終戦記念日と核保有 | 「異端児、常識を疑う」

終戦記念日と核保有

終戦から65年経ち、年に一度、黙祷するだけになりつつあるが、平和主義というものはどこに行こうとしてるのだろうか?
実体験者の高齢化が進み、また亡くなられたりして行く中、戦争の悲惨さ、原爆の残酷さを語り継ぐことを強調する、この動きだけが顕著になっている。
悲惨さや残酷さ、つまり感情論に訴えることだけで、国防の方針が動かされてることにいささか気持ち悪さを覚える。


この気持ち悪さは何なのか?
「日本は戦争という過ちを犯した」
「核保有反対」
この二点についてだ。

─少々、反米保守的な意見になってしまうことを予め宣言しておきます─


「日本は戦争という過ちを犯した」というが原爆を落としたのはアメリカだ。確かに、かの裁判で日本は侵略戦争として裁かれたから、外国が日本の過ちとするのは仕方ない。しかし、被害を受けたこの国までもが過ちと言うのが少し気持ち悪くないだろうか。「広島・長崎に謝罪しろ」とアメリカに言えない。メディアが報じない。


敗戦後、GHQという進駐軍が数年に渡り占領政策を実施した。とりわけ戦争観を徹底的に変えた。「戦争は過ちだ。」残虐な支配でなく、近代的なソフトな占領。捕虜や強制労働などなく、市民生活は自由を保障されるが、二度とアメリカに弓を引かせないための思想刷り込み。
日本の特攻精神は極めて危険視された。こんな国やドイツに核など持たせたら何をしでかすか分からないというのが本音だったとも思う。
そういった背景の上で生まれた平和主義だということを気付かないと慰安碑の前で流す涙もむなしくなってしまう。


「核保有反対」、これは被爆国としての民意だが、多くの国が核保有をしていて、この国の平和の声は全く届いてない。薄々気付いてるのかもしれないが、現実的に「核廃絶」は一筋縄ではいかないのだ。
「核保有反対」とだけ言うのは、いじめが社会問題になってる中で、教師が「いじめはいけない」と言うだけなのと同じで核保有の現実を知る必要がある。


冷戦下でアメリカとロシアが核兵器を持っていなかったら、総力戦になっていたと分析する学者もいる。つまり、戦争の一歩手前の抑止力として機能した、各国の指導者たちの判断を慎重にさせたという見方もできるのである。
またもし今アメリカやロシア、中国など各国が持っている核兵器を世界から廃絶するとなると実際の手段として、地中深く埋めるか、宇宙に捨て去るしかない。
しかし、核を作る方法の「知識」自体はどう消し去ればよいのか?それは可能なのか?となると核廃絶の行き着く先は、核を持つ世界以上に恐ろしいものとならないだろうか。


「核保有反対」は世界から核をなくそうという主旨だが、現実的には「二度と核を落とすな」ではないだろうか。そしてもっと具体的に言うと「二度と日本に落とすな」が真意ではないだろうか。
3発目の原爆を日本に絶対に落とさせないようにするには・・・・。


核を触ったこともない者が核保有について論じるのも気が引ける。
被爆にあった親子は皮膚がケロイドにただれながら、溶けた子を抱きつつ、母親はうめき声を上げてたという。確かに残酷な兵器だ。
しかし、国際情勢とはもっと残酷なもので、国内の平和思想とは違う次元で動いている。