最後の心意気
A級戦犯が合祀されてから天皇が靖国参拝をしたのは何回か?
今の天皇、昭和の天皇も含め0回である。
総理大臣の参拝をめぐる議論はよくされるが、天皇が参拝するかどうかが歴史認識の上で重要なのである。
天皇が参拝すること自体は簡単である。皇居から九段下はすぐそばにあるのだから。しかし、それができない世論、つまり国民の歴史認識が現在の現実に横たわっているのである。
この歴史認識の根っこにあるA級戦犯とは?
A級戦犯とは「日本にとんでもない戦争を引き起こさせた張本人」と東京裁判では指定された。
そして東京裁判の判事はというと戦争に勝った側の外国人である。
ここで思い馳せねばならないことは、「戦争」というのは勝った方が負けた方を叩きのめするのは当たり前で、国際ルールもへったくれもない過去の戦争というのは負けた方は皆殺しされるのものだった。
とにかく、日本は「戦争」で負けた訳で、こういう一方的な裁判が行われ、この判決に逆らうのは当時の日本の国益にそぐわないから、政治的には受け入れざるを得なかった。
A級戦犯とは即ち、戦争を終結を告げるために必要な政治的儀式のみせしめであった、このことを忘れてはならない。
そしてこのように当時の状況を丹念に踏まえれば、この裁判は不道徳でおかしい、道義に反していると文化的に批判、議論する余地は存分にあるのでないか。
これが歴史認識というもので、歴史(史実)だけを振り返って勉強するだけでは、全く気付かないのである。
戦争当時の状況をつぶさにひも解くと、死んでいった人々のほとんどが「靖国で逢おう」と交し合ったと言う。
A級戦犯の子孫にあたる東郷和彦氏は、靖国に合祀された人々は誰に参拝してほしいかについてこういう。
「家族」そして「天皇」だと。
東京裁判では天皇をはずした。これは何を意味するのか。
日本を叩きのめするはずのアメリカが天皇を裁くことはしなかった。なぜか?
東郷氏は次のように話す。
崩壊していく日本帝国の「最後の心意気」をアメリカは守ったと。
このことは反米、親米では片づけられない事実である。
天皇の問題というのは非常に深く、間違いないのは日本人はここから出発せねば、
歴史認識という名の日本の本当の歴史を学ぶことにならないということである。
今の天皇、昭和の天皇も含め0回である。
総理大臣の参拝をめぐる議論はよくされるが、天皇が参拝するかどうかが歴史認識の上で重要なのである。
天皇が参拝すること自体は簡単である。皇居から九段下はすぐそばにあるのだから。しかし、それができない世論、つまり国民の歴史認識が現在の現実に横たわっているのである。
この歴史認識の根っこにあるA級戦犯とは?
A級戦犯とは「日本にとんでもない戦争を引き起こさせた張本人」と東京裁判では指定された。
そして東京裁判の判事はというと戦争に勝った側の外国人である。
ここで思い馳せねばならないことは、「戦争」というのは勝った方が負けた方を叩きのめするのは当たり前で、国際ルールもへったくれもない過去の戦争というのは負けた方は皆殺しされるのものだった。
とにかく、日本は「戦争」で負けた訳で、こういう一方的な裁判が行われ、この判決に逆らうのは当時の日本の国益にそぐわないから、政治的には受け入れざるを得なかった。
A級戦犯とは即ち、戦争を終結を告げるために必要な政治的儀式のみせしめであった、このことを忘れてはならない。
そしてこのように当時の状況を丹念に踏まえれば、この裁判は不道徳でおかしい、道義に反していると文化的に批判、議論する余地は存分にあるのでないか。
これが歴史認識というもので、歴史(史実)だけを振り返って勉強するだけでは、全く気付かないのである。
戦争当時の状況をつぶさにひも解くと、死んでいった人々のほとんどが「靖国で逢おう」と交し合ったと言う。
A級戦犯の子孫にあたる東郷和彦氏は、靖国に合祀された人々は誰に参拝してほしいかについてこういう。
「家族」そして「天皇」だと。
東京裁判では天皇をはずした。これは何を意味するのか。
日本を叩きのめするはずのアメリカが天皇を裁くことはしなかった。なぜか?
東郷氏は次のように話す。
崩壊していく日本帝国の「最後の心意気」をアメリカは守ったと。
このことは反米、親米では片づけられない事実である。
天皇の問題というのは非常に深く、間違いないのは日本人はここから出発せねば、
歴史認識という名の日本の本当の歴史を学ぶことにならないということである。
社会のうわずみ
育児ノイローゼ、というと大げさだが、うちのかみさんが育児に疲れ気味である。
育児放棄や虐待といった明確な形にはあらわされはしないものの、「もうやだ」「しばらく独りになりたい」と愚痴のひとつやふたつ吐いてしまうことは、育児をしてる人にとっては経験あることでないだろうか。
また、それだけ育児にかかるストレス、育児にとられる時間は誰にとっても大きな負荷となってることが示されてる。
知り合いにも、はじめから人生にかかるこの過大な負荷を回避しようと、子供をあえて生まないと決めてる夫婦もいる。
合理的な選択と言えるかも知れない。
そうすることで、自分の好きなことに時間をあてられ、色んな経験ができる可能性が広がることも、育児に時間をとられていればこそよく理解できる。
そして、こういう感覚が実際に子供を生んでる者、生んでない者にかかわらず、割とすんなり納得できてしまうのは、物事に対して判断する基準が「個人」の「幸せ」に重きを置いてるからだともいえる。
その選択は、その人、個人にとってである。
「自分の幸せは自分で決める。」
「私が私を重要視しないといったい誰が私を大切にするか。」
私を救うのは「私」で、どこから救うかというと、「苦しいこと」からで、どこに向かうのかというと「楽しいところ」である。
そこで出てくる言葉が、
「人生、楽しいければいい。」である。
こう言う人を責めてるのではない。
「楽しいければいい。」
その言葉は本心なのだろうか?
「個人」に没入しすぎた結果、よくわからないけれども自分にとって「楽しいことが一番」ととりあえず言ってるだけでないのか。
都会の喧騒の中で「楽しければ何でもあり」にしてしまってるだけでないのか。
そして最も肝心なことは、実はこういう価値観は、“社会のうわずみ”であったりして、「楽しいければいい。」と、こういうことを言っておけば一般的に通用するムードや雰囲気が社会全体をつつんでいるから言ってるだけで、深いところで本当はそう思ってない。というよりわからない。
これは悲しいことである。
自分の大事にするよりどころがどこなのか、分からない状態なのだから。
社会のムードに歩調が合わないと生きてる心地がつかめない。
価値を自分で決められないということである。
ある意味、育児ノイローゼの方が健全な病気?でないだろうか。
ではどうやったら自分で価値を決められるのか?
こういうと難しいが、もっと簡単な話で、たまたま育児にからめて話を展開してるが、グロテスクかどうかの話である。
男と女が一つ屋根の下で寄り添っていれば、子供のひとりやふたりできるのがある意味当たり前で、それをコントロールするというのは、どこか「グロテスク」と感じる感覚がなくなってることが、最大の問題でないかと。
社会のうわずみに埋もれた当たり前の感覚は何なのかということである。
そうなると、育児ノイローゼ、大いに結構じゃないですか。
ガキを放置したくなったり、ブン殴りたくなることもよく分かる。だが、それを目っぱいこらえ、犯罪など起こさないようギリギリで「ガキだからしょうがないな」と、ストレスを貯めこんでボロボロでも切り抜ければよしとする。
それくらいの気構えでどうにかやって行けば、なかなかよい人生になるのでないでしょうか。
多かれ少なかれ、楽な育児なんて存在しませんよ。
育児放棄や虐待といった明確な形にはあらわされはしないものの、「もうやだ」「しばらく独りになりたい」と愚痴のひとつやふたつ吐いてしまうことは、育児をしてる人にとっては経験あることでないだろうか。
また、それだけ育児にかかるストレス、育児にとられる時間は誰にとっても大きな負荷となってることが示されてる。
知り合いにも、はじめから人生にかかるこの過大な負荷を回避しようと、子供をあえて生まないと決めてる夫婦もいる。
合理的な選択と言えるかも知れない。
そうすることで、自分の好きなことに時間をあてられ、色んな経験ができる可能性が広がることも、育児に時間をとられていればこそよく理解できる。
そして、こういう感覚が実際に子供を生んでる者、生んでない者にかかわらず、割とすんなり納得できてしまうのは、物事に対して判断する基準が「個人」の「幸せ」に重きを置いてるからだともいえる。
その選択は、その人、個人にとってである。
「自分の幸せは自分で決める。」
「私が私を重要視しないといったい誰が私を大切にするか。」
私を救うのは「私」で、どこから救うかというと、「苦しいこと」からで、どこに向かうのかというと「楽しいところ」である。
そこで出てくる言葉が、
「人生、楽しいければいい。」である。
こう言う人を責めてるのではない。
「楽しいければいい。」
その言葉は本心なのだろうか?
「個人」に没入しすぎた結果、よくわからないけれども自分にとって「楽しいことが一番」ととりあえず言ってるだけでないのか。
都会の喧騒の中で「楽しければ何でもあり」にしてしまってるだけでないのか。
そして最も肝心なことは、実はこういう価値観は、“社会のうわずみ”であったりして、「楽しいければいい。」と、こういうことを言っておけば一般的に通用するムードや雰囲気が社会全体をつつんでいるから言ってるだけで、深いところで本当はそう思ってない。というよりわからない。
これは悲しいことである。
自分の大事にするよりどころがどこなのか、分からない状態なのだから。
社会のムードに歩調が合わないと生きてる心地がつかめない。
価値を自分で決められないということである。
ある意味、育児ノイローゼの方が健全な病気?でないだろうか。
ではどうやったら自分で価値を決められるのか?
こういうと難しいが、もっと簡単な話で、たまたま育児にからめて話を展開してるが、グロテスクかどうかの話である。
男と女が一つ屋根の下で寄り添っていれば、子供のひとりやふたりできるのがある意味当たり前で、それをコントロールするというのは、どこか「グロテスク」と感じる感覚がなくなってることが、最大の問題でないかと。
社会のうわずみに埋もれた当たり前の感覚は何なのかということである。
そうなると、育児ノイローゼ、大いに結構じゃないですか。
ガキを放置したくなったり、ブン殴りたくなることもよく分かる。だが、それを目っぱいこらえ、犯罪など起こさないようギリギリで「ガキだからしょうがないな」と、ストレスを貯めこんでボロボロでも切り抜ければよしとする。
それくらいの気構えでどうにかやって行けば、なかなかよい人生になるのでないでしょうか。
多かれ少なかれ、楽な育児なんて存在しませんよ。
ゴッホの手紙
知人が自殺した。理由は分からない。
数年前に知り合って、多少どういう性格かは知っていたが、自殺するようなタイプとはむしろ真逆の性格と思っていた。
正直に言えば、“人を踏み台にしても生き残る”タイプだと個人的には思っていた。
芸能関係で活動していたこともあり友人も多そうだった。具体的にはSNSで100人以上“友だち”がいたので、悩みを相談する相手も少しはいたと思われる。
自身でも明るい面を持った、個性的な人物であると、そう振舞っていたはずである。
そんな人なのに自殺したのである。
しかし人から見られる性格なんてあいまいなもので、表面に現れてる部分だけではなく、よほど単純な人でない限りなにほどか隠そうとする部分もあるわけで、
そうすると、人からは明るい人と理解されてるが本当はそうでない。
いわゆる“本当の自分”とは何なのかが、自分にも他人にも誰にも分からなくなってくる。
いったい誰が本当の自分、本当のその人を理解できるというのか?
画家のゴッホは38歳で自殺した。
自殺した彼女も確か38歳だった。
知られているようにゴッホは自分の耳を切って商売女にプレゼントしたエピソードなどから、いわゆる“キチガイ”とされている。
しかし、その人には理解されぬ性格、偏った個性からなんとか抜け出し「普遍」に至ろうとした人だと、文芸評論家のドン・小林秀雄氏は「ゴッホの手紙」で語る。
ゴッホは絵画で有名だが、小林秀雄氏は弟テオに当てた無数の手紙にこそゴッホの真の人生が見え、その生き方こそ近代に必要だと語っている。
「ゴッホの手紙」からは、性格というあいまいなもの、他人はどうとるか知れたものじゃないもの、そういうものは誰にでもそれぞれ持ってる「癖」や「特徴」と同じで、それを克服して自分の感情が万人の感情に通じる感覚をつかまなければ、意味がないと読み取る。
どういうことか?
近代人は心理学や性格分析が発達したせいで、「あなたの性格はこうだ」とか、「こうすれば性格は変わる」とか心理学的な理論で人の行動を判断しようとする、そこに間違いがある。
人さまざまで、それぞれの個性を大事にしようとするのは近代的な人間観だが、その先には「わかる奴にはわかる」という世界観である。
そうするとどうやって通じ合おうとするのか?
趣味の話、自分のこと、テレビの話題など社会のうわずみで共通するしかない。
「お前の言ってることはもっともだ。」と相手の言うことを聞いたふりで付和雷同するのである。
ゴッホが普遍に至ろうとするため、キチガイの自分を正気の自分のぎりぎりのところで見つめようとした。
だから自画像が多いのだと小林秀雄氏は言う。
生まれつきの個性と戦い、乗り越えようとしたのだと。
「普遍に至る」とは付和雷同すること、心理学のように集団でものごとを考えられるだろうということ、イデオロギーを持つことと正反対のことである。
「社会契約論」を書いたジャン・ジャック・ルソーにも自分のダメさ加減を懺悔した「告白」があるが、あんなもの自己と戯れているだけだと小林秀雄氏は言う。
ゴッホの自己批判は違う。
自己と戦い、個性と戦わないと思想なんて生まれない。性格なんてつまらんものだと。
自己と戦う、個性と戦うとは、「自分で考える」ことなのだと。
小林秀雄氏はこう言う。
「自分で考えるということは、自分の個性と戦うということです。」
数年前に知り合って、多少どういう性格かは知っていたが、自殺するようなタイプとはむしろ真逆の性格と思っていた。
正直に言えば、“人を踏み台にしても生き残る”タイプだと個人的には思っていた。
芸能関係で活動していたこともあり友人も多そうだった。具体的にはSNSで100人以上“友だち”がいたので、悩みを相談する相手も少しはいたと思われる。
自身でも明るい面を持った、個性的な人物であると、そう振舞っていたはずである。
そんな人なのに自殺したのである。
しかし人から見られる性格なんてあいまいなもので、表面に現れてる部分だけではなく、よほど単純な人でない限りなにほどか隠そうとする部分もあるわけで、
そうすると、人からは明るい人と理解されてるが本当はそうでない。
いわゆる“本当の自分”とは何なのかが、自分にも他人にも誰にも分からなくなってくる。
いったい誰が本当の自分、本当のその人を理解できるというのか?
画家のゴッホは38歳で自殺した。
自殺した彼女も確か38歳だった。
知られているようにゴッホは自分の耳を切って商売女にプレゼントしたエピソードなどから、いわゆる“キチガイ”とされている。
しかし、その人には理解されぬ性格、偏った個性からなんとか抜け出し「普遍」に至ろうとした人だと、文芸評論家のドン・小林秀雄氏は「ゴッホの手紙」で語る。
ゴッホは絵画で有名だが、小林秀雄氏は弟テオに当てた無数の手紙にこそゴッホの真の人生が見え、その生き方こそ近代に必要だと語っている。
「ゴッホの手紙」からは、性格というあいまいなもの、他人はどうとるか知れたものじゃないもの、そういうものは誰にでもそれぞれ持ってる「癖」や「特徴」と同じで、それを克服して自分の感情が万人の感情に通じる感覚をつかまなければ、意味がないと読み取る。
どういうことか?
近代人は心理学や性格分析が発達したせいで、「あなたの性格はこうだ」とか、「こうすれば性格は変わる」とか心理学的な理論で人の行動を判断しようとする、そこに間違いがある。
人さまざまで、それぞれの個性を大事にしようとするのは近代的な人間観だが、その先には「わかる奴にはわかる」という世界観である。
そうするとどうやって通じ合おうとするのか?
趣味の話、自分のこと、テレビの話題など社会のうわずみで共通するしかない。
「お前の言ってることはもっともだ。」と相手の言うことを聞いたふりで付和雷同するのである。
ゴッホが普遍に至ろうとするため、キチガイの自分を正気の自分のぎりぎりのところで見つめようとした。
だから自画像が多いのだと小林秀雄氏は言う。
生まれつきの個性と戦い、乗り越えようとしたのだと。
「普遍に至る」とは付和雷同すること、心理学のように集団でものごとを考えられるだろうということ、イデオロギーを持つことと正反対のことである。
「社会契約論」を書いたジャン・ジャック・ルソーにも自分のダメさ加減を懺悔した「告白」があるが、あんなもの自己と戯れているだけだと小林秀雄氏は言う。
ゴッホの自己批判は違う。
自己と戦い、個性と戦わないと思想なんて生まれない。性格なんてつまらんものだと。
自己と戦う、個性と戦うとは、「自分で考える」ことなのだと。
小林秀雄氏はこう言う。
「自分で考えるということは、自分の個性と戦うということです。」
パイドロス
銭を稼がなければ、この現代社会で生きてゆくことは難しい。
銭よりも大事なものがあるさと、きれいごとだけでは済まされない。
だからセルフインタレスト(自己の利益)を追求することに価値を置き、損得勘定で世の中を渡ってゆくことの何が悪いと言ってのけてしまっても、その意見は誰にもせめることはできない。
その代わり、我々が持つ現在の価値判断は、こういうマテリアリスティック(物質的、唯物的)なものしか抱けないのだという悲劇も同時に認めねばならない。
そして「美」についても同じようにマテリアリスティックなものと、そうでないメタフィジカル(形而上的、肉体を超えた目に見えない)なものがあって、どちらに価値を置くべきかは遠い昔から永遠のテーマであり、「パイドロス」という古代ギリシア人プラトンの著書でも述べられている。
物語の主人公パイドロスが、「人は自分を恋してくれる人よりも、自分を恋していない人に身をあずけるべきである。」と言って、その理由は、「恋してる人は、相手を恋する気持ちと同時に、束縛やねたみの感情も合わせ持っていて、よい関係にはなれない。しかし恋していない人は分別心を失っていないから、相手を傷つけることもなく、相応の思いやりができるからだ。」と言う。
それに対して、パイドロスの話し相手ソクラテスは、「そんなもの、本当は恋してるくせに、表面は恋してないふりをして、「僕は分別心があるよ」と結局、口説きのテクニックにしかすぎないんじゃない。」と言ってのけるのである。
しかしこのことは、「恋に身を焦がせ、本能のおもむくまま肉欲に従え。」と、マテリアリスティックなものを賞賛していることになるのか?
先日「ベニスに死す」という1971年公開のイタリア映画を見た。
映画といってもYouTUBEの動画で、日本語字幕はないが、ストーリーは至ってわかりやすいものだった。
芸術家の中年男が、旅先のベニスでそれはそれは美しい「ギリシャ彫刻」のような“少年”を見つけて、恋をし、ベニスに滞在して追い掛け回す。要するにホモおやじのストーカー物語である。
中年男のアッシェンバッハが、ベニスの町で美少年タジオの後を追い掛け回す。しかし触れることはできず、ただ見ているだけ。
やがてベニスで流行しだしたコレラにかかり、何とかタジオの気を引こうと、髪を黒く染め、口紅を引き、純白のスーツに薔薇を挿し、ビーチで遊ぶタジオの姿を見つけたときには病気で体はほとんど思うように動かない。
そして、デッキチェアに倒れこみ、毛染め液が黒い汗となって流れ、太陽の光につつまれた美しい情景にたたずむタジオを見ながらその場で死んでゆく。
非常に「グロテスク」な光景であった。
ベニスの風景と美少年の映像がよりそのグロテスクさを際立たせていたかのように。
結局アッシェンバッハは恋に身を焦がし、死んでゆくように描かれていた。
そしてこの「ベニスに死す」の物語にも、いくつか「パイドロス」を引用して、アッシェンバッハがタジオを通じ、美について悩み考えている。
「パイドロス」でプラトンが美について「エロース」という言葉で説明しているのは、こういう物語(ミュートス)である。
かつて人は天上の世界で翼を持っていたが、翼をなくして地上に堕ちてからは、美しい人に会うと魂がかつて天上の世界にいたころを思い出し翼を手に入れようとする、この情熱がエロースだという。
この物語(ミュートス)がどうだということではない。宗教の話でもない。
プラトンが語っていることが現代にまでつながるとするならば、人間が持つ力以上のものがどこかにあることを認める「崇高へのまなざし」、日常生活を超えた抽象的なものを強く思いをはせるのが人間独特の持ってる能力で、そういう人間解釈をするのがプラトンのすばらしいところでなかろうか。
「パイドロス」で恋はそもそも「狂気」だと言っている。
この意味は最善を望むなら分別心がある人に恋をあずけろという「この世の正気」に対するものとしての「狂気」である。
恋が「狂気」だという意味は、異性にせよ、誰かの発言にせよ、何かに対して「いいなあ」と感じる『美的感覚』とは、それが誰かの影響も受けてなく、世の中の風潮に左右されていないとき、肉欲などの「本能」からではなく、人間の持つ「根本的なもの」が関係していることを示唆しているのであり、プラトンのような深い人間解釈があっての「狂気」という説明になるのである。
その「根本的なもの」というのは「パイドロス」の中でこう説明されている。
美とは人間の肉体を介して受け取る感覚の中で最もするどい知覚である。その美が目の前に現れ、恋ごころを強く引くとき、「狂気」の状態となってるのでないか。
この「するどい知覚」は単なる自然の「本能」だけではなく、もっと研ぎ澄まされた「感情」なども入り混じってるような気がする。
だからこそ人間特有の「根本的なもの」であり、プラトンのような人間解釈がなければ見逃してしまうものなのである。
「ベニスに死す」の劇中、中年アッシェンバッハはタジオに究極の美を感じたとき、パイドロスを引用して美は最もするどい知覚であることを認めていた。
そして「本能」を越えた、人間の「根本的なもの」へ登り詰めようとするが、「エロース」はただ人間のするどい感覚を強めるだけで、美を求める行き先の指定など、コントロールはできないもので、本能に身をまかせ、グロテスクになるしかできなかった。
最後にアッシェンバッハは美の深みにはまったことをこう締めくくる。
「私たちは飛ぶことはできない。たださまようことだけできる。」と。
「プラトンさんよ、『プラトニックラブ』なんて、人間にはしょせん不可能なのさ。」と。
市場のイドラ
ネットで見つけたベビーシッターの男に子供をあずけたら虐待されて死亡した事件があった。
母親はシングルマザーだった。
この事件について、見ず知らずの人に子供をあずける母親の危機意識のなさを指摘するのは鈴木宗男氏である。
これに対し、急な用事があっても子供のあずけ先が簡単に見つからないような社会状況を改善すべきと指摘するのは乙武洋匡氏で、両者で論争が繰り広げられている。
男が悪いのは言うまでもない。
しかし、ごく一般的に見ればこの母親の無防備さに違和感はぬぐえず、鈴木宗男氏の指摘は母親に向けられて当然である。
例えば保育所をたくさん作って社会状況らしきものを改善したとしても、「ネットでお手軽」という個人の感覚を改善しない限り、別の形でおかしなことが起こりはしないだろうか。
この母親に限らず、ベビーシッターをネットで簡単に選ぶことに抵抗がない理由には、ネットの便利さ、加えてほとんどの人が利用してるので安全だろうという背景がある。
そしてこの背景には、Facebook、Twitter、LINEをはじめとするSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の爆発的な普及が貢献している。
今では誰でも持ってるスマホやパソコンの媒体さえあれば、ソーシャル(社会)とのネットワーク(つながり)が簡単に行われるので、便利なツール(道具)として受け入れられた。
しかしここで単純な疑問が起こる。
「社会と、他者とつながるというのはそんなに簡単なことか?」
SNSは双方向とうたっている。一方通行ではないのだと。
しかし、何ほどの僕たち私たちが、いかほどの情報を発しているというのか?
その意味で、双方向というのは相当欺瞞的であり、新しくて便利そうなものを使ってると何となく社会と自分との歯車がかみ合っていそうに感じられる。
そこに生まれるのが、「市場のイドラ」なのである。
イドラとは、正常な思考を妨げる人間の逃れられない「思い込み」のことで、市場という人々がたくさんいる場所で取り交わされる無責任な憶測や先入観がやがて確信に変わる様が、市場のイドラである。
本当のところ社会とのつながりはよくわからない、しかし便利なツールを使うことによる安心感は得られる。
形の上でつながることを確認できればOKで、それを「つながり」と呼んでるのがSNSの実態なのである。
つながりとは?
ひとたび会社にいけばいやな奴とも仕事をしなければならず、隣近所には気に食わない奴もいる。
つながりには選べないものの方が多い。必ずしも双方向でなく、一方的なものもある。
そしてこのつながりる方法というのは誰も教えてくれない。
スマホがあっても、SNSでも解決しがたい。
本来は選択できないものとどう付き合うかを四苦八苦することで、つながるというあいまいな感覚は肌で感じられる。
ごく身近な例えでいうと、かみさんや子供といった家族と過ごす日常は選び続けることは不可能である。否応なしに次から次へとやってくる家庭生活に選択の余地はほとんどない。
つながるというよりむしろ、つながっていないとバラバラになってしまうからまとまろうとする。こんな感覚である。
実は選べないものの方こそ固い結びつきがあって、人間はこういうものをあっさり捨てると、個人個人が砂粒化して、より自我の意識が強くなるだけに陥るのでないか。
インターネットは危ないですよと、評論家を気取りたいのではない。
「奥さん、SNSでつながれまっせ」と、簡単に飛びつく「市場のイドラ」がインターネットを危険なものにしているのである。
それでも「市場のイドラ」は人々の心に強烈に、頑固にこびりついている。
「市場のイドラ」から逃れる術があるとするならば、スマホを捨て、趣味も持たず、SNSのつながりも持たない。
2014年の今の時代には世捨て人といわれそうなことしかないが、これを明るく朗らかにやれる人はそうはいない。
母親はシングルマザーだった。
この事件について、見ず知らずの人に子供をあずける母親の危機意識のなさを指摘するのは鈴木宗男氏である。
これに対し、急な用事があっても子供のあずけ先が簡単に見つからないような社会状況を改善すべきと指摘するのは乙武洋匡氏で、両者で論争が繰り広げられている。
男が悪いのは言うまでもない。
しかし、ごく一般的に見ればこの母親の無防備さに違和感はぬぐえず、鈴木宗男氏の指摘は母親に向けられて当然である。
例えば保育所をたくさん作って社会状況らしきものを改善したとしても、「ネットでお手軽」という個人の感覚を改善しない限り、別の形でおかしなことが起こりはしないだろうか。
この母親に限らず、ベビーシッターをネットで簡単に選ぶことに抵抗がない理由には、ネットの便利さ、加えてほとんどの人が利用してるので安全だろうという背景がある。
そしてこの背景には、Facebook、Twitter、LINEをはじめとするSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の爆発的な普及が貢献している。
今では誰でも持ってるスマホやパソコンの媒体さえあれば、ソーシャル(社会)とのネットワーク(つながり)が簡単に行われるので、便利なツール(道具)として受け入れられた。
しかしここで単純な疑問が起こる。
「社会と、他者とつながるというのはそんなに簡単なことか?」
SNSは双方向とうたっている。一方通行ではないのだと。
しかし、何ほどの僕たち私たちが、いかほどの情報を発しているというのか?
その意味で、双方向というのは相当欺瞞的であり、新しくて便利そうなものを使ってると何となく社会と自分との歯車がかみ合っていそうに感じられる。
そこに生まれるのが、「市場のイドラ」なのである。
イドラとは、正常な思考を妨げる人間の逃れられない「思い込み」のことで、市場という人々がたくさんいる場所で取り交わされる無責任な憶測や先入観がやがて確信に変わる様が、市場のイドラである。
本当のところ社会とのつながりはよくわからない、しかし便利なツールを使うことによる安心感は得られる。
形の上でつながることを確認できればOKで、それを「つながり」と呼んでるのがSNSの実態なのである。
つながりとは?
ひとたび会社にいけばいやな奴とも仕事をしなければならず、隣近所には気に食わない奴もいる。
つながりには選べないものの方が多い。必ずしも双方向でなく、一方的なものもある。
そしてこのつながりる方法というのは誰も教えてくれない。
スマホがあっても、SNSでも解決しがたい。
本来は選択できないものとどう付き合うかを四苦八苦することで、つながるというあいまいな感覚は肌で感じられる。
ごく身近な例えでいうと、かみさんや子供といった家族と過ごす日常は選び続けることは不可能である。否応なしに次から次へとやってくる家庭生活に選択の余地はほとんどない。
つながるというよりむしろ、つながっていないとバラバラになってしまうからまとまろうとする。こんな感覚である。
実は選べないものの方こそ固い結びつきがあって、人間はこういうものをあっさり捨てると、個人個人が砂粒化して、より自我の意識が強くなるだけに陥るのでないか。
インターネットは危ないですよと、評論家を気取りたいのではない。
「奥さん、SNSでつながれまっせ」と、簡単に飛びつく「市場のイドラ」がインターネットを危険なものにしているのである。
それでも「市場のイドラ」は人々の心に強烈に、頑固にこびりついている。
「市場のイドラ」から逃れる術があるとするならば、スマホを捨て、趣味も持たず、SNSのつながりも持たない。
2014年の今の時代には世捨て人といわれそうなことしかないが、これを明るく朗らかにやれる人はそうはいない。