セックスボランティア | 「異端児、常識を疑う」

セックスボランティア

手が動かなくマスターベーションができない男性とそれを手伝う介助者の男性。先天的に足が悪く自宅にボランティア経験のあるホストを呼ぶ女性。
高校生のときある日突然耳が聞こえなくなり、アルバイトでも中々採用されず、障害を持った人の相手をするデリヘル嬢となった二十歳の女の子。
障害者の性や性介護の実態を紹介した河合香織氏の「セックスボランティア」という本がある。ベストセラーにもなった。

そしてこの本では性の介護に対する理解を深めるだけにとどまらず、性と表裏一体の恋愛についても実態が深く書かれてある。

性の介護といっても誰だって、単に性欲だけ満たされれば済むわけはなく、やはり好きな人とセックスしたい。
だが障害を持っていると中々それが叶わない。相手に悪いと思ったり、結婚して子供を産むことを考えると自力ではやってゆけない未来を予測したり。
そんな苦悩や苦悩と付き合いながら生活する姿までつづられている。

そしてこの本を読み終えてから、逃れがたいひとつの発想に呪縛されてしまったのです。
それは優勢保護という考え方です。

優勢保護とは簡単に言えば、劣勢の遺伝子を排除するため、中絶はやむをえないとするような思想です。

この本では生涯を通して、あるいは死の間際まで性に向かわざるを得ない実態を見せられ、障害があることでの苦悩を見せられれば見せられるほど、健常者という視点で見れば、優勢保護という考え方から逃れがたくなるのではないかと思わされたのです。
ごく身近な例で言うと、「あなたの子供が胎児のときに障害があるとわかったら生む選択をするか?」という命題です。
障害を持って生まれれば苦労は多くなるかもしれない。子供に苦労をかけたくない、そんな思いです。

優勢保護を全員が選択し、この世から障害を持って生まれる人がいなくなったとしよう。
その世界はどうなのか?正直いいのか悪いのか分からない。
今、障害を持ってる人はどう思うのか?
後天的に障害を持つことだってある。色々と想像がつかない。

ただわかるのは物事を合理的に考える世の中だから、この思想は芽生えてくるのだと思う。
例えば、労働者を雇うとき、健常者と何らかの障害を持った人のどちらかを採用する場合、雇う側は健常者を迷わず選ぶだろう。それはかわいそうでも生産性という合理性を基準にしたらそうせざるを得ないから。
合理主義の中では合理的な選択。合理主義を捨てた世界では差別と呼ぶのだろうか。

障害というのは健常者と比べればある意味“なんらかの欠損状態”のことで、自分に足りないものをめぐる苦悩や戦いということになる。
その欠損というかコンプレックスを穴埋めしたいと思うとき、ひとつの可能性に期待を寄せたくなる。

ダーウィンの進化論が近年、“進化”ということには否定的な見方がある。
ガラパゴス島のある鳥が同種にもかかわらず地面に落ちた実を食べるのに適した短いくちばしの種、木の中の虫を食べるのに適した長いくちばしの種があることにダーウィンは気づき、始めから全部の鳥がこれらのくちばしの形ではなく、エサを食べるのに適しない種は自然淘汰でなくなり、適した種だけが残った。これを進化と呼んだ。
つまりたまたま環境に適した種が生き残る“状況適応”のことを進化と呼ぶ、これを否定する見方です。
なぜなら居心地いい、満足した状態を保つ“状況適応”を進化と言うなら、魚が居心地の悪い陸に上がったのを進化と呼ぶのに矛盾するからです。

魚に意思があったかは不明だが、今いる快適な状況の外の世界「陸」があることを分かり、そしてそこに出ることを選択するのが本当の“進化”と呼ぶならば、欠損やコンプレックスがある居心地悪い状態は、もしかしたら進化の過程なのかと、いちるの可能性を胸に期待してみたくなるです。