敵は取手駅前にあらず
“自分のことはあまり話さない、友人のいない孤独な男だった。”
取手駅前でバスに乗っていた江戸川学園の生徒たちを切りつけた事件の加害者、斎藤勇太。
高校の卒業文集アンケートで「一生独身そうな人」1位、「ストレスがたまりそうな人」1位、「事件を起こしそうな人」4位。
これが斉藤につけられた形容詞だ。
とりあえず・・・教師は何をさせとるのかね?
斎藤は高校卒業後、職を転々とし、1年前に失業して事件直前は野宿をしていた。
弁護士が犯行動機は無職の境遇なのかと問うと「そうかも知れないが、仕事があっても事件を起していたかも知れない。」と説明した。
おそらく、仕事も良好な人間関係を持てることが前提に続けられるという意味で言ってるのだろう。
「人間関係が苦手だ、友人のひとりもつくれないオレは何もかもイヤになった。」とでも言いたいだろうか。
つまり斉藤は、個人(斉藤)が何もない状態から自助自立できて初めて、社会(会社)に参加できる資格があるという「自己責任論」を言っている。
しかしそれは勘違いだと言いたい。
2008年に起きた秋葉原連続殺傷事件のとき、加害者の加藤が派遣切りにあっていたこと、無職がゆえの犯行という論調を封じ込めた。
誰が?
端的にいうと経団連のオヤジさんたち。つまりクビ切りした大企業が悪者と連想させるようなマスコミの報道のさせ方を封じた。ダガーナイフの規制などでカモフラージュした。
この背景には、小泉・竹中路線と言われた時期に規制緩和として、労働の自由化を行い、企業が派遣社員を、よく言えば即戦力、悪く言えばいつでも辞めてもらえる人材を雇えるようにした。
「派遣切り」とはそのときの失敗のつけが今、回ってきている一現象なのである。
だから、不況で辞めてもらわざるを得ないと言うのは言い訳で、経営の失敗なのです。
それなのに、何とかコメンテーターは、
「働き方が自由になった、バンザイ!と喜んでたのはあなたたちじゃない」
「そもそも派遣というリスクをヘッジしておくのは自己責任じゃない」という。おやめなさい!
そして、この自己責任論には全く与しない。
自己責任論が今の形で語られるようになった歴史は、経済を成長させるために、労働の機能を都市部に集中させることで、効率よく収益を上げられるようにした。
しかし地域の崩壊や地域間格差をまねき、地域社会にあったコネなども失われ、自助自立は個人個人の競争に委ねられるようになった。
これが自己責任論の原型だ。
つまり、合理主義と引き換えに、つながりの希薄な無縁社会で暮らしてゆくことを余儀なくされた。
マンションの隣にどんな人が住んでるか分からないというやつですよ。
こうして地域を壊しておきながら、あとは自己の責任というのは、妥協した自助自立でないだろうか。決して社会構造の完成形としての考え方ではないと。
人間関係が苦手だったという斉藤。
しかし斉藤を取り巻く同級生、先生、親、大人たちもまた自己責任論を好むと好まざるとに関わらず受け入れ、たまたま人間関係が苦手という特徴を持った斉藤をキモイ、KYなどと言う事で、妥協した形で自分の立場の安全を確保した。
斉藤よ、お前も一緒になってたまたまいた誰かにナイフを振るい、妥協した形で自分の立場を確かめたのだ。
そこでこの崩壊しつつある社会構造の問題を、現場で取り組むソーシャルビジネスに期待したい。
なぜなら[地域や集団]→[個人]の順番で崩壊したのなら、やはり立て直すのも[地域や集団]→[個人]の順番だろうと。
だから、社会を構造から転換する可能性を大いに秘めたソーシャルビジネスに期待したい。
派遣村村長・湯浅誠氏、マザーハウス代表・山口絵理子氏たちだ。
そして彼らが共通して言ってるのが、人は何かが欠けてるのでなく、可能性を閉ざされてるだけという点。
欠けてる人がかわいそうという悪しきヒューマニズムではない。
自己責任論の洗脳から解いてくれる唯一の発想だと思う。
殺すのは誰でもよかった。それは誰を殺しても解は得られないと自分で言ってるじゃない。
お前の敵は取手駅前にあらず。
取手駅前でバスに乗っていた江戸川学園の生徒たちを切りつけた事件の加害者、斎藤勇太。
高校の卒業文集アンケートで「一生独身そうな人」1位、「ストレスがたまりそうな人」1位、「事件を起こしそうな人」4位。
これが斉藤につけられた形容詞だ。
とりあえず・・・教師は何をさせとるのかね?
斎藤は高校卒業後、職を転々とし、1年前に失業して事件直前は野宿をしていた。
弁護士が犯行動機は無職の境遇なのかと問うと「そうかも知れないが、仕事があっても事件を起していたかも知れない。」と説明した。
おそらく、仕事も良好な人間関係を持てることが前提に続けられるという意味で言ってるのだろう。
「人間関係が苦手だ、友人のひとりもつくれないオレは何もかもイヤになった。」とでも言いたいだろうか。
つまり斉藤は、個人(斉藤)が何もない状態から自助自立できて初めて、社会(会社)に参加できる資格があるという「自己責任論」を言っている。
しかしそれは勘違いだと言いたい。
2008年に起きた秋葉原連続殺傷事件のとき、加害者の加藤が派遣切りにあっていたこと、無職がゆえの犯行という論調を封じ込めた。
誰が?
端的にいうと経団連のオヤジさんたち。つまりクビ切りした大企業が悪者と連想させるようなマスコミの報道のさせ方を封じた。ダガーナイフの規制などでカモフラージュした。
この背景には、小泉・竹中路線と言われた時期に規制緩和として、労働の自由化を行い、企業が派遣社員を、よく言えば即戦力、悪く言えばいつでも辞めてもらえる人材を雇えるようにした。
「派遣切り」とはそのときの失敗のつけが今、回ってきている一現象なのである。
だから、不況で辞めてもらわざるを得ないと言うのは言い訳で、経営の失敗なのです。
それなのに、何とかコメンテーターは、
「働き方が自由になった、バンザイ!と喜んでたのはあなたたちじゃない」
「そもそも派遣というリスクをヘッジしておくのは自己責任じゃない」という。おやめなさい!
そして、この自己責任論には全く与しない。
自己責任論が今の形で語られるようになった歴史は、経済を成長させるために、労働の機能を都市部に集中させることで、効率よく収益を上げられるようにした。
しかし地域の崩壊や地域間格差をまねき、地域社会にあったコネなども失われ、自助自立は個人個人の競争に委ねられるようになった。
これが自己責任論の原型だ。
つまり、合理主義と引き換えに、つながりの希薄な無縁社会で暮らしてゆくことを余儀なくされた。
マンションの隣にどんな人が住んでるか分からないというやつですよ。
こうして地域を壊しておきながら、あとは自己の責任というのは、妥協した自助自立でないだろうか。決して社会構造の完成形としての考え方ではないと。
人間関係が苦手だったという斉藤。
しかし斉藤を取り巻く同級生、先生、親、大人たちもまた自己責任論を好むと好まざるとに関わらず受け入れ、たまたま人間関係が苦手という特徴を持った斉藤をキモイ、KYなどと言う事で、妥協した形で自分の立場の安全を確保した。
斉藤よ、お前も一緒になってたまたまいた誰かにナイフを振るい、妥協した形で自分の立場を確かめたのだ。
そこでこの崩壊しつつある社会構造の問題を、現場で取り組むソーシャルビジネスに期待したい。
なぜなら[地域や集団]→[個人]の順番で崩壊したのなら、やはり立て直すのも[地域や集団]→[個人]の順番だろうと。
だから、社会を構造から転換する可能性を大いに秘めたソーシャルビジネスに期待したい。
派遣村村長・湯浅誠氏、マザーハウス代表・山口絵理子氏たちだ。
そして彼らが共通して言ってるのが、人は何かが欠けてるのでなく、可能性を閉ざされてるだけという点。
欠けてる人がかわいそうという悪しきヒューマニズムではない。
自己責任論の洗脳から解いてくれる唯一の発想だと思う。
殺すのは誰でもよかった。それは誰を殺しても解は得られないと自分で言ってるじゃない。
お前の敵は取手駅前にあらず。