「異端児、常識を疑う」 -13ページ目

“ネット右翼”か、それとも考えのない左翼か

安倍自民党に返り咲きいた衆院選はネットの効力が極めて大きかったというのが一般論である。
しかしこのことに対する評価は、安倍さんがネットをうまく“利用”して支持を集めたに過ぎないというものである。
それはネットに巣食う“ネット右翼”と呼ばれる人たちの票を集めたことに過ぎず、そして彼ら“ネット右翼”たちは、ネットをうまく利用すれば、簡単に操作できる対象ということを意味する。
要は、「バカどもをうまく洗脳したな」、という評価である。

ただし、この“ネット右翼”にしろ何にしろ、レッテルを貼ることは、まずをもってフォビア(今はやりの嫌うという意味)しなければならない。
その理由は、必ずと言っていい程レッテルを貼ると、単純思考で条件反射的に「ああ、あの人は○○なのねぇ」と、自動的に「○○」というイメージ操作がされ、その対象の本質を見抜くことをあきらめさせる危険なことだからです。
つまり、相手を非難しやくすくするための“決めつけ”で、よくある技術なのです。

では、ネットおよびネット右翼と呼ばれる人たちの本質について、正しい検証をしなければ、真の安倍評価にはできないことになる。

“ネット右翼”なる者たちが、集う“ネット”とはいかなる媒体であるのか?
そこは所詮そんなものよと言い捨てられる程度の場所なのか?

まず、正論がきちんと有権者に届く装置がネットであると仮説してみる。
じゃあテレビ、新聞は正論が届かない媒体でなのかということになる。
残念ながらその通りであり、逆にネットは偏向報道がむしろやりづらい媒体であったと評価できる。

では、安倍さんが直接的にも間接的にもネットで発信したことは本当に正論だったかが、なぜ保証されるのかと言えば、言論が偏向なくきちんと有権者に届き、それを有権者自ら評価した結果が“支持”という帰結にもあるからこそ、正論と言えるのではなかろうか。
更にその有権者の評価する能力は大丈夫か、彼らのオツムはどうなのかという問いが次に来るが、もちろん程度が低ければ、その支持も無効なものになる。
だが、ごく当たり前のことを安倍首相が言ってるからこそ有権者はなるほどと納得した訳であるし、その内容は誰が見ても理解可能なものである。能力云々というより、当たり前のことを当たり前に受け取れるかの問題である。

では、ごく当たり前のこととは何か?
それは、これまでと2012年衆院選の街頭演説での大きな違いを見れば一目瞭然である。
秋葉原に1万人集まった安倍さん、麻生さんの街頭演説では、「尖閣を取り戻せ」や「日教組反対」といった保守的な内容に合唱が挙がるのはことさら不思議なことではないが、この時は政策の具体的な内容、しかも金融政策という一般国民がよく分からないと思われる内容にもかかわらず、同意の合唱が聴衆から示されたのである。

これは今まででは考えられない現象である。
今までなら、「構造改革」などに代表されるように、中身に関してはブラックボックスで、表面上は直感的なイメージだけで単純化された“四文字熟語”で、誰しもが「なんだか国民のためにいいことをやってくれる」ような「ワンフレーズポリティクス」で誤魔化されていた訳だが、今回、金融政策の是非について有権者が判定をくだした裏付けには、やはりテレビ・新聞では判定できない材料をネットを介して受け取っていたのだと言える。

ネットだと雰囲気に流されず、複数の人の手によってより分かりやすく理解できるレベルにまで自然と噛み砕いてくれる

そして一般有権者レベルでも安倍さんの金融・財政を含む経済政策全般に関心を持ち、能動的に支持を表明できた訳で、考えてみればごく当たり前のことができない仕組みにネットは風穴を空けた訳である。

ところで、それでもまだ安倍首相のやってることに不信感は残ってるかもしれない。例え分かりやすく政策を示されたとしても、もしかしたら民主党のように先々裏切られたら元も子もない。
しかし安倍首相を“支持”するいわゆる保守系と言われる知識人たちの態度を見れば、保守と言う立場を取る安部首相にいちるの信頼感が持てもする。
それは彼ら、保守系支持者たちが「安倍さんがもし間違った方向に行ったとしたら、ただちに正しい方向に行くよう声を上げる」という態度です。
自民党を支持してるという訳ではなく、正しい方針を示してる安倍さんを支持しているのです。
“支持”とは教祖さまを絶対的にあがめたてまつることでも、統治者と支持者とが既得権益で結びつく契約でもない。

安倍首相とその支持する言論人たちの態度を見て、こういう客観的な解釈ができず、保守=ネットウヨクの集まりとするのは即ち、思考停止状態で単純思考に陥ってることに気づけない左翼思想なのです。

日本を取り戻すとは?

「日本を取り戻す」という自民党のスローガン。

ほとんどの人は自民党と民主党の区別がつかないはずなので、「日本を取り戻す」って、どういうこと?誰から?と素朴に思うのは無理もない話ではある。

取り戻すと言うからには外国からという風に思えてしまうので、おおむね尖閣諸島に対する中国からの領有権主張、竹島に対する韓国の主張、北方領土に対するロシアの主張など
領土にかかわる問題に関連するようにも思える。
つまり国防力の強化が「日本を取り戻す」ことにつながる、という風に捉えられるのが一般論でもある。
だから新聞、テレビなどで、安倍政権は右傾化、右翼的であるという評価になっている。

果たしてこの評価の仕方は適正か?

確かに安倍政権は国防軍をつくると言っている。
今の自衛隊が中国の船を鉄砲で撃ったとしても正しかったかどうかは、刑法問題、殺人容疑かどうかで裁かれる。
が、国防軍であれば、軍事的に正しいかどうかで問題を組み立てられる。国防として軍事的行動を取ったのだと外国と議論ができるのである。

しかし中野剛志氏は国防を軍事だけで捉えるべきでなく、広く捉えるべきであると付け加える。
経済面での防衛ということである。

安倍政権の経済政策はアベノミクスといって、デフレからの経済立て直しを当面の課題としている。
金融緩和で市中に出回ってる貨幣価値を日銀に操作させ、政府は財政出動をして、景気の循環をよくする。
つまり政府が主導権を握り、監督して、日本経済に責任を持つという姿勢を取るというのがアベノミクスである。
政府が主導権を握るからには、ある面では規制を敷いたり、ある程度の国内産業保護をすることによる外国との軋轢は生じる。公共事業に対する批判も生じるだろう。
というのが概要である。

つまり効率性、合理性を重視したグローバリズムや経済の動きを市場に任せて政府は口を極力出さないという新自由主義的な政策はそろそろおしまいにするというわけです。

では、これらの経済政策に舵取りをしてゆくのに、日本はどういう態度を取ってゆくべきか。

中野剛志氏が指摘るすのは、グローバル化はもう既に終わってるということである。

安倍政権が経済政策を進めてゆくにあたり、アメリカと手を携えてゆくとき、実際の世界情勢では、中国は軍事力を増していて、逆にアメリカのアジアへの軍事的、経済的な影響力や存在感が下がっているということをしっかり押さえてゆかねばならないと指摘する。
であるから、単にアメリカの機嫌を損ねないような態度だけでは、アメリカ自体の体力が衰えているので、日米同盟強化をするならば、日本も軍事的に強化した上で、アメリカをタッグを組んでゆくような方向にどうしもならざるを得ないというわけである。
アメリカ自身も中国と対峙してゆくのに現実的には難しくなってくるのである。

民主党政権はひどかった、悪かったと言ってる時期はもう過ぎて、世界は激変している。それを踏まえて次に進むべきなのである。

日経平均だけが味方

自民党の圧勝によって安倍政権が誕生して以降は、日経平均が1万円を越え、円安が加速している。
これは、アベノミクスと言われる安倍さんの経済政策に対して、世論の景気回復への期待感がもたらしている指標であると言えるだろう。
安倍さんの経済政策「アベノミクス」、それは簡単に言うと、14年間続いたデフレから脱却する政策をする、と宣言したことに集約される。

しかし世論の期待とは裏腹に、安倍さん自身は「自民党が勝った」とは楽観視していない。
むしろ「民主党の惨敗」によって、もたらされた結果だと言う。
今回の選挙が表現する民意は、“民主党の圧倒的不支持”に過ぎないというわけです。

そして安倍さんが結果について楽観視しない最大の理由は、ねじれ国会が続いてるからに他ならない。
ねじれ国会とは、今回衆議院で与党となった自民党が、参議院ではいまだ野党であり、つまり議席数が過半数に届かないので、安倍さんの政策が衆院で可決されても、参院で差し戻されるという、法案成立が思うようにいかない状況なのである。

安倍政権の障害となるものは、ねじれ現象だけにとどまらない。
テレビ、新聞をはじめとするマスメディアによる「安倍叩き」の一斉攻撃が始まったばかりである。
NHK、朝日新聞はおろか、保守系と言われる産経新聞までもが、安倍叩き一色に染まり、大変お気の毒なくらいです。

参院選の先には、尖閣の問題をはじめとする国防の問題、原発問題をはじめとするエネルギーの問題など、安定政権でないと束ねることができない問題がいくつもある。
そして安定した政権にするためには、何が何でも2013年7月の参院選で勝たねばならない。
民主党ももはや主戦場は参院にありと態度を変えている。
第二次安倍政権の船出は決して順調とはいえない。

しかし、どんなにテレビ、新聞のマスメディアが安倍さんを叩こうとも、勝つための唯一の味方は存在している。
それは日経平均が12000円を越え、90円以上の円安が維持されることです。

つまり普通に景気が良くなったと、経済の指標で評価として表わせられれば、マスメディアが何を言おうとも、参院選の結果は正直に跳ね返ってくるのです。

マスメディアの安倍叩きの手は緩められない。
いったい何故叩くのか、どうやて叩いてるのだろうか?

それは尖閣の問題とも深くかかわっている。
日本経済の冷え込みは、中国経済と大きく関わっているという説で、反日デモやストライキ、日本企業の不買運動など、中国の機嫌を損ねると、日本経済に悪影響が及ぶという見方である。
だから尖閣の問題は慎重にせよ、中国との関係修復を急げという声が挙がってくるのである。

しかしこれについて全く認識が間違いであるというのは、経済評論家の上念司氏である。

円高だから国内で製造するより、中国で製造して逆輸入した方が得なので、日本企業が中国に拠点を移したというのが一般的なグローバル化の流れととらえられている。だから日中関係のバランスが日本経済にとって大事と言う理屈につながる。
しかしそれは上念氏からすれば、全く違っていて、日本企業が中国に拠点を移したことは、「円高だから」というよりむしろ、「元安」の政策をとる中国に乗っかり、わざわざ生産拠点を移したと見なければならないのだと言う。
つまり日本の慢性的な円高は自然現象ではなく、「明らかな力」がはたらいているということである。
その結果、日本で働く雇用者は仕事が減り、デフレなのです。

この日本の円高を下支えする「明らかな力」によって、中国はキャッチアップ型で経済成長ができた訳であり、「明らかな力」によって円高とデフレを放置されてきた訳である。
ついでに言うと、人口減少がデフレの原因だと主張する、ベストセラー「デフレの正体」を書いたオッサンや日銀の白川総裁などは上念氏は大嘘つきと切り捨てている。
であるから、デフレの仕掛人である張本人は「日本銀行」という訳です。
日銀は円安に向くような金融政策を14年間、ほとんど避けています。

アベノミクスと言われる安倍さんの経済政策では、「デフレを止める、株価を上げる」と断言しています。
つまり「日銀が続けてきた株価を下げるような政策を止めさせる」、と言ってる訳です。

そりゃ、マスメディアは一斉に安倍叩きをするはずなのです。
そして日銀への対処のためには、参院選は何がなんでも負けられないはずなのです。

衆議院解散総選挙

衆議院解散総選挙で民主党が終わる。

一度民主党にやらせてみようと、政権交代してはみたが、やっと自民党に戻ってくるというのが正直な感想である。

あまり振り返っても意味はないが、民主党とは何だったのか。

民主党の政権与党に対する一般的な評価は、政策が無策。なぜなら党内で意思決定バラバラでそのプロセスが不明確。
つまり党の理念がこれで、だからこの政策をするという、党内での議論、そして一度決定した方針は党内で協力しあうといった政府としての根本基盤が確立されてないということである。

対して、自民党は総務会という場所で徹底的に議論する、そしてそこで決まったことは従う。だから安部さんが総裁に選ばれた以上、方針は従うという政治的責任を担っているといえる。

では、意見がまとまればよいのかというとそうではない。
民主党の支持母体は連合(労働組合)や日教組だが、どうやらこれらの組織の意向をそのまま政策に掲げてる。
これらの支持母体の批判はしないが、これらの組織の理念となっている左翼的平等思想が、保守政党である自民党と相反することが多く、決定的に平等思想に落ち度があると思うのは、平等の名の下に、不平等に対する特権を要求し、不平不満を抱いた人々を取り込み、「団結」しようという動きにある。
なぜならば、この「団結」とは多数決で勝利する多数派のためであり、何が正義かを精査したり、徳をつんで人格を磨いたり、努力した人が報われるという、物事には差(差別でなく)があることを根底にすえないで単なる団結すれば、多少のことは目をつぶるという思想に陥りやすいからである。

これまで民主党は離党者が増え、候補者不足で、勝ち目は薄い。

今思えば、かつて安倍さん、麻生さんと自民党の首相が次々と失脚させられたのは、今回の民主党のような無策であったからというケースとは全く違う。
なぜなら、安倍さんに関しては、教育基本法改正、防衛庁から防衛省へ昇格、非正規雇用者に保険と年金をつけるなどの重たい懸案を短期間でやってのけたが、重たいがゆえに反対派の圧力もあったと見ることができる。麻生さんに至っては、落ち度は全くなかったのに、「未曾有」の漢字を「みぞうゆう」、「踏襲」を「ふしゅう」と読んだがゆえに、大きく叩かれ何度も何度もマスコミにおもしろおかしく報じられ挙句に失脚させられました。マスコミによってです。

はっきり言って、多少の漢字が読めなくても、肝心の政策決定には全く影響ないのです、意味さえ理解できていれば。
考えても見てください。もし仮に東日本大震災の陣頭指揮をとってる記者会見で、多少の漢字の読み間違いがあったとしても、そんなことより、一刻を争う対応のことの方がはるかに大事で、読み間違いをいちいちテレビで指摘する方が、「何をやってるの」となるでしょう。

いずれにせよ、麻生さんは自民党最後の砦であったのを、たかが漢字が読めないだけで政権交代となった背景には、おもむろに政治的プロパガンダというパワーを感じざるを得ないのです。

まさに麻生さんの漢字読めない報道は、都合のいいことは報じ、不都合なことは隠すマスコミが用いるプロパガンダの常套手段であった。
これを「カードスタッキング」という。逆に安倍さんの政策決定は自民党転覆にとって“不都合”なことなのか、同じくカードスタッキングにはまったのです。

また、別の手口で、「非・平凡化」というものがあります。
麻生さんがホテルのバーで数万円のウイスキーを飲んでいたことを批判することによって、民衆が“自分とは違う”疎外感を与え、イメージを悪くさせるといったものです。逆に鳩山さんが、安いご飯を食べて庶民派と報じ、国民に親近感を与えるのは「平凡化」です。だが、鳩山さんは世界シェアトップのタイヤメーカーのお孫さんなんですよね。

そしてもっとも大事なのは、政治的プロパガンダというものは2種類あって、教養のある人には論理的に教義として吹き込むこと。教養のない人には彼らの不平不満を利用して世論を動かすことと、である。つまり我々教養のない人はマスコミからの情報というものをそのまま受け取っていてはダメだということです。

さて、民主党は終わろうとしているが、自民党がすんなり勝利するのか?
橋下さんの日本維新の会という新勢力が今回現れている。
こちらは左翼的な団体とは違い、構造改革を柱とする新自由主義的な政策がメインである。みんなの党もほぼ同じ。
また、日本維新の会には石原慎太郎さんの団体やたちあがれ日本が合流しているので、今回自民党にとって最大の競争相手となるでしょう。
更に日本維新の会はバックグラウンドに竹中平蔵さんが控えているので、要は小泉構造改革の続行を柱としているともいえます。
いずれにせよ、新自由主義的政策は自民党の保守思想とは多くの点で食い違っていてる。

特に新自由主義者の陥りがちな動きとして、ポピュリズムにある。
改革というテンポの良いワンフレーズだけを先行させて、人気を取りたいがために脱原発も主張する。逆の視点である、脱原発のネガティブ要素を全く論理に組み込んでいないという、危うさ。それがポピュリズムである。

今、プライオリティの高い問題は何か?経済の問題、デフレです。
それと尖閣の問題、国防です。たとえば島根県に一般の中国人が10数人程度来ても問題ないが、千人単位で上陸されたらどうなるか。保安庁だけではどうにもならないそうです。
優先順位の高い問題をしっかり対応してくれるのは、やはり問答無用で安倍自民党にかかっているのです。

価値相対主義との闘い

他人への無関心。

二人でお茶してて、片方が自分の話をして、次に相方が自分の話をして、また片方が自分の話をして…。
と、つまるところ他人の話を聞いてないことってある。
たかだか、喫茶店での会話に目くじら立てて、他人への無関心と批評しても詮無いが、この現象は仕事中の会話や、たとえ仲のいい友人間、夫婦間でも、多かれ少なかれ、皆が陥ってることではないか、そんな風に感じる。
自分が他人に興味を持たないのか、興味を持てる他人がいないのか…
その答えは伏せておくとして、他人への無関心が起こる原因に、「個人主義の病い」があるのではないだろうか。と問題提起してみる。

どういうことか?

オレはオレ、他人は他人で、それぞれ意見は自由にあり、それぞれの意見は平等に尊重されねばならない。
そう考えるのが自由と平等の「個人主義」であるから、自分も他人も各自の意見に優劣の差はなく、すべては異なる好みの問題ということになるです。

即ち、あらゆる価値には“根拠”がない、と「価値を相対化するものの見方」なのが「個人主義」なのである。

もう少し噛み砕いて言うと、「あの人の趣味に良い悪いはなくて、その人が好んでやってるならその人にとって価値があるだろうから、その趣味の優劣を誰にも評価する権利はない」
とする態度である。

「世の中のすべての価値は無価値なのだ」、それはつまりニヒリズムである。
現代に虚無感があるのはこのせいかも知れません。

では、本当に「価値」は相対的なもので、誰がなんと言おうとこれは絶対的だ言える価値は存在しないのだろうか。
いや、そうあると考えることを辞めているのである。
もしくは考えることを遮られているのである。

その根拠は?

ヨハン・ホイジンガが、人々が“あるかどうか確かには分らないもの”を考えることを辞めてしまう態度を「ピュエリリズム(文化的小児病)」と名付けて、
「聖なる感覚」が失ったときに、この態度に陥るとしている。

「聖なる感覚」とは?
まさしく宗教感覚である。
ところがどこそこの宗教が大事であるという意味とは少しちがう。

「聖なる感覚」とは、この世には大事なものがある(絶対的な価値はある)、大事なものの前では従順である(宗教感覚)、というような意味で、要するにニヒリズムから何とか遠ざかろうとする態度である。

別の言い方を借りると、「可能性感覚」である。

「可能性感覚」とは、
『今あるものが全てでなくベストでもない。他にありえたものを考える能力』であり、
しかしながら、『今あるものを今ないものよりも重要視しない能力』である。
もう少し分りやすく言うと、
『大事なものや真の価値はどこかにあるはずだが、それを見出すことは難しい』とするような、自分を過小評価するのでもなく、過大評価するのでもない、大事なものに対して従順な態度であるということである。

こういう感覚があれば、こういう態度でもって、価値相対主義との闘いに赴けるのであろうと。

いずれにせよ、人が集団で生きてる以上は、他人を意識することが必定であり、その調和をどう平衡してゆくかという難題からは逃れられないということで、
簡単に、システマティックに解答を導き出すものではないと、そう考える能力を閉ざしては本当の不幸になるのだと、感じるのです。

参考文献:西部邁「生まじめな戯れ~価値相対主義との闘い」、「ニヒリズムを超えて」