社会のうわずみ
育児ノイローゼ、というと大げさだが、うちのかみさんが育児に疲れ気味である。
育児放棄や虐待といった明確な形にはあらわされはしないものの、「もうやだ」「しばらく独りになりたい」と愚痴のひとつやふたつ吐いてしまうことは、育児をしてる人にとっては経験あることでないだろうか。
また、それだけ育児にかかるストレス、育児にとられる時間は誰にとっても大きな負荷となってることが示されてる。
知り合いにも、はじめから人生にかかるこの過大な負荷を回避しようと、子供をあえて生まないと決めてる夫婦もいる。
合理的な選択と言えるかも知れない。
そうすることで、自分の好きなことに時間をあてられ、色んな経験ができる可能性が広がることも、育児に時間をとられていればこそよく理解できる。
そして、こういう感覚が実際に子供を生んでる者、生んでない者にかかわらず、割とすんなり納得できてしまうのは、物事に対して判断する基準が「個人」の「幸せ」に重きを置いてるからだともいえる。
その選択は、その人、個人にとってである。
「自分の幸せは自分で決める。」
「私が私を重要視しないといったい誰が私を大切にするか。」
私を救うのは「私」で、どこから救うかというと、「苦しいこと」からで、どこに向かうのかというと「楽しいところ」である。
そこで出てくる言葉が、
「人生、楽しいければいい。」である。
こう言う人を責めてるのではない。
「楽しいければいい。」
その言葉は本心なのだろうか?
「個人」に没入しすぎた結果、よくわからないけれども自分にとって「楽しいことが一番」ととりあえず言ってるだけでないのか。
都会の喧騒の中で「楽しければ何でもあり」にしてしまってるだけでないのか。
そして最も肝心なことは、実はこういう価値観は、“社会のうわずみ”であったりして、「楽しいければいい。」と、こういうことを言っておけば一般的に通用するムードや雰囲気が社会全体をつつんでいるから言ってるだけで、深いところで本当はそう思ってない。というよりわからない。
これは悲しいことである。
自分の大事にするよりどころがどこなのか、分からない状態なのだから。
社会のムードに歩調が合わないと生きてる心地がつかめない。
価値を自分で決められないということである。
ある意味、育児ノイローゼの方が健全な病気?でないだろうか。
ではどうやったら自分で価値を決められるのか?
こういうと難しいが、もっと簡単な話で、たまたま育児にからめて話を展開してるが、グロテスクかどうかの話である。
男と女が一つ屋根の下で寄り添っていれば、子供のひとりやふたりできるのがある意味当たり前で、それをコントロールするというのは、どこか「グロテスク」と感じる感覚がなくなってることが、最大の問題でないかと。
社会のうわずみに埋もれた当たり前の感覚は何なのかということである。
そうなると、育児ノイローゼ、大いに結構じゃないですか。
ガキを放置したくなったり、ブン殴りたくなることもよく分かる。だが、それを目っぱいこらえ、犯罪など起こさないようギリギリで「ガキだからしょうがないな」と、ストレスを貯めこんでボロボロでも切り抜ければよしとする。
それくらいの気構えでどうにかやって行けば、なかなかよい人生になるのでないでしょうか。
多かれ少なかれ、楽な育児なんて存在しませんよ。
育児放棄や虐待といった明確な形にはあらわされはしないものの、「もうやだ」「しばらく独りになりたい」と愚痴のひとつやふたつ吐いてしまうことは、育児をしてる人にとっては経験あることでないだろうか。
また、それだけ育児にかかるストレス、育児にとられる時間は誰にとっても大きな負荷となってることが示されてる。
知り合いにも、はじめから人生にかかるこの過大な負荷を回避しようと、子供をあえて生まないと決めてる夫婦もいる。
合理的な選択と言えるかも知れない。
そうすることで、自分の好きなことに時間をあてられ、色んな経験ができる可能性が広がることも、育児に時間をとられていればこそよく理解できる。
そして、こういう感覚が実際に子供を生んでる者、生んでない者にかかわらず、割とすんなり納得できてしまうのは、物事に対して判断する基準が「個人」の「幸せ」に重きを置いてるからだともいえる。
その選択は、その人、個人にとってである。
「自分の幸せは自分で決める。」
「私が私を重要視しないといったい誰が私を大切にするか。」
私を救うのは「私」で、どこから救うかというと、「苦しいこと」からで、どこに向かうのかというと「楽しいところ」である。
そこで出てくる言葉が、
「人生、楽しいければいい。」である。
こう言う人を責めてるのではない。
「楽しいければいい。」
その言葉は本心なのだろうか?
「個人」に没入しすぎた結果、よくわからないけれども自分にとって「楽しいことが一番」ととりあえず言ってるだけでないのか。
都会の喧騒の中で「楽しければ何でもあり」にしてしまってるだけでないのか。
そして最も肝心なことは、実はこういう価値観は、“社会のうわずみ”であったりして、「楽しいければいい。」と、こういうことを言っておけば一般的に通用するムードや雰囲気が社会全体をつつんでいるから言ってるだけで、深いところで本当はそう思ってない。というよりわからない。
これは悲しいことである。
自分の大事にするよりどころがどこなのか、分からない状態なのだから。
社会のムードに歩調が合わないと生きてる心地がつかめない。
価値を自分で決められないということである。
ある意味、育児ノイローゼの方が健全な病気?でないだろうか。
ではどうやったら自分で価値を決められるのか?
こういうと難しいが、もっと簡単な話で、たまたま育児にからめて話を展開してるが、グロテスクかどうかの話である。
男と女が一つ屋根の下で寄り添っていれば、子供のひとりやふたりできるのがある意味当たり前で、それをコントロールするというのは、どこか「グロテスク」と感じる感覚がなくなってることが、最大の問題でないかと。
社会のうわずみに埋もれた当たり前の感覚は何なのかということである。
そうなると、育児ノイローゼ、大いに結構じゃないですか。
ガキを放置したくなったり、ブン殴りたくなることもよく分かる。だが、それを目っぱいこらえ、犯罪など起こさないようギリギリで「ガキだからしょうがないな」と、ストレスを貯めこんでボロボロでも切り抜ければよしとする。
それくらいの気構えでどうにかやって行けば、なかなかよい人生になるのでないでしょうか。
多かれ少なかれ、楽な育児なんて存在しませんよ。