「異端児、常識を疑う」 -11ページ目

特性のない男

「特性のない男」とは、ロベルト・ムージルというオーストリア人小説家の長編作のことである。
実はこれをまともに読んでもいないのだが、この主人公「特性のない男」のひとつひとつの考え方が非常に重要なことをたくさん含んでいると思う。

特性のない男と言われれば一般的に、“特徴がない男”、“とりえがない男”、“平凡な男”と想像されるが、ここで言う「特性のない男」とは、単に見た目のことではない。

この男は現実に起こったことだけを重要視せず、他の可能性を捨てない「可能性感覚」を持っている、そういう男のことを言っている。
では、可能性感覚を持った男というのはなぜ「特性のない男」になるのか?

普通、人はいいことであれ、悪いことであれ、現実に起こったことは目の前の現実として降りかかり、喜んだり、悲しんだりする。
これはごく当たり前の感覚であって、現実を見ず、ありもしないことに執着して考えることは、現実も空想も区別のつかない変な人、異常な人として扱われてしまう。

ということは、可能性感覚というのは変な人の感覚なのか?

一方で、現実のことだけを考え、現実のみを重要視するということは、例えば最も大事なことは何かと問われた場合、現実の世界の中で大事なもの、例えば「命」と答えることになる。
命がないとお金も幸せも家族も友人も何もかも手に入れられない、現実の世界の中で何も成し得られないから、という理由で、そう答えざるを得なくなる。
生きていなきゃ、何も始まらないし、何も生まれないということである。
しかし厄介なのが、この答えの行く先には、生きてさえいればよいという人命第一優先の考え方で、なぜ生きるかという中身は後回しになり、生きる意味や価値は深く問わなくても生きてゆく上で決定的な支障はきたさない帰結にどうしてもなってしまう。

彼らは、中身はどうでもよいなんて、決して思ってもないだろう。
人命尊重というレトリック(綺麗ごと)を盾にそう言っておけばまかり通り、許されるという態度で、長く生きられる保証それ自体が大事と思い、長生きしなければならない理由は特にないと納得されるのである。
大概人間なんて、せいぜいおいしいものを食べて、旅行に行くことくらいしか生きてすることはない。
現実感覚だけで生きていると発想が乏しくもなる。
現実を突きつめるだけ突きつめれば、残るのは価値や意味という抽象的なものでなく、モノや形になる。

大事なものはモノや形ではない、と否定してるのではなく、モノや形は大事なものを具現化しているものであって、その具現に含まれた意味や価値を嗅ぎ取るには、可能性感覚が必要になってくるのだと思う。

「特性のない男」はこの可能性感覚があるがゆえに、現実感覚だけで価値を決めたりしない。
決められないといった方がいいかもしれない。
価値を確定できないがゆえに、大事なものがそう簡単には分からない。しかしニヒリストのようにどうでもいいやと開き直ってあきらめるようなことはしない。
それでも確定できず、分からないからこの場に居続ける。つまり「特性のない男」で居続けるのである。

何も考えてないのとは違う。諦めてるのとも違う。
自分を手放しで認めてるのとも違う。
どこかで自分を疑う自分がいる。それは大事なものを見誤らないためで、自分が嫌いだとか、自信喪失しているところから一歩抜け出て、あえて自分を疑う姿勢である。
どこかで自分を疑う自分がいる感覚こそが、「可能性感覚」に近いのでないだろうか。

普段、自分嫌いや自信喪失などの理由で、精神的にまいってるということを聞くと、大事なものを見誤ってしまう境遇の自分でいたまま死んでゆく、あるいは生き続けることの方が本当に恐ろしいことだと思う。
この世の中が楽しかろうが、つらかろうが、大事なものを見誤ったままだとどっちにしても不幸で、生きていようが死んでしまおうが、どっちもどっちということなのかも知れない。

可能性感覚は大事なものが何かを、価値をどこに置くかの判断を下す手助けになってるのだと思う。
そういうわけで、「特性のない男」で居続けてみたい。

西部邁基調講演「アベノミクスと改憲の是非を問う」

8/2(金)に西部邁氏主催シンポジウム「アベノミクスと改憲の是非を問う」へ行ってきた。
会場は日比谷公園向かいの日本記者クラブのプレスセンタービル10Fで、ちょうど区の体育館くらいの広さの場所だった。
定員は300名だったが、340名以上を入場できるようにしたが、400名以上の応募があったらしく、断られた人もいたらしいです。

前半はアベノミクスがこの先どういう舵取りをすればよいか、またどういう逆境が待っているかについてのテーマ、そして後半は憲法論議についてで、改憲の是非を問うというよりも、憲法とはどういうものであるのか根本的な話を西部邁氏、中野剛志氏、柴山桂太氏が順番に論じられていった。

前半のテーマでは、安倍自民党が崩れる主な要因として3つ挙げられた。

参院選で自民党が圧勝したことにより、政局が安定してうまくゆけば長期政権が期待される。
そんな中でとても退屈してしまってる人たちがいる。
それがマスメディアだと。
とにかく何かネタになるスキャンダルをマスメディアは探している。

ついこの間、麻生財務大臣の「ナチス発言」の報道があったが、まさにこれである。
麻生氏はナチスを礼賛するような発言をしたと言われているが、まったく逆で、「憲法改正は、かつてドイツでナチスが戦争の動乱に乗じて伝統的憲法であるワイマール憲法をどさくさに紛れて改正してしまったが、日本でもそういうドタバタの中で憲法改正はやらないように、ドイツに見習おう」というのが正しい内容でした。
この報道は真実を捻じ曲げてでっち上げられたものであって、スキャンダルというよりデマ報道である。
それが新聞、テレビで本当かのように流される。これはとてつもなく手ごわい。
マスコミに足を引っ張られて安倍自民党が崩れるという不安が1点目。

それから米・中列強との関係で外交における判断ミスによって追いつめられるというのが2点目。
そして3点目にアベノミクス3本の矢の空中分解が指摘された。

2点目と3点目は密接に関連している。
アベノミクス1と2本目の矢である「大胆な金融政策」、「機動的な財政政策」は主に日本国政府が主導してコントロールするものであるが、これは米・中が推進するグローバリゼーションとは真っ向から相反する。そして今後どういう経済の道筋をたどるか指針であるアベノミクス3本目の矢「成長戦略」は民間主導で行うことになっており、グローバリゼーションと非常に相性がよい。
なぜなら、政府の規制を排し、国境なき自由な経済活動を掲げ、「政府は余計な口を出すな、民間の自由を邪魔するな」というのがグローバリゼーションだからである。
となると、アベノミクス3本の矢はそれぞれの矢の方向性が内部で真逆になっていて、いずれ空中分解してしまうというのである。

なぜ成長戦略がグローバリゼーションを根本に考えられているかは、戦略にかかわる人たちが新自由主義的な発想を持った政治家、官僚、知識人で構成されているからである。

では新自由主義的な発想を持った人を排除すれば済む話なのだろうか。

そうではないと、このシンポジウムで中野氏、柴山氏は述べられていた。

そして、この新自由主義が台頭してくる背景に、政府の統治能力のおとろえが関係しているという。
政府の統治能力、とは何か?

サラリーマン風情にに政府の統治能力や国家観と言われても、一見何のことだか関係ないように見えるが、西部邁氏は次のような表現をされていたので、少なからずどこかで自分と関わってくるものだと改めて思い知らされたのである。

それは後半の憲法論議のところで話されていたことだが、
「国家は作るものでなく、成長するもの」ということである。
別の表現では「国家は建設するものでなく、どう引き継ぐか」とも話されていた。

国家や政治とかは良きリーダー、カリスマリーダーが現れて、その人たちが政策をうまく編み出してよい国家や政治が構築されて、国民が幸せになるという風に思われがちである。
だが、それは設計主義といううぬぼれであると。
成長戦略など、いかなるすばらしい政策論議がされて編み出された政策にしろ、国家の根本規範や国柄に基づかない議論なら、それで編み出された政策はしょせん設計主義的で人間には誤謬性(間違いを犯してしまうもの)があることを忘れてしまっているのだと。

理想を打ち立て、それを実現するのに技術を駆使して、すばらしい仕組みや制度を創ったとしても、もし人間が本当の危機に瀕したとき、技術や理想というのはいざというときには何もしてくれないが、国家の根本規範や国柄となるものの感じ方や人とのつながり方といった「人間の精神の力」を大事にしていればその危機に対応できる。
設計主義というのは想定できることに対しては、理論がたくさん盛り込まれていて一見完璧に見えるが、いざ想定外の本当の危機に瀕したときは、技術を越えたところで、よりどころにするものがなく、やがて崩壊する。
だから、国家はいきなり建設してうまく機能するものでなく、いかに大事なものを後生へ引き継いでゆくか、そうやって成長するものなのだと。
今までそうやって、危機を乗り越えてきたのだから、人間の精神の力はこれからも大事に受け継いでゆこうよ、そしてどうやって受け継ぐのかは、口伝えや伝統として受け継がれたり、時には常識として不文律で受け継がれるが、決して設計書に書かれた条文で受け継がれるものではないし、慣習とか形の中に埋め込まれた伝統は感覚でしか受け継ぎようがない部分もある。こういう人間の精神の平衡術に関わってくることは、一介のサラリーマンであろうが、何がしかの専門家であっても国家観というものは関わらざるを得ないということなのです。

サラリーマン風情というものは、経団連や上場企業からそうであるように、新自由主義というひとつの方向性に従わざるを得ない集団であるのは間違いない。
であるから、サラリーマン文化というものは、どこかで政府の統治能力を衰えさせるという、この矛盾にどう携わってゆくか。
難題である。

福島に健康被害なし

脱原発をスローガンにする山本太郎氏が定数5の東京区で参院選挙に当選した。
アベノミクスが好調の自民党が圧勝したわけだが、その一方で共産党の躍進も目立った。
それとは逆に民主党は結党以来、最低の議席数で大惨敗となった。
そして、民主党に愛想を尽かしたけれども、どこの政党も支持する気にもなれない人たちによって押し上げられたのがこの山本太郎氏である。

彼は脱原発をかなり強く主張している。
しかも「このままだと日本は核廃棄物処理場になる」と少々非現実的に思えるような論調で、非常に過激な反応である。

彼がどれだけ原発に関する研究を続けてきたのかはっきり知らない。
が、福島の原発事故の本当の影響調査や、脱原発した後のエネルギー供給を本気で考えてるのか、
説得力のある説明はされてないのではないだろうか。
聞こえてくるのは「危ない」とか「子供たちが心配」など、懸念事項しかない。

震災後、原発の被害はテレビ、新聞、ネットで正しい分析をされたかのように流れた。いわゆるミリシーベルトやらベクレルやらの定量的評価です。
被害の状況を数値で表されている(定量的)のだから、正しい分析であるのだろう。
それは間違いない。
しかしその被害予測は、いずれも反原発論の方々の見解であった。そのため、どうしても論拠の根底に“反原発”への思いが含まれてくる。
原発の被害が過大評価になっても仕方のないということです。
まずいのは、半分願望が混じってる見解が、テレビ、新聞、ネットで一斉に流れることによって、それが集団心理によって固着してしまうこと。
原発=悪玉の構図が出来上がってしまうこと。反原発=正義が出来上がってしまうことにある。

山本太郎氏自身、原発の危険性について特に根拠はないが、“原発はなんだか危ない”という集団心理の後押しによって、脱原発運動そのものを動かしてるのではないだろうか。
ここからわかることとして、集団心理というのは、論拠が正しいかどうかよりも、より多くの意見は、集まる方に流れてしまうということである。

そして震災から2年以上経ち、事故の調査や検証結果が取りまとめられた今、こんな報告が流れるようになってきた。

その報告とは、
「福島に健康被害なし」
である。

これは、国連原子放射線影響科学委員会(UNSCEAR)が、福島原発の影響について発表しているもので、健康被害は比較的小さい、食べ物も年間数ミリシーベルトだとほとんど問題ないとし、チェルノブイリと比べても格段に被害が軽微だとしている。
もちろんUNSCEARが原発推進派で構成されてるのであれば、被害状況を小さく見積もられてるという指摘は成り立つ。

しかし、ここで大事なのは究極的に、原発の被害があるのか、ないのかどっちが事実かの決着をつけることにあらず。

原爆を落とされた日本が、元々は高度経済成長期には「核の平和利用」と言って、原子力の恩恵を受けておきながら、今回の大事故でえらい目にあったとたん、今度は原発反はやめましょうと転じる人々。彼らは物事をいいとこ取りだけしようとしてるだけということなんです。そんな「脱原発論」はいかに説得力がないか。

そして、最も大事なのは、震災後、原発事故の細かな検証をしている間にどさくさに紛れて何が行われてきたのか?

「原発は危ない、脱原発」を盾に、IT企業の社長を筆頭に金儲けをおっぱじめて、既においしい思いをしている連中もいるということです。
誰の金で?
国民の支払う電気料金で、です。

こう書くと東電が、電力会社が悪いように思うが、これもどさくさに紛れたカモフラージュです。

震災後、どさくさに紛れて「再生可能エネルギー特別措置法」が成立した。
再生可能エネルギーとは、枯渇しない“自然界”を利用して生じさせるエネルギーです。
このエネルギー自体が、ダメだということではない。
なぜ、復興もおぼつかない震災直後の時期に、先々に考えればいい再生可能エネルギーの話をして、それの取り扱いにまつわる仕組みを法律にまでしなければならなかったか。

車の事故で、目の前の事故車の片づけをする前に、次にどの車を買おうかとカタログを取り寄せて検討してるのと同じことです。
普通に考えれば、おかしな話です。

「再生可能エネルギー特別措置法」では、例えば太陽光パネルで作った電気を、結構いい値段で買い取ることを義務付ける法律です。
誰が買い取る?
むろん電気を配る会社である東電とかです。
東電は原子力ならもっと安く自分たちで電気を作れるのに、法律で(無理矢理)高い電気を押し売られたら、企業としては損します。
すると、国民が支払う電気料金に損した分が上乗せされるという構図になるのだが、電力供給会社である東電は、当然だが損得だけでなく、供給しつづけなければならない責任も負っている。
「曇りが多くて電気が作れませんでした、ゴメンナサイ」で売る方は気まぐれで済むが、電力供給会社はそうはいかないです。
いざという時のために、予備の火力発電を待機させておかねばならない。

東電、いや電気料金を負担する国民からすれば、なんでこんな仕組みを法律にしたのか、さっぱりわからない。
こんなことを法律にして誰が何の得になるのか。

少し考えてみれば、これは本当に“おいしいビジネス”になってることがわかる。
ド田舎の安い土地に、太陽光パネルをたくさん設置しただけで、後は人件費もかかわず半自動的に、太陽ででき
た電気を結構いい値段で買い取ってもらえる。
田舎に工場を立てるより、もっとおいしく費用対効果の上がる仕組みである。
これはレントシーキングという新たなおいしいビジネスの手法で、この集金の仕組みを合法にするため、「再生可能エネルギー特別措置法」ができたというわけです。

こんなおいしい金集めの仕組みには、そりゃあソフトバンクの社長さんも、外国の企業も乗りたがるわけです。

最後に言う。
いいだろうか、脱原発など簡単に言えるものでない。
山本よ、おまえが掲げる「脱原発」の語気が強げれば強いほど、集団心理は肥大化することを忘れるな。
「再生可能エネルギー?なんかクリーンでいいんじゃね!」
と、その風潮が色濃くなる。
そこにうまく乗って利用され、挙句の果てにはとんでもないことに加担してることをどうか決して忘れるな。

うさばらしの民主主義

うちのアパート2階に単身の女性が住んでいる。
年金生活者である。
アパートは民間の賃貸なので、家賃はそこそこする。年金生活者にとっては大きな負担であろう。
この女性が最近、公団住宅の入居申請をしてきた。
それを手伝ってくれたのが、日本共産党の人だった。共産党の人は貧困者の味方で、よくしてくれたという。

日本共産党というと、個人的にあまりいいイメージを持ってないが、実際、市民生活の根底の部分で最後の頼み綱となって欲しい人にとって手を差し伸べられていることは本当にありがたいことなんだと思う。

もうすぐ参院選が始まるが、前哨戦の都議会議員選挙で大勝した自民党の優位は変わらない。
お二階に住む女性は、「お礼に日本共産党さんへ一票を投じる」とは言っているものの、おそらく多くの候補者が落選すると予想される。
日本共産党の中にも地域の人のためにまじめに尽くしてくれる候補者がいるだろう。しかしそれとは裏腹に、ある程度の得票数を稼いでも当選は厳しいのである。

それは現在の選挙制度「小選挙区制」の弊害ともいえる。

小選挙区制とは、読んで字のごとく国土の選挙区を小さく区切ることである。
当然、各区域は狭い範囲になるのでそこから当選する議席は1名だけだったりする。

すると妙なことが起こる。

当選が1名のところに立候補者3名で争う場合、例えば投票者が100人だったとして、落選の2名はそれぞれ33票であっても、得票数が34票の人が1票差で当選となる。
つまり落選した人に投じられた66票(33票+33票)分の意向は代表選出に反映されない「死票」となる。
これがもっと立候補者が多い選挙区や、日本全国レベルで起きた場合、死票はもっと増える。
実際には小さい選挙区の中に推したい人がいない場合もあり、仕方なく投票してる場合もあり、当選する人は本当に民意に支持されてるとは到底いえない。
選挙制度にケチをつけてるのは、よくわからないが知名度だけはあるタレント議員が当選するくらいなら、まじめに働いてくれる人が当選してほしいからで、別に共産党を支持してるから言うのではない。

こういう制度の候補者は当選しようと「数」を取りにきているのである。
流行に乗ったこと、大衆に受けやすいきれいごとを言い、人気取りに走る。
この“人気”という雰囲気が何か正しいこと、いいことのように選挙民は感じる。
だいぶ前の「構造改革」の小泉人気、ちょっと前の民主党の「政権交代」といった類の“ポピュリズム”というブームに沸くのである。
タレント議員も同じだ。
こうして小選挙区制は、まともな人材が当選して来づらい仕組みになっているのである。

人気主義とは一見、革命的な変化を待望したり、カリスマ性を帯びた指導者の到来を期待するだけのように見えるが、本質は“過度に期待する”ことで、何故過度になるかというと、モヤモヤしたものに対する憂さ晴らしになるからである。
熱狂に煽られてるんです。
その証拠にカリスマ到来を期待しながらも、依然変わらぬ状況に鬱屈する選挙民は、一方で民衆同士でたたきあっているのである。

それは公務員の給料が高いという批判や生活保護バッシングなどにあらわれている。
生活保護をあてにせず働けといいながら、今度は働いて稼ぎすぎた人を叩くという、もはや憂さ晴らしである。
要するに自分の立場だけが報われてほしいだけ、報われないから憂さ晴しているだけなのです。

丁度、イジメっ子が誰かをイジメるのと似ている。その人をいじめる明確な理由はない。
相手が何も悪くなくても自分がイライラする、相手のせいでないのに自分に不安がある。だから身近な対象に“沸く”ことで「うさばらし」をしている。
目に見えるものが敵だと勘違いさせられて、本当の仲間が見えない状態。

ブームやパニックを使って人を煽ぎたてることはテレビニュースでよく見かける。
本当に要注意である。
なぜなら、その場の気分であおられたり、刺激的な話題に乗せられて、大多数の世論とさせられ、本当に保守してゆかねばならないものが、ちょっとやそっとじゃ見えなくなりつつある。

要は、うさばらしさせてもらって、その場を満足してるということです。

民主主義、それは社会の理想ではない。
現在執りうる現実的な国家の運営方法なだけである。
民主主義でやってゆくしか仕方ない面があるということです。

民主主義は思想ではない。システムである。
だから民主主義を掲げて正義を主張するのは、どこかに嘘がある。
民主主義を疑ってかかる人、つまり理想や理念を掲げても、どこか理想や理念を疑っている、その矛盾を認識してる人に民主主義を担ってもらうのが安全なのです。

WGIPのジレンマ

「便器みたいなやつだな!」
これは相手の刺激によって、ヒョイヒョイと条件反射的に反応する人のことを指している。

日本のトイレは人が近付くとセンサーで“サッ”とふたが開き、離れると“サッ”とふたを閉じる。
この挙動のように反応する人のことを指してこう言われるわけである。

更にアメリカ人から見た日本人はまさに「便器みたいなやつ」に映っているというではありませんか。
確かにそうかもしれない。
アメリカから命令が来れば、“サッ”と立ち上がり、中国から脅かされれば“サッ”と身をすくめる。

この比喩から、外国人は日本人の弱点をよく見抜いてることが分かる。
国際社会バンザーイって、手放しで喜ぶのんきさを露呈してる場合でない。
これからはグローバル社会だと、英会話を勉強しても、その気質をどうにかしないと上げ足を取られる。

そしてアメリカからの命令にサッと反応する有り様は、今に始まったことではない。
戦後アメリカの統治下に置かれてからの日米間の関係性であることは言うまでもない。

最初はアメリカの一方的な命令にまじめに抵抗や反対もあったことだろう。
しかし戦後体制というものは新たに「親米」という概念を産み落し、「アメリカのいうことを聞いて『安全』と『豊かさ』が保障されるなら、何がまずい?」といった、アメリカのいうことを聞くことと引き換えに得られるメリットを計りにかける、ある種の損得勘定で相手との関係性を選択する思想が、近代の外交戦略に大きく反映されてきた訳である。

この「親米」という概念。
源流を、W・G・I・P(ウォーギルトインフォメーションプログラム)にさかのぼって考えなければならない。

W・G・I・P、これは文字通り、「戦争の罪悪感を日本人に植えつける宣伝計画」のことである。
W・G・I・Pはテレビ放送、新聞、教科書、出版物などで徹底的に
「原爆を落とされたのは我々のせいだ。」
「二度と武器は持たない恒久的平和。」
を刷り込むことに見事成功した訳だが、その裏には「特攻など平気でやらかす日本人に再び武装させては、何をしでかすかわからん。」と、日本が二度とアメリカに刃を向けさせないために、日本の武装解除が真の狙いにあった。
要は自主独立が断たれ、アメリカとの依存関係を余儀なくされたのである。

一方、「親米」という枠組みの中では、たとえW・G・I・Pの刷り込みがあったとしても、「その代りに平和(安全)と富(豊かさ)を手に入れたじゃない、見事経済成長できたじゃない。」とアメリカが推進する自由貿易と日米同盟で日本は経済発展できてきたことを最重要視するようになったのである。

日本が経済発展できてきたのは日米同盟のおかげであるのは間違いではないが、戦後68年経った今の世界情勢をしっかり見れば、実は当初アメリカが冷戦構造下で取っていた行動は、日本や西側諸国が共産圏化しないよう経済を豊かにしてあげてアメリカに市場を開放させ、アメリカ側のドル圏に経済的に帰属させて、ソ連の東側を封じ込めるための覇権的な戦略であったことが分かる。

中野剛志さんによれば、昔の自由主義vs共産主義という冷戦構造下で、ドル圏に帰属させられてるあいだは問題にならなかったが、世界情勢が大きく変わってしまった現在では、親米路線でこれからも『安全』と『豊かさ』が保障される保証はどこにもないと分析する。
冷戦構造そのものがなくなり、日本を豊かにさせる動機がなくなっただけにとどまらず、世界の覇権国アメリカとして、中東を自分の思うように抑えられず、北朝鮮のミサイル実験抑止もできず、リーマンショック後には、世界経済を引っ張ってゆけなくなっていて、あきらかに覇権国家としての地位が失墜している。
そこにアメリカではもう封じ込めることができないほど巨大になった中国という覇権国家が台頭したわけであり、
日米同盟というのは冷戦終結と同時に20年以上も賞味期限が切れてるというわけです。

そんな中で、東アジアの勢力図はどうなるのか?
このままおとなしくアメリカは引き下がる訳がない。
中国はますます覇権勢力を拡大する。
アメリカの提案であるTPP(環太平洋パートナーシップ協定)はまさに東アジア勢力低下の挽回策にある。

すると、お互い譲らずやがて衝突するのか?
いや、そんな簡単な話ではない。
ここで生じるのが、勢力の均衡状態、バランスオブパワーが働くのである。
一見対立してるかのごとく、共存を選んでる覇権国同士がギリギリ和平を保ってる状態のことです。それはアメリカも中国も覇権を維持するための選択になるです。
現にTPPへ中国を招き入れる動き、米軍と中国人民解放軍が共同で軍事演習をすることになっていたりする。
米・中は協力するところは協力するのである。

するとどうなるのか?
米中が協力する場面で、日中の尖閣問題で日本がアメリカに助けてくれと言っても、それは…。
アメリカにとって、日米同盟は邪魔になるのです。
むしろ、「中国と対立するのはやめなさい。」というのがバランスオブパワーなのです。

「アメリカのいうことを聞いて『安全』と『豊かさ』が保障されるなら、何がまずい?」という親米派の意見は、ここで現実味がなくなるわけです。

それでは誰が日本の安全を保障するのか?

西部邁氏は、
「安倍首相は日本の政治的戦略として、アメリカからの要求・意見を飲むこともありえるだろう。
しかし20年、50年と中長期的になるかもしれないが、日本が自主独立を言葉で強くにおわせる時代が来ている。
単に米・中の板挟み状態でいても、いずれ妥協をさせられる。」
と論じる。
これはアメリカを敵に回すとか単純なことでなく、アメリカとの関係をいかにパワーバランスしてゆくかだ。

WGIPでうまくやってこれたことが、今自主独立とのジレンマにせめぎあっている。