「異端児、常識を疑う」 -14ページ目

すでにそこにあるもの

湯浅誠さんを知ってるだろうか?
派遣村の村長さんだった人です。
年越し派遣村は、2008年のリーマンショック後に派遣切りにあった人々に、都内の公園で炊き出しを行ったことでよく知られているはずです。

湯浅さんは貧困問題の本質をよく分析し、社会活動をしている人である。
この人が「ヒーローを待っていても世界は変わらない」という本を出した。

リーマンショックから4年以上経ち、貧困問題の状況も改善されてるだろうが、今さら何故と思うかもしれない。
しかしこの本を読めば、貧困問題の本質は単に、経済的支援や雇用の問題だけが課題ではないことがないことがよくわかる。
ましてや、ホームレスだけの問題でくくれはしない。
それはどういうことか?
湯浅氏は、こう問題を導く。

貧困問題は、「コミュニティの問題」である、と。

それを東日本大震災の被災地で増えるパチンコ屋の例を出して解説している。

被災地となった地域は元々高齢者率が高いので、仮設団地の集落の中には人々が孤立しないようにたくさんのプログラムが組まれている。ラジオ体操や歌会、お茶飲み会から血圧測定会などなど。
しかし参加する人の多くは女性。男性が圧倒的に少ない。
理由は忙しかったり、悲しみのあまり参加する気力もないのかもしれないが、決定的な理由は「他人の世話にはならない」というプライドが許さないからだと湯浅さんは分析している。

被災地から遠く離れたどこかの家庭のテレビで「つながろうニッポン」と流れたとしても、何も被害を受けてない人は落ち着いて「そうだね、つながりは大事かもな」と思うかもしれないが、実際に色々失って、仮設住宅でろくなサポートもされてなければ、ラジオ体操に来ませんかと言われても「そんなとこ、かったるくて行ってられるか」となるのは当然の心理なんだと思います。

今、被災地では新しいパチンコ屋が次々建設されているそうです。その傍らハローワークに毎日行っても仕事がないとなると、居場所のない人たちはパチンコ屋に行ってしまうのも簡単に想像できる。それに加えて周りから「仕事もせずにパチンコなんて、何やってんだ」と噂され、更にヤケになり孤立する悪循環が起きてるのも無理のない話です。

貧困問題はコミュニティの問題と言ったが、ひとたび災害などに遭ってそれまで保っていた仕事、環境などのものが崩れてしまうと、たちまち人々は孤立してしまうリスクと背中合わせなのが、貧困問題の根底にコミュニティが関わっているということなのです。
つまりコミュニティという活動基盤を失ったままそこに暮らすには、社会的地位やお金に頼らざるを得なくなり、それを得られない者は孤立するしかない。

被災地の沿岸部地域などは何百年も前から昔ながらの地域コミュニティが「すでにそこにあるもの」だった。
コミュニティはつくるものではなく、人が個人個人、自分の居場所をつくる能力が特になくても、オギャーと生まれれば、すでにそこにあるものだった。

いやでも無縁になることはありえなかったのです。

それを現代では、自分の居場所は自分でつくるもの、人とつながることが個人の努力にゆだねられてるものという考え方が主流である。
その考え方は被災地に限らず、不幸にも自分の居場所をつくれない者は、自分の選択でそうなったのだから、孤立しても仕方がないという自己責任論として片づけられ、やがて都市部では仕事、収入を得られない者は落伍者として甘んじるしかなくなってきたのです。

それを湯浅誠さんは「社縁中心社会」と言っている。

高度経済成長以後、都市部の男性は血縁や地縁より、会社コミュニティである「社縁」を中心に生活が構築されてきた。例えば、大会社の重役さんなんかは家庭の中でも威張れるし、地域の間でも「えらい人」と持ち上げられるということです。逆に会社の中の競争に敗れた人、稼ぎの少ない人は家庭の中でも肩身の狭い思いをしなければならなくなってるのが、社縁中心社会のならわしなのです。

変な話です。

被災地でパチンコ屋に行く人も同じで、社縁中心社会で男性は社縁を中心に血縁、地縁が連動してゆく特長があるので、すべての縁が持てる人と全部持てない無縁状態の人の二極化がしやすいと湯浅誠さんは言う。いわゆる勝ち組負け組みというやつです。
そしてこの状態を一気に進めたのが高度経済成長だったというわけで、更に企業の効率化や生産性重視で非正規雇用が拡大した構造改革路線が社縁から排除された人を増やしたわけです。

社縁で成功した人にとっては、それ以外のコミュニティは不要です。反して社縁から排除された人は孤立し中々抜け出せない。

「すでにそこにあるもの」の中で生まれれば、最悪でも孤立して死んでゆくことはなかった。
とりわけこの国で人々がコミュニティという社会構造を歴史的に残してきたのは、いわば共同で生きてゆくための知恵だったと言えるのでないでしょうか。

稼ぎが少ないからダメだとか、稼ぎが少ないせいで孤立するのをその人の責任とするのは、個人というものが個人の能力だけで成り立っていると勘違いしているのです。個人という生き物は物体としては個だが、色んな関係性や影響を受けて構成されているという、いわば社会と個人は切り離せない性質があることを分からないのですかねぇ?今流行りのお坊さんの説法とかでも似たようなこと言ってるじゃないですか。

パワーは力

ユニクロやイトーヨーカドーが臨時休業していると。
もちろん中国支店での話ではあるが。
反日デモの被害に合わないように警戒態勢を取っているため、日系企業は操業停止しているのである。

で、反日デモの理由はというと、領土問題である。
尖閣諸島を日本が国有化してることに対しての抗議である。

本題に移るが、わが国での領土問題のとらえられ方をまず見るとこうです。
「中国の国民の中国共産党政府に対する不満を日本に向けさせるためのカモフラージュ」との片付けられ方であり、それ自体間違いではないだろうが、
ではロシアが北方領土を、韓国が竹島をと、各国がここ2,3年で日本に対し領土の問題で先鋭化してきたのも同じ理由で片付けられるのだろうか?

領土という境界線は、言い換えれば緊張関係のかろうじて保つものであり、それが表の議論に浮上してくるということは、緊張関係が崩れ始めてることを意味する。
この一線を踏み越えずかろうじてとどまってきたのは、まぎれもなく日本の軍事力を警戒してのことであるが、当然ながらバックにいるアメリカのパワーを意識してのことです。
であるならば、この一線を越えてきたということは、アメリカのパワーが何らかの理由で低下している、つまり極東からの後退を意味し、ポッカリ抜けたアメリカの後釜の座をめぐる攻防が始まったと見るべきでないでしょうか。
中国もロシアも韓国も、日本に対し一線を越えてもアメリカとの関係で深刻な問題は生じない、つまりアメリカのパワーが低下した証拠がこの領土問題に見て取れるのです。
となれば、今まではアメリカに頼ってこれたものが、自分たちで領土を守らなければならないということであり、「厳しい現実」が控えているということでしょう。

だから、「尖閣に中国人が勝手に上陸してけしからん!!」とどのテレビや新聞も日本人たちは同じように言うけれども、バックにアメリカが居てくれて言うのはどこかアンバランスなのです。自分で防衛することを放棄しておいて、自分のシマに入ってくるのを許さんと言ってるような違和感がある。
だからこの領土問題に限らず、震災でまとまろうとかオリンピックのときだけ愛国的になることが、どこかアンバランスな感じがするのでないでしょうか。

それから、愛国的でもないし売国的でもないこの国民性が選択する解としてよくある意見で、国際司法裁判所へ訴えようというものがある。法律で最終決着がつくと思って、そこで議論が終わってしまってる。自分の国で起きた問題を自分で決めるという発想が始めから抜け落ちてるとも言えます。
しかし領土というのは長い歴史を見る限り、取ったり取られたりと繰り返しているもので、これを国際司法裁判所なりで法律によってクッキリと決着つけるには、同時にパワーの問題が表裏一体となって介在して、政治の力学が必ずはたいてくるということが忘れられているのです。

パワーの問題とは、自分の国で自分の運命を決める力が問われているということです。
「自分の国で自分の運命を決める」にはやはり日本の独立を考えるということになり、アメリカのことを含んだ総ざらいする局面に来ているのだろうと、領土問題はほのめかしているのでしょうか。


カーテン越しのシングルマザー

子供を産んだ女性のお見舞いに連日行っている。
病院は相部屋である。
そしてお見舞いに行ったベッドの向かい側に、今日またひとり新たな母親が分娩室から移動してきた。
どうやら男の子を産んだらしい。
さっそく看護師から授乳やオムツ代えの指導を受ける声がカーテン越しから聞こえ漏れてくる。
その話の中で彼女の身の上が話されていた。

「入院中は誰もお見舞いには来ません。」
「出産前に離婚した。」
「里親は・・・」

察するにシングルマザーの身なのだろう。

詳しい事情はわからない。
しかしこの先大変なのは第三者からでも容易に想像できる。

看護師が去った後しばらくしてカーテン越しからこの母親のすすり泣く声が漏れてきた。

結婚や出産が現代に投げ掛けるひとつの側面を垣間見た気がした。

そしてこの母親に限らず日本はシングルマザーが多い国のひとつであるが、なぜ離婚率は高いのだろうか。
夫側の不手際、妻の落ち度、それぞれ個別の問題はいくらでも挙げられるだろうが、それは離婚率が高い本質的な理由ではない。

核心的な結論はある。
これは要するに家庭という切り盛りを成就するのにたやすく失敗するという問題なのです。
人生の行路を「成就」でなく、「消費」ととらえざるを得ない文化の問題なのです。

どういうことか?

その前にそもそも離婚というものが良い選択かそうでないかを分析せねばなるまい。
当然、「離婚」は暴力を振るう夫から逃れるための安全装置であったりもする。
また反面、慣れ親しんだ親から引き剥がされることは子供にとっては非情なものでもある。
だから離婚というものが良い選択かどうかは簡単には決められない面がある。

だがしかし、少なくともオレの周りにいるバツ1とか2とかの人間を見ると、離婚を選択してる限界点がその人の不満の限界点に置かれている場合が非常に多い。
「不満の限界点を越えたら耐えられないのは当たり前じゃないか!」
そう言う前にもう少し聞いてほしい。
これは忍耐論の話ではない。

もっと言うと今の結婚はする前から離婚を折り込み済みになってる観さえある。
「いやなら別れる」という切り札を用意しているのである。

本当にどうにもならなく別れるという選択肢がなくはないが、この話は困難があった場合、それに対しどうにか切り盛りしてゆく決意が最初から全く見えない。

つまり先ほど申し上げた「成就」という観念が欠落しているのです。

では現代人の誰もが陥っている「消費」の文化とは?

困難を避け、常に快適さを取り込むのを至上価値にすることをステイタスとすることで、
日常に次々と現れる課題をその場限りで消し費やし、何十年も経った後、何にも成就してなくて途方に暮れてしまう年寄りのことなのです。
ちなみにこういうお年寄りはいつまでも若く、どこまでも長生きしたい、そのことだけがその人の人生観になっていて、長生きして何かを成就するという人生観は全くない「消費者」なのです。

誰だって快適さを選択するのは当たり前であるが、この観念に決定的に欠けているのは?
「変えられるものは変える努力をする、変えられないものはそのまま受け入れる」という運命を引き受けるという宿命観が壊れているのです。

人の人生は一度きりです。だが、「一度きりの人生、好きなことをしましょう!」というのが現代の文化となっているが、一度きりの自分の置かれた境遇を引き受ける、そのことを成功することに人生観を見出そうとすることは誰だって怖い。
だって望むもの全ては手に入らないことを死ぬ前に、生きてる内に受け入れることだから。

「人生諦めたらダメ」とか「ポジティブ思考」とかそのままでは絶対に良いものとは思わない。
なぜならそれは単にあなたの欲望を前に出してるだけだからです。
「お金持ちになることを夢見ない人は絶対にお金持ちになれない」というのとか、お前が上にあがれば、たくさんの人が下にさがることを見てない全く自己中心的なものの見方で、パワーバランスの話なのです。それは夢ではなく欲なのです。

「離婚」というものももはや消費文化に根付いてしまってるんです。
「離婚」して“それ”が成就するのか?
ならば「離婚」もよいだろう。

カーテン越しのシングルマザーよ、成就せよ。

マッチポンプ

消費税増税からいきなり軽減税率導入を推しはじめた。
まずは消費税10%でいかがでしょうか、外国では20%の国もあるのですよと押し通しておいて、やっぱり生活必需品には税を安くしますという話です。

確かに外国では消費税が20%の国もあるので、日本は消費税が安すぎるという論調はある側面正しいです。
しかし外国の場合、それは見掛けだけでどんなものでも一律20%ではなく、例えば新聞や本は消費税を安くしたり、食料品はゼロ、もしくは食品ひとつひとつにきめ細かく税率を設定していて、実質は20%ではない。だから日本のなんでも消費税5%と単純には比べられないはずです。

ところが、消費税と軽減税率の話をセットでいかがでしょうかと国民に問うのでなく、別々に段階を追って議論が進んで来たのにはいかがわしさがあります。

この話をよく見ると、たとえ消費税を10%に増税したとしても、軽減税率が適用されることにより、税収自体は5%のときと変わらなくなる可能性もあるということです。

これで誰が得をするのか?

軽減税率の恩恵に授かった業界ということになる。
日本の低い消費税を上げようというスローガンは単なる演出で、その実は特定の分野にいる者だけを保護する仕組みになってしまっているのです。

そしてもっとよく考えると、増税しても国家の税収が変わらない状態なら、10%から15%、20%へと更に増税へとならざるを得ないわけです。

消費税増税も軽減税率もダメだと言いたいわけではない。
この巧妙な手口がはたらくことによって、増税が待ったなしになることが危険なのです。

デフレの世の中、ましてや震災後の復興がすすんでない地域にとって、増税されると復興の大きな足かせになる。
それでもどうしても増税したい人が世の中にはいるということなのでしょう。

この巧妙な手口で増税路線の方向付けとなっているのは、一般的にはわからないのが当然です。
こういう悪循環を生み出す自作自演をマッチポンプという。

大津の中学生いじめ自殺

大津の中学2年生いじめ自殺。この事件が発生後かなり経過して問題となっている。
そしてこれはひとえに子供を管理する大人の責任、この一点につきる。

事件が起きた原因やいじめられる側が良い悪いなど子供たち個々の問題は様々に指摘されるかも知れないが、「大人の責任」この点から出発しないと問題の大筋から脱線し、
誰が悪かった、これがいけなかったと個別の問題で終わってしまい、結局あのときあんな「ニュース」があったなと、ひとつの出来事として片付けられてしまうのです。
その理由はこうです。

まずこの「社会」の中に暮らす我々には、様々な世代の人間がいる。
各世代の人間はたまたまこの時代に生きてるのであるが、社会はただ漠然と成り立ってきた、と言うわけではない。

少なからず、管理され、規制され、社会としてよいとされるある方向へ向かいながら運行されてきた。
つまり、陰湿ないじめのあるこんな社会は「変な社会」ではあるかも知れないが、紆余曲折を経たひとつの結果としての「社会」なのです。
こういう考えから出発することがまず大事ということです。

そうなれば、大人たちは何をやってるのか、ということになるのです。
当然、「ボケッ」としてきたのです。
これからも「ボケッ」としてしまう可能性は大です。
そして「ボケッ」としてしまう理由にはちゃんと訳があって、社会というものが「自分たちの知らないところで勝手に動いてる」と勘違いしてるからなのです。

極論すれば、いじめをしてはいけない理由などない。
ましてや少年法改正で、名前が公表され、罰せられるからいじめをしないようにするのは、残念ながら本質的な解決ではない。

人間は集団の中で生きる以上は、意識するしないにかかわらず他人を攻撃したり、傷つけることはありえるもの。
そういう人間理解ができるなら、行過ぎたいじめという度を越した行為に対し、「ちょっとやりすぎじゃないの?」と暗黙の警告を発してくれるものが、今のところ法律やルールくらいしか効き目がないという、悲しいことなのです。

社会は法律やルールが機能していれば、勝手に動いてくれるほど生やさしいものではないのです。

ところが最近は法律やルール、制度が肥大化している。
どういうことかというと、「ルールさえ守っていれば文句は言わせない」とか、「これは“イジメ”ではない、“ケンカ”です」と勝手な解釈に持って行く、「汚い」手段が横行しています。
言いがかりや言い逃れというのは「汚い」手段です。
この「汚い」手段を子供たちが使うようになってしまってる。
社会はこのようなルールや制度が勝手に暴走しているのを、止めることはできない。

人間は社会という環境の中で言葉(ルールや制度)では表現し切れない経験や習慣(度を越してはいけないとか)を通じて、行動様式を体得する。
つまり人の道、物の道理を体得してゆくのです。

思想家、荻生徂徠(おぎゅうそらい)は江戸時代からこのような人間理解を提言しています。