「経世済民」としての経済 | 「異端児、常識を疑う」

「経世済民」としての経済

お金儲けを成功させるには?
「儲かってる人のそばに集まること」と経営者、とりわけ起業家と呼ばれる人たちはよく言う。
本当だろうか?

テクニックとしての「金儲け」のノウハウを仕入れたり、実際に彼らも儲かる人に近づくことによって成功させてきたという点ではあながち嘘ではないのだろう。
より多くの額をいかに稼ぐか、いかに貯め込むかに関心が高まるにつれ、「私の夢」は「経済的に豊かになること」と思ってる人は少なくないはず。
そして大衆のお金に対する執着を端的に表わすものとしては、「幸せにとって何が一番大事か」の命題に対し、やぱり「お金」に行き着いてしまう現実がそれを物語ってしまってる。

果たして、お金は大事か?

大事ではある。
いくら綺麗事を言っても、食べ物や住まいを得るにはお金がいるし、お金に余裕があれば心に余裕も生まれるものです。
だからお金をより多く得る方法に関心が集まるのは自然です。

ここまでは良しとしよう。

「お金儲けをして、世の中の役に立ちたい」と取って付けたようにお茶を濁してる人はまだマシな方だが、大半は「幸せ=お金、お金を儲ける方法はコレです」それで話はおしまい。
でも彼らはそれでいいじゃないか、悪いことをしてる訳でないし、そうやってお金に対する抵抗感を示すことはしょせん稼げない人の負け犬根性だというのです。
中には「私は毎日30分しか仕事をしていません。効率よく仕事をする知識を身につけるべきです。」といって、これを「成功」と呼んでいる始末です。

果たして彼らの言ってることや考え方は正しいのか、理にかなっているのか、健全なのか?

あんたはそれでいいかも知れないが、例えばお巡りさんが30分しか仕事しなければ、治安はどうなるとか世の中が全く見えてない奴が、エラそうに私の成功術として本を出版してたりするのです。

こういう人のやってることを本当に成功と呼べるのか?
成功とは?
描いた夢(経済的に豊かになること)が現実になることと解釈されるが、法外の金銭収入を得るようなことと取り違えてることに気づきなさい。
本当の成功とは「サクシード」と言う語源から分かるように「上首尾にゆく」ことなのです。
「与えられた諸条件下でうまく事を進行させる」という含意であり、無から有を生じさせる類の奇跡めいた話とはかけ離れているのです。(※1)

また世の中では「経済的に豊かになること」が単純に幸せの具体的なものと解釈されるが、この「経済的」とは金銭(マネー)を集める手段やたくさん蓄積することと取り違えていることにも違和感を感じざるを得ない。

「経済」とは「経世済民」のことで、これは「世を治め、民を救う」というのが本来の意味です。

世の中で自分の人生や家族を含めて、いかに上首尾に運ぶか。その政治的な家政術をことを指すもので、金銭獲得に特化した意味とは程遠いのです。
世の中をうまく運んでゆく、このことに成功することが本当の「成功」であり、本来の「経済」は、マネーゲームの意味ではなく、政治的な意味があるのです。

今の経済学では、世の中は救えません。
経世済民と言う発想は、古代の哲学者も同じく持っていたものです。アリストテレスは「ニコマコス倫理学」で、いかに奴隷を治め、国の家「国家」をうまく切り盛りしてゆくかを幸福論として説いているように、経世済民の思想が根底にあったのです。

奴隷制がいいか悪いかはここではひとまず置いておいて、仮に弱い立場の我々一般市民が古代でいうところの奴隷(統治される側)の位置にあるならば、それを含め国家をいかに運営してゆくかを考えられる政治家、知識人、エリートが発言権を持つべきで、ちょっとしたビジネスで成功した人とか、近代経済学で政治を、世の中を救えるという知識人が表舞台に立たれては困るのです。


※1 西部邁著「昔、言葉は思想であった」より一部拝借