「子ども手当て」あげるから子供産みなよ♪ | 「異端児、常識を疑う」

「子ども手当て」あげるから子供産みなよ♪

前回、かわいいから育てるのは本能的な愛情で、いやでも子供を育てるのは自発的な愛情、愛情とは必ずしも“かわいい”とか“いとおしい”という気持ちいいものばかりではなく、ときに“いやだけど・・”と気持ち悪い面もあるのだと。

だから愛情があることと、子育てをやる行為はいつも一体となってるわけではない、そう締めくくったわけだが、しかし子供を置いて出かけようとする下村にそう語りかけたとしても「はいそうですか」とは納得されないだろう。

それは下村自身が意識する自我や判断基準、価値観が、やはり下村の親からの影響を受け、そして下村の親もまたその親、そして、あらゆる核家族が近代の社会の風景というものの影響を受けて成り立っているからである。

育児放棄した下村だけを捕まえて、育児とはこういうものだと教育しても、育児放棄へ至らしめた感じ方の動機の根を摘みとることにはならない。
つまり第二第三の下村を救済することにはならない。
ましてや「子ども手当て」をあげればおしまいというわけにはいかないのである。

では近代の社会の風景とは?

アマゾン川の奥地に、先進国に住む我々には想像もつかない文明が止まった国?部族がまだいる。
ヤノマミ族といわれる原住民だ。
流行や携帯電話や会社など勿論ない。裸同然で、狩りをして踊って、村同士で戦争をして暮らす。
そしてここでは生まれた子供を殺す?慣習があると。

出産した女子は子供を社会的に「不必要」と判断した場合、赤子を葉にくるみ白アリに食わせ最後に焼く。そして精霊へと昇華させる。
超自然的に子供殺しを精霊に返すという慣習の中に組み込んでいる。
つまり子供を育ててゆくか、否かの選択肢が部族社会の意思・宗教心という荘厳なものの中で見守られてる。
見守りとは育てるも、育てないもひとつの選択として尊重することだ。

我々近代人の場合、中絶にあたるのだろうが、この場合子供を育ててゆくか、否かの選択肢は個人個人の思いだけにゆだねられていて、あなたは社会の一員を産むのだよといういわば目には見えない社会の見守りはなく、あるのは産んだ場合のみの「子ども手当て」くらいだろう。

誤解しないで欲しいのが、中絶や精霊に返す慣習を単によしとすると言いたいのでない。

近代人において、中絶で育児を断念する場合、経済的理由つまりお金の問題、そしてそこから派生する“産んで育てる自信がない”という活力の問題が多くを占める。
それに感化された発想が、産んだらお金をあげるよ的な「子ども手当て」というもの。
これはまだ産んでない夫婦や結婚してない者たちにも、子どもを持った場合のリスクを金計算であるのだとよりリアリティを深めていることになってしまってる。

「育てられないなら産むな」これもまた「お金がないなら産むな」を指してるのだろう。

また逆にある程度裕福な者が大手を振って、さあ産もう!育児放棄なんて信じられない!
かくして“育児”が勝ち組負け組み、幸不幸のジェラシーの対象と化し、ジェラシー合戦に敗れた者が育児放棄と流れてしまう。

産むのは勝手、出来ちゃった婚、大いに結構。

いけないのは産み散らかしておきながら、「よし、ここはひとつ子供をしっかり育てるか」とか、無職だった夫が「よし、とにかく働きにでるぞ」とか、また暮らしの中で育児ノイローゼや育児に疲れ切ったときに「ここはふんばりどころだ」と夫婦で助け合う、そのために二人もいるのに夫婦のすれ違いなどと、活力のみせどころもなく、簡単に離婚、挙句に母子家庭で行き詰まり、いよいよ本当に育児を投げ出してしまう。

そういう風に破滅へと思いを至らしめられやすい近代社会の風景、そしてその社会の風景に影響を受けてしまってることに気付こうとしない夫婦、こういうもののしわ寄せが子供に回ってきていると見ないと、児童相談所がいくらがんばったところであとの祭りなのである。

下村も同じ道をたどったと言えよう。そして下村も下村の父もまた社会の見守りから見放され、社会の風景に踊らされてしまった、と。

次回はこの近代社会の風景というものを更に掘り下げ、
市場経済に放り込まれた子どもたち、核家族という危険地帯などを徹底的に見てゆく。