孫も含めいつまでたっても豊かになれない。
貧困研究の第一人者、社会福祉学者の岩田正美氏は著書「社会的排除」でこの問題を単なる経済的な“貧乏”だけが問題でないという。貧乏にいたる様々な不利、親が貧乏なゆえ低学歴、低スキルによる就職の難しさや、非正規雇用者が労働組合などに守られないゆえ失業しやすいことなど、社会とのつながりの弱さ=貧困に陥りやすさを「社会的排除」と呼び、単なるお金がない貧乏のことだけが“貧困”ではないと。
そもそも経済が一時的にダメになっても福祉がしっかりしていれば急場はしのげるのが健全な社会なのはずなのにそれが機能していない。
なぜか?
社会福祉はある家族をモデルに設計されてきた。
その家族とは父、母、子供二人くらい。そしてその父は終身雇用の会社員で、30年の住宅ローンを組んで引退後、夫婦は年金生活に入る、そんなモデル。
そして経済で世界トップの座に付いてしまった実績から、会社の業績は緩やかながらもこれから先も右肩上がりを続けるものと経済学者も予測した。つまり働けば豊かになるという、いわゆる「一億総中流モデル」というものを想定して社会のグランドデザインを描いてきた。
しかし会社では非正規雇用者が急増し、想像以上に老人は長生きするようになり、生涯未婚率上昇で子供を産まなくなったから年金の負担も増えた。母子家庭も増えた結果、子供の貧困率は高くなり、と、社会の構造は予想外に変わった。
ところが一億総中流意識は福祉を与える側も、与えられる側も自分たちは中流階級という幻想を今も持っている。
これが低所得者層自身が自分たちが貧困である自覚を薄めさせ、貧困から抜け出せないのは自己責任で日本に貧困は存在しないという論調を強めてると説明されてる。
簡単に言えば、貧困は“悪い”ことという社会通念やネガティブなイメージを、金持ちも貧乏人自身も持ってしまってる。
この意識も「社会的排除」を強めていると。
つながるとは何か?それは「きずな」や「思いやり」というゆるめのトーンだけでつながるのは現実的に難しく、制度面、意識面の複合的な「社会的排除」という壁がある。
ではどうやって「社会的排除」をなくし、つながりを作ってゆけばよいのか?
市場経済でこぼれ落ちた労働者を、どう社会とつながりを保ちつつまた労働市場へ戻してゆくかという、経済政策と就労支援をセットで考えることが解決策の入り口だと岩田氏は提示している。
失業者に生活保護を与えればおしまいではなく、また再就職してもらって税金を納めてもらったり、子供を産んでもらう方が、国にとってもプラスという長期的な考え方ですね。もっとも今は需給対象者かどうか判定基準が一億総中流意識のままなので、生活保護をもらうことすら大変なのが現状ですが。
つまり今、誰が貧困者かひとりひとりを判定するのが全くできていない。そこからこの問題ははじめねばならないということです。
皇居の周りをアフターファイブに走るのが趣味のマラソン女子、男子が急増してる。
おそらく彼らは皇居近くのそこそこの企業のそこそこの社員や公務員、あるいは非正規雇用者でも自動車組立て工のような不安定な非正規とは違い、専門職や技術職のある程度安定した職種に就いてるのだろう。
そういう数少ないプチエリートたちだけの「東京マラソン物語」で世の中は“つながっているじゃない”としてしまうのは、少なくとも東大を出て政策を作ることに携わってる方たちには軽い冗談だよと言っていただきたい。
おそらくこれだけの大イベントのフレーズならそこそこ一流のコピーライターが考え、見た人をグッと引き寄せられるのを狙って決められたのだと思う。
そしてマラソンの日だけひとつになるというこの言葉を言い換えると、「東京はいつもはバラバラ」ということが強調されてくる。
また、この言葉にグッと引き寄せられるのは、やはり誰かと、あるいは社会とつながっていたいという願望を皆が共通に持っているといえるだろう。
本来“社会”とは狩猟民族だろうが、近代社会だろうがある単位のつながりがあるのが前提のはずだが、いつもはつながってないという我々が住んでるこの得体の知れない場所は何なのか?
そしてつながるとは何か?
我々は職場、学校、家族、友人、行きつけの飲み屋など社会と多くのつながりを持っている。
その中でも特に職場、つまり労働での社会のつながりは重要だ。なぜかというと社会が“経済”を基盤にしておおむね設計されてしまっていて、労働は個々人の経済に直結してるからだ。オレの知り合いで目の見えない人や自閉症の人も仕事を持ってる。仕事を通して社会参加を果たし、生きる意欲とも大部分が直結してるのが労働なのだ。
しかしこの労働とのつながりが弱く細くなってきて、仕事を失えば社会の大部分とつながりを断たれてしまうのが現状だ。
それは失われた10年や20年という我々が住む社会の基盤である経済全体の縮小を機に一気に表面に現れた。
つまり低所得や失業で貧困から抜け出せない、抜け出せたとしても短期のバイトや低賃金の労働のサイクルに陥る新たな社会問題として現れたのだ。
ちなみにこれをノーペイ(失業)・ローペイ(低賃金)サイクルといって、その子孫も含めいつまでたっても豊かになれない。
貧困研究の第一人者、社会福祉学者の岩田正美氏は著書「社会的排除」でこの問題を単なる経済的な“貧乏”だけが問題でないという。貧乏にいたる様々な不利、親が貧乏なゆえ低学歴、低スキルによる就職の難しさや、非正規雇用者が労働組合などに守られないゆえ失業しやすいことなど、社会とのつながりの弱さ=貧困に陥りやすさを「社会的排除」と呼び、単なるお金がない貧乏のことだけが“貧困”ではないと。
そもそも経済が一時的にダメになっても福祉がしっかりしていれば急場はしのげるのが健全な社会なのはずなのにそれが機能していない。
なぜか?
社会福祉はある家族をモデルに設計されてきた。
その家族とは父、母、子供二人くらい。そしてその父は終身雇用の会社員で、30年の住宅ローンを組んで引退後、夫婦は年金生活に入る、そんなモデル。
そして経済で世界トップの座に付いてしまった実績から、会社の業績は緩やかながらもこれから先も右肩上がりを続けるものと経済学者も予測した。つまり働けば豊かになるという、いわゆる「一億総中流モデル」というものを想定して社会のグランドデザインを描いてきた。
しかし会社では非正規雇用者が急増し、想像以上に老人は長生きするようになり、生涯未婚率上昇で子供を産まなくなったから年金の負担も増えた。母子家庭も増えた結果、子供の貧困率は高くなり、と、社会の構造は予想外に変わった。
ところが一億総中流意識は福祉を与える側も、与えられる側も自分たちは中流階級という幻想を今も持っている。
これが低所得者層自身が自分たちが貧困である自覚を薄めさせ、貧困から抜け出せないのは自己責任で日本に貧困は存在しないという論調を強めてると説明されてる。
簡単に言えば、貧困は“悪い”ことという社会通念やネガティブなイメージを、金持ちも貧乏人自身も持ってしまってる。
この意識も「社会的排除」を強めていると。
つながるとは何か?それは「きずな」や「思いやり」というゆるめのトーンだけでつながるのは現実的に難しく、制度面、意識面の複合的な「社会的排除」という壁がある。
ではどうやって「社会的排除」をなくし、つながりを作ってゆけばよいのか?
市場経済でこぼれ落ちた労働者を、どう社会とつながりを保ちつつまた労働市場へ戻してゆくかという、経済政策と就労支援をセットで考えることが解決策の入り口だと岩田氏は提示している。
失業者に生活保護を与えればおしまいではなく、また再就職してもらって税金を納めてもらったり、子供を産んでもらう方が、国にとってもプラスという長期的な考え方ですね。もっとも今は需給対象者かどうか判定基準が一億総中流意識のままなので、生活保護をもらうことすら大変なのが現状ですが。
つまり今、誰が貧困者かひとりひとりを判定するのが全くできていない。そこからこの問題ははじめねばならないということです。
皇居の周りをアフターファイブに走るのが趣味のマラソン女子、男子が急増してる。
おそらく彼らは皇居近くのそこそこの企業のそこそこの社員や公務員、あるいは非正規雇用者でも自動車組立て工のような不安定な非正規とは違い、専門職や技術職のある程度安定した職種に就いてるのだろう。
そういう数少ないプチエリートたちだけの「東京マラソン物語」で世の中は“つながっているじゃない”としてしまうのは、少なくとも東大を出て政策を作ることに携わってる方たちには軽い冗談だよと言っていただきたい。
セックスボランティア
手が動かなくマスターベーションができない男性とそれを手伝う介助者の男性。先天的に足が悪く自宅にボランティア経験のあるホストを呼ぶ女性。
高校生のときある日突然耳が聞こえなくなり、アルバイトでも中々採用されず、障害を持った人の相手をするデリヘル嬢となった二十歳の女の子。
障害者の性や性介護の実態を紹介した河合香織氏の「セックスボランティア」という本がある。ベストセラーにもなった。
そしてこの本では性の介護に対する理解を深めるだけにとどまらず、性と表裏一体の恋愛についても実態が深く書かれてある。
性の介護といっても誰だって、単に性欲だけ満たされれば済むわけはなく、やはり好きな人とセックスしたい。
だが障害を持っていると中々それが叶わない。相手に悪いと思ったり、結婚して子供を産むことを考えると自力ではやってゆけない未来を予測したり。
そんな苦悩や苦悩と付き合いながら生活する姿までつづられている。
そしてこの本を読み終えてから、逃れがたいひとつの発想に呪縛されてしまったのです。
それは優勢保護という考え方です。
優勢保護とは簡単に言えば、劣勢の遺伝子を排除するため、中絶はやむをえないとするような思想です。
この本では生涯を通して、あるいは死の間際まで性に向かわざるを得ない実態を見せられ、障害があることでの苦悩を見せられれば見せられるほど、健常者という視点で見れば、優勢保護という考え方から逃れがたくなるのではないかと思わされたのです。
ごく身近な例で言うと、「あなたの子供が胎児のときに障害があるとわかったら生む選択をするか?」という命題です。
障害を持って生まれれば苦労は多くなるかもしれない。子供に苦労をかけたくない、そんな思いです。
優勢保護を全員が選択し、この世から障害を持って生まれる人がいなくなったとしよう。
その世界はどうなのか?正直いいのか悪いのか分からない。
今、障害を持ってる人はどう思うのか?
後天的に障害を持つことだってある。色々と想像がつかない。
ただわかるのは物事を合理的に考える世の中だから、この思想は芽生えてくるのだと思う。
例えば、労働者を雇うとき、健常者と何らかの障害を持った人のどちらかを採用する場合、雇う側は健常者を迷わず選ぶだろう。それはかわいそうでも生産性という合理性を基準にしたらそうせざるを得ないから。
合理主義の中では合理的な選択。合理主義を捨てた世界では差別と呼ぶのだろうか。
障害というのは健常者と比べればある意味“なんらかの欠損状態”のことで、自分に足りないものをめぐる苦悩や戦いということになる。
その欠損というかコンプレックスを穴埋めしたいと思うとき、ひとつの可能性に期待を寄せたくなる。
ダーウィンの進化論が近年、“進化”ということには否定的な見方がある。
ガラパゴス島のある鳥が同種にもかかわらず地面に落ちた実を食べるのに適した短いくちばしの種、木の中の虫を食べるのに適した長いくちばしの種があることにダーウィンは気づき、始めから全部の鳥がこれらのくちばしの形ではなく、エサを食べるのに適しない種は自然淘汰でなくなり、適した種だけが残った。これを進化と呼んだ。
つまりたまたま環境に適した種が生き残る“状況適応”のことを進化と呼ぶ、これを否定する見方です。
なぜなら居心地いい、満足した状態を保つ“状況適応”を進化と言うなら、魚が居心地の悪い陸に上がったのを進化と呼ぶのに矛盾するからです。
魚に意思があったかは不明だが、今いる快適な状況の外の世界「陸」があることを分かり、そしてそこに出ることを選択するのが本当の“進化”と呼ぶならば、欠損やコンプレックスがある居心地悪い状態は、もしかしたら進化の過程なのかと、いちるの可能性を胸に期待してみたくなるです。
高校生のときある日突然耳が聞こえなくなり、アルバイトでも中々採用されず、障害を持った人の相手をするデリヘル嬢となった二十歳の女の子。
障害者の性や性介護の実態を紹介した河合香織氏の「セックスボランティア」という本がある。ベストセラーにもなった。
そしてこの本では性の介護に対する理解を深めるだけにとどまらず、性と表裏一体の恋愛についても実態が深く書かれてある。
性の介護といっても誰だって、単に性欲だけ満たされれば済むわけはなく、やはり好きな人とセックスしたい。
だが障害を持っていると中々それが叶わない。相手に悪いと思ったり、結婚して子供を産むことを考えると自力ではやってゆけない未来を予測したり。
そんな苦悩や苦悩と付き合いながら生活する姿までつづられている。
そしてこの本を読み終えてから、逃れがたいひとつの発想に呪縛されてしまったのです。
それは優勢保護という考え方です。
優勢保護とは簡単に言えば、劣勢の遺伝子を排除するため、中絶はやむをえないとするような思想です。
この本では生涯を通して、あるいは死の間際まで性に向かわざるを得ない実態を見せられ、障害があることでの苦悩を見せられれば見せられるほど、健常者という視点で見れば、優勢保護という考え方から逃れがたくなるのではないかと思わされたのです。
ごく身近な例で言うと、「あなたの子供が胎児のときに障害があるとわかったら生む選択をするか?」という命題です。
障害を持って生まれれば苦労は多くなるかもしれない。子供に苦労をかけたくない、そんな思いです。
優勢保護を全員が選択し、この世から障害を持って生まれる人がいなくなったとしよう。
その世界はどうなのか?正直いいのか悪いのか分からない。
今、障害を持ってる人はどう思うのか?
後天的に障害を持つことだってある。色々と想像がつかない。
ただわかるのは物事を合理的に考える世の中だから、この思想は芽生えてくるのだと思う。
例えば、労働者を雇うとき、健常者と何らかの障害を持った人のどちらかを採用する場合、雇う側は健常者を迷わず選ぶだろう。それはかわいそうでも生産性という合理性を基準にしたらそうせざるを得ないから。
合理主義の中では合理的な選択。合理主義を捨てた世界では差別と呼ぶのだろうか。
障害というのは健常者と比べればある意味“なんらかの欠損状態”のことで、自分に足りないものをめぐる苦悩や戦いということになる。
その欠損というかコンプレックスを穴埋めしたいと思うとき、ひとつの可能性に期待を寄せたくなる。
ダーウィンの進化論が近年、“進化”ということには否定的な見方がある。
ガラパゴス島のある鳥が同種にもかかわらず地面に落ちた実を食べるのに適した短いくちばしの種、木の中の虫を食べるのに適した長いくちばしの種があることにダーウィンは気づき、始めから全部の鳥がこれらのくちばしの形ではなく、エサを食べるのに適しない種は自然淘汰でなくなり、適した種だけが残った。これを進化と呼んだ。
つまりたまたま環境に適した種が生き残る“状況適応”のことを進化と呼ぶ、これを否定する見方です。
なぜなら居心地いい、満足した状態を保つ“状況適応”を進化と言うなら、魚が居心地の悪い陸に上がったのを進化と呼ぶのに矛盾するからです。
魚に意思があったかは不明だが、今いる快適な状況の外の世界「陸」があることを分かり、そしてそこに出ることを選択するのが本当の“進化”と呼ぶならば、欠損やコンプレックスがある居心地悪い状態は、もしかしたら進化の過程なのかと、いちるの可能性を胸に期待してみたくなるです。
デフレの正体
デフレの正体という本がベストセラーになってる。著者は藻谷浩介氏。なぜ売れてるのか?
大企業も、町の床屋さん、クリーニング屋さんも、サラリーマンのお父さんも、大工さんも、職が見つからないフリーターも皆、苦しんでるのは実はこのデフレのせいである。
デフレというと難しい経済学用語だが、単純に言えば、牛丼が250円の価格破壊現象といえばわかりやすい。
吉野家がキャンペーンで250円になれば、客はよろこんで食べに行くで終わる。
ところが今度は松屋が240円にする。すると、すき家は赤字覚悟の230円に打って出る。
これらはもはや利益計算はほぼなく、サービス業の付加価値である、おいしさ、対応の早さ、接客がいいなどでの競争はあきらめ、単なる価格だけの競争になる。
これがデフレで、価格競争のツケは社員のサービス残業や低賃金労働で払われる。
トラック運転手などの流通業なんかも同じで、寝ずに運転して交通事故も増えてる。
物が安くなって、給料が減り、給料が減るから物を買わない。買ってくれないからまた値下げして低賃金労働になるスパイラルが、いわゆるワーキングプア(働く貧困、働いても貧困)を生む。
ワーキングプアだと将来の収入を悲観して住宅ローンも組みたくならない、子供を産むのも控える。
実は少子化も低賃金や失業率悪化も、円高も株安も国の借金もすべてデフレから派生する枝葉の問題で、デフレが元凶だということです。
デフレが10年以上も続いてるのは過去に世界で例がないほど異常な事態であると同時に、経済政策担当者は最もやってはならないと言われてきた経済状況だ。
政府が最も頭を悩ませてるのは何を隠そうデフレだ。
そしてこの本では色々手を尽くしてるのにデフレからなかなか抜けられないのはおかしい、あれこれデフレを抜け出す策は全部、妙案奇策で間違えてるのでは?と定義するところから出発していて、なるほどと、気づき始めた人々に本が売れてるのだと思う。
では解決策はないのか?
それにはこの本よりも、今、イキのいいアラフォー経済学者、41歳の三橋貴明氏、39歳の中野剛志氏が非常に分かりやすく説明してくれている。
テレビなどに出ている知識人はイノベーション(技術革新)だとか魅力あるものづくりで消費意欲をかき立て、欲しいものがあれば消費や投資が進むという。
つまり、でっかくて甘いリンゴを作ったり、歩くロボットを作って戦おうと。
でも高級リンゴは金持ちは買えるが、ワーキングプアは本当に買うのか?
新しい産業や需要を開拓するのは、格差を拡大するだけだと彼らは言う。
デフレから抜け出して所得が上がったらはじめて、高いリンゴでも買おうかとなるのだ、と。
高級リンゴもロボット開発もいいが、こういう状況ではデフレ脱却の決定打にはならない。
そこで登場するのが、一般的に悪いイメージのある公共投資だと。
公共投資だろうが、結果豊かになればいいという目的をつい忘れてしまいがちだが、多くの経済学者は間違えてると彼らは指摘している。
公共投資は何も土建屋だけが儲かるものではない。
資材を調達するので材料メーカーも景気がよくなるし、モノを運ぶトラック運転手も仕事が増える。
景気のよくなった土建屋や大工さんは飲み屋やキャバクラにも金を落とす。
ボーナスが出た材料メーカーの社員は半年に一度しかクリーニングしなかった背広を小まめに出すだろうし、トラックの運ちゃんも髪を切りに床屋にもいくでしょう。ランチは牛丼をたまには止めて、800円の定食を食べもするだろう。そしたら牛丼も380円に安心して戻せる。
政府が支出をするということは、確実に価格競争を止め、所得を上げる好循環を生み、デフレの大きな流れを止めるのに最も無難で有効なのだと。一般市民にとって最大のおこぼれにあずかれるのであるとわかる。
これは自分たちひとりひとりの経済感情からも納得がいく。
ポンと定額給付金だと1万円もらっても、しょせん降ってわいた1万円だが、会社が儲かった結果、例え千円でも所得が毎月増えれば、仕事をしてがんばった見返りとしてのお金は有りがたみが違うし、この先も昇給を期待して労働意欲もわく。
余裕のあるお金は間違った使い方もしないし、気持ちよく使えるものだ。
(余裕がないお金はギャンブルで増やそうとかロクな使い方にならない。)
ちなみにドイツはヒトラーが国の借金があるのにアウトバーンという高速道路をめちゃくちゃたくさん作った。そしたら何と景気がよくなった。
また、アメリカでは世界大恐慌のあと、最大の公共事業?である「戦争」を始めることで特需にわいた。
ところで、公共投資で景気を復活させようとしていた政治家が日本にもかつてひとりいた。
麻生太郎氏だ。
漢字が読めないだけで辞めさせるのはちと早合点だったかぁ!
大企業も、町の床屋さん、クリーニング屋さんも、サラリーマンのお父さんも、大工さんも、職が見つからないフリーターも皆、苦しんでるのは実はこのデフレのせいである。
デフレというと難しい経済学用語だが、単純に言えば、牛丼が250円の価格破壊現象といえばわかりやすい。
吉野家がキャンペーンで250円になれば、客はよろこんで食べに行くで終わる。
ところが今度は松屋が240円にする。すると、すき家は赤字覚悟の230円に打って出る。
これらはもはや利益計算はほぼなく、サービス業の付加価値である、おいしさ、対応の早さ、接客がいいなどでの競争はあきらめ、単なる価格だけの競争になる。
これがデフレで、価格競争のツケは社員のサービス残業や低賃金労働で払われる。
トラック運転手などの流通業なんかも同じで、寝ずに運転して交通事故も増えてる。
物が安くなって、給料が減り、給料が減るから物を買わない。買ってくれないからまた値下げして低賃金労働になるスパイラルが、いわゆるワーキングプア(働く貧困、働いても貧困)を生む。
ワーキングプアだと将来の収入を悲観して住宅ローンも組みたくならない、子供を産むのも控える。
実は少子化も低賃金や失業率悪化も、円高も株安も国の借金もすべてデフレから派生する枝葉の問題で、デフレが元凶だということです。
デフレが10年以上も続いてるのは過去に世界で例がないほど異常な事態であると同時に、経済政策担当者は最もやってはならないと言われてきた経済状況だ。
政府が最も頭を悩ませてるのは何を隠そうデフレだ。
そしてこの本では色々手を尽くしてるのにデフレからなかなか抜けられないのはおかしい、あれこれデフレを抜け出す策は全部、妙案奇策で間違えてるのでは?と定義するところから出発していて、なるほどと、気づき始めた人々に本が売れてるのだと思う。
では解決策はないのか?
それにはこの本よりも、今、イキのいいアラフォー経済学者、41歳の三橋貴明氏、39歳の中野剛志氏が非常に分かりやすく説明してくれている。
テレビなどに出ている知識人はイノベーション(技術革新)だとか魅力あるものづくりで消費意欲をかき立て、欲しいものがあれば消費や投資が進むという。
つまり、でっかくて甘いリンゴを作ったり、歩くロボットを作って戦おうと。
でも高級リンゴは金持ちは買えるが、ワーキングプアは本当に買うのか?
新しい産業や需要を開拓するのは、格差を拡大するだけだと彼らは言う。
デフレから抜け出して所得が上がったらはじめて、高いリンゴでも買おうかとなるのだ、と。
高級リンゴもロボット開発もいいが、こういう状況ではデフレ脱却の決定打にはならない。
そこで登場するのが、一般的に悪いイメージのある公共投資だと。
公共投資だろうが、結果豊かになればいいという目的をつい忘れてしまいがちだが、多くの経済学者は間違えてると彼らは指摘している。
公共投資は何も土建屋だけが儲かるものではない。
資材を調達するので材料メーカーも景気がよくなるし、モノを運ぶトラック運転手も仕事が増える。
景気のよくなった土建屋や大工さんは飲み屋やキャバクラにも金を落とす。
ボーナスが出た材料メーカーの社員は半年に一度しかクリーニングしなかった背広を小まめに出すだろうし、トラックの運ちゃんも髪を切りに床屋にもいくでしょう。ランチは牛丼をたまには止めて、800円の定食を食べもするだろう。そしたら牛丼も380円に安心して戻せる。
政府が支出をするということは、確実に価格競争を止め、所得を上げる好循環を生み、デフレの大きな流れを止めるのに最も無難で有効なのだと。一般市民にとって最大のおこぼれにあずかれるのであるとわかる。
これは自分たちひとりひとりの経済感情からも納得がいく。
ポンと定額給付金だと1万円もらっても、しょせん降ってわいた1万円だが、会社が儲かった結果、例え千円でも所得が毎月増えれば、仕事をしてがんばった見返りとしてのお金は有りがたみが違うし、この先も昇給を期待して労働意欲もわく。
余裕のあるお金は間違った使い方もしないし、気持ちよく使えるものだ。
(余裕がないお金はギャンブルで増やそうとかロクな使い方にならない。)
ちなみにドイツはヒトラーが国の借金があるのにアウトバーンという高速道路をめちゃくちゃたくさん作った。そしたら何と景気がよくなった。
また、アメリカでは世界大恐慌のあと、最大の公共事業?である「戦争」を始めることで特需にわいた。
ところで、公共投資で景気を復活させようとしていた政治家が日本にもかつてひとりいた。
麻生太郎氏だ。
漢字が読めないだけで辞めさせるのはちと早合点だったかぁ!