「異端児、常識を疑う」 -10ページ目

沈黙に入る

AKB総選挙が終わった。
いや、失礼、都知事選挙が終わった。

この二つを同じに見えてしまうのは、どちらも得票数を最も多く取ったものが選ばれる、「人気投票」という点で本質的に同じだからである。
AKBの方は人気投票でもよいでしょう。
しかし「人気投票」は公平な多数決によるものなので、民主主義の原理にもとづいた落ち度のない制度であり、
もし選んだ人に落ち度があったらまた選びなおせばいいじゃないかという、多数決の結果が正しい答えだということに疑いを持たなくてよいのか。

多数派がいつも正しい結果を持っているのか。
少数派に正しい答えを持ってる場合だってないのか。
もし多数派が間違っていた場合、99人の間違いによる民主政治が1人の正しい人を苦しめていることになり、
かつて、1人の間違いによる専制政治から99人の民衆が権利を勝ち取ったとされる民主主義の本質が、構造的に専制政治と何ら変わらないことになる。
これは「多数者の専制」だと、フランス人の政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルの指摘である。

つまり、多数決というのは「正しさ」が何かの問題を解決していないのであり、そのことを疑う声が今のところ、どこからも出てこない。
それが「人気投票」というものを真っ向から受け入れられない理由であり、民主主義が万能でない理由でもある。

だから、「オレは何派だから、誰々に投票する。」とか「入れたい人がいないから投票に行かない。」なんて、どれが多数派なのかの議論は
そろそろ止めにしたほうがいい。

では、多数派にしろ、少数派にしろ、その「正しさ」とはどこからやってくるのか。
「原発反対・賛成」にせよ、「保育所を作る」にせよ、「都民税を減税する」にせよ、その「正しさ」は何を基準に言っているのかが本当は議論されねばならない。

トクヴィルは民主主義下にあって、多数派の意見を形成するのは結局、「世論」だといった。「世の風」である。
「世の風」とはつまり、「雰囲気」である。
「雰囲気」はどうやって作られるのか、それは「ペリオディカル・プレス」(定期刊行物)によって作られるといっている。
つまり、今で言えば「新聞」や「テレビ報道」のことになる。
新聞の見出しにあわせて世論は動いているということである。
世論の「正しさ」とは、結局「新聞」や「テレビ報道」によって世の中全体を染め上げられてるのである。

テレビで原発の危険が説明され、待機児童の人数が紹介され、減税と聞けば「なかなかいいじゃないか」と飛びつく。
テレビや新聞の見出しが持ちかける問題提起が、社会が今かかえてる問題かのように見え、それがどこで覚えたのか「これは私たち国民の権利だ」と称して、
最近ではワールドカップのお祭り騒ぎかのごとく、市民運動として展開される。
それぞれの運動自体が正しさにもとづいていればまだしも、多くは社会正義という美名を掲げてるが、単に自分に関係することを主張してるのとしか思えない。

永田町で原発反対といって踊ってる人を見ると、民主主義というよりむしろ、うさばらし、もしくは自分だけの欲求不満解消にしか見えない。
きっと彼らは原発停止になったとしたら、途端に熱狂が冷めて別のアラを探しに出かけるか、原発が止まったけど自分は何も変わらないことに苛立つのではないだろうか。

民主主義とは多数決の原理である以上、多数派を取り込むよう飛びつかせるモデルに堕落してるのが現代であり、
今の問題が時とともに過ぎ去れば、別の問題にまた飛びつく。
結局、大衆は損得や自分に関することのみに影響を受け、興味を示す。ちょっと遠目から見ればむなしい人生でもある。

では、「正しさ」とはどこからやってくるべきものか。
まず、損得や自分のことばかり考えてるからこそ、怖いものには目を向けてないんだと感覚的に分かることが必要である。
「日本の底力」とか「絆」とかで勇気付けるのも大事かもしれないが、本当は底力もなければ、絆もよくわからないんだと、自分たちはひ弱な文化しか創ってこれなかったのだと認めた上で、自分も含んだ世の中のダメさ加減をきちんと探査することから始まる。

自己懐疑の目を差し向けるということです。
ごく当たり前のことで、自分をやってることを客観的に振り返り、点検し、ちょっと自分は理想と現実の平衡感覚としてはアンバランスな行動だったかなと見直してゆくことしかない。

いつかこの民主主義のモデルに乗った右往左往劇に疲れ果て、あきれ果て、立ち止まり、沈黙に入るとき、自己懐疑の目を差し向けざるを得なくなり、そのとき、少数派の意見が人々の心に素直にしみわたってゆくときが来るのではないか。

荒れ果てたトポス

近所の奥さんの様子がおかしい。

ありもしないことを言って、周りの人々を自分の家に集めて、自分はどこかに消える。
ご主人は参って、皆さんに謝るしかない。
それでも奥さんは色んなお宅に伺っては、何かことに巻き込もうとする。

「携帯電話あずかって!」
「あそこのお店予約してあるから行ってきて!」

それから親族の説得、努力で1か月ほど療養されたらしく、今ではときどき誰かにきついことを言ったりしてるようだが、しばらく見守るしかないようである。

この奥さんは我々家族でもお世話になってる方であり、気丈で趣味を通じた仲間からも頼られる存在である。
また、ご主人は会社役員らしく、一般よりは裕福でお金にも困ってなさそうである。

だが、こんな話はここ数年どこにでもある話である。
現代病と片づければおしまいだが、どうしてこうなったのだろうか。

財産もあり、仲間と思われる人がいるにもかかわらず、しかしなぜか自分の居場所を見つけられていない。
そこにその人の孤独を感じ、孤独を埋める自分の居場所、「トポス」がぽっかり失われてるように思える。

「トポス」とは具体的にどこの場所とは言い表しがたく、何があればいいとも言えない。
その人の役割のような、自分の存在する意味のようなものである。

この奥さんの話はこの人だけに起こる問題ではなく、地方から都心へ人々が流れてくる時代にあって、「トポス」を見つけられずにいる人はたくさんいるのは当然の話なのである。
そして“人はいっぱいいるのに孤独”という不思議な現象が起きている。
「トポス」を失った人がTwitterでフォロワー(ファン)を増やそうが、自己実現と称してビジネスに、自己啓発に励もうが、それはしょせん一時の流行に身をまかせ、熱狂が冷めれば次の目的を探すあてどない場所探しとなる。

“孤独な群れ”は目の前に人はいっぱいいるので、仲良くなろるために取る行動は、「あなたの幸せを祈らせてください」となる。
これは新興宗教の勧誘に限ったことではない。
ここで言う「幸せ」とは、要するに「得するよ」と同じで、win-winの関係を築こうよ、と言ってるのであり、「幸せ=利益」であり、この関係を「絆」ととらえてるのである。
つまり、世俗の打算で価値をはかっているだけなのである。

人は「夢を描く動物」である。いや、「夢想してしまう動物」なのである。
人は“金があれば”とか、“仲間がいれば”とかの理由で、何か究極の次元に行けたり、究極の世界が創れると過信してしまう宿命を背負ってるというか。
ある程度の思い込みは確かに人を奮起させるのに大切である。
しかし同時に、「トポス」を失っても敏感にヤバイと気づけないのでもある。

「トポス」とは?
自分の居場所であり、役割であり、なおかつこの平場の世の中で精神を安定するようもってゆくのに必要な場所、ちょっとばかり狂ったことをしてしまったら元のまともな自分に戻してくれる場所のことである。

本当は、世の中信じられるものなどないのかもしれない。
西部邁氏の意見はこうだ。
お釈迦様やイエスキリストは「絶対」を感じたり、悟ったと言うが、それを感じる方向におのれを持ってゆかないと自分が分解してしまい、自分の意味がなくなり、おかしくなってしまうからそう言ったのでは、と。
これはつまり、仏教やキリスト教の中身がどうかという話でなく、絶対への志向や崇高へのまなざしという「宗教性」を持っておかないと人間はおかしくなるということであり、
世の中何も信じられないかも知れないが、どこかに何か信じられるものがあると想定しないと自分の意味を失い、単にデタラメな人間に成り下がるということである。

世俗の打算で価値をはかると、「世の中何も信じられない」という言葉は単にネガティブ志向としてまとめられてしまう。
デタラメな人間に成り下がりたくない、ただそれだけの話なのである。

「トポス」が必要な理由は、デタラメから逃れられるからであり、信じるものがあるかどうかが大切なのではない。デタラメにならないかが大事なのである。

奥さんに聞きたい、あなたの信じるものはデタラメではないですか?
デタラメであればやっと見つけた「トポス」は荒れ果てているはずです。

絶対への志向、崇高へのまなざし~表現者塾 第三回~

表現者塾の第三回、中野剛志さんがゲストで来ていただいた。
経済産業省の人でいわゆる官僚の人である。
しかし中野さんは2012年に20万部のベストセラー「TPP亡国論」を出され、経産省の方向性とは逆の立場で、官僚の異端児として孤軍奮闘をつづけておられる方だ。
近著に「保守とは何だろうか(NHK出版新書)」という本を出され、塾ではこの内容に関わることを多くお話しいただき、保守というものを深く探るきっかけとなった。
中野さんは話の中で福田恆存(ふくだつねあり)という保守思想家を紹介したが、この方は代表的な保守思想家として、保守とはどういうものかということについての著作を多く残している。福田恆存氏が残したものを深く探ってその先に垣間見えた氏の”感情”に触れることが、現代において保守思想を知る手がかりとなる。

思想としての「保守」とは何か?
「保守」とは何を「守る」というのか?

保守というと、真っ先に思いつくのがレーガン、サッチャー、中曽根に代表される保守政治家たちである。
まだロシアがソ連だったころの80年代冷戦期は、西の自由主義VS東の社会主義の世界だったことから、
彼らの保守とは自由主義、個人主義、民主主義イコール保守としてくくられるのが一般的である。
要するにソ連の消滅で社会主義陣営は間違っていたのであり、世界の覇権国となったアメリカの掲げる自由主義こそが正義であり、保守の論理だと解釈されて現在にいたっている。

だが、福田恆存氏が説明する保守の神髄とは、右でも左でもないバランスのことでイデオロギーではない。
時代が左寄りであれば右寄りに軸足を置いて絶妙なバランスを保つ、「平衡感覚」のことと説明する。


自由主義や個人主義、民主主義が“保守”と違う理由は、
このことを福田恆存氏は「一匹と九十九匹と」でこういう説明を使っている。

「あなたがもし、百匹の羊を飼っていたとして、そのうち一匹を見失ったら、残りの九十九匹を残して、見失った一匹が見つかるまで探しまわらないか。」
これ自体は聖書のことばだが、なぞらえて、この一匹を救うのは『文学』だと。かたや、九十九匹を救えるのが善い政治であり『社会科学』だと。
しかし社会科学はどうしても残りの一匹を救うのに限界があると。

そしてこのことは2つの示唆があり、1つ目は近代の社会科学への偏りすぎに対する批判である。

我々が暮らす日常という意味での“近代”という時代は、目の前に問題があったら解決するのにどう振舞うだろうか。
ご存知の通り、法律や技術、政治に至っては民主主義で解決を計ろうとする。これ自体は間違いではないし、そうするのがより合理的な手段であるから仕方ないが
自由主義や個人主義が信奉する『社会科学』は皆がハッピーになるということで万人に受ける。


この「皆」というのは最大多数のことだが、残念ながら一匹のはみ出し者は救えない。この現実は、人間の英知を結集した『社会科学』で解決できない問題はないという過信であり、社会科学だけで物事を片付けるなと言ったのが福田恆存氏なのです。
そしてその一匹を救うには『社会科学』ではなく『文学』だというのです。
文学者であった福田氏はこういう理由で、政治だけに過度に期待しないと反発して、社会科学、合理主義によってもたらされる『格差』が行き着くところは『酷薄』なのだと。

ただし、ここからが大事で、近代はその『文学』が退廃している。
その指摘は福田氏は“自我の空洞化”という言葉で説明する。

福田氏の文学に対する批判はその“ごまかし”にあった。
批判した文学者たちは自分の自我が空洞となってるところに、無理やり感情を放り込んだり、流行に預けたり、あるいは社会科学を放り込んでいると。
例えて言うなら、「原発反対」を高らかに叫んでいる人がいたとして、その理由を尋ねると「原発は怖ろしいから」と言ったとき、その人は本当に「怖ろしい」と思っているのか、傍から見れば、福島県に行ったこともない人が「怖ろしい」と感情もあらわに反対を叫ぶ姿にどこか、感情が伴っていないのと同じで、
自我の空洞化と引っ付けて言うと、空虚な自分だったところに、無理矢理、原発反対で活気付くきっかけがほしかっただけなのではと、思ってしまうのである。

空っぽの自分を埋めるのに、無理矢理な感情や流行に引っ張られて「原発反対」でない人は卑劣と、無理矢理に仲間意識をもとうとする。
こういう嘘の『友愛』は、必ず『偽善』へと行き着く。

ここまでの理由から、社会科学も文学も行過ぎれば、右は『酷薄』へ、左は『偽善』へと向かうのであり、このバランスを保つのが保守なのである。

右や左に限らず、善と悪、美と醜、真と偽、と何においても両方のバランスを保つにはその内部に矛盾を抱えている。
どちらか一方に偏ってしまうのはその矛盾に耐えられないからにほかならない。
社会科学では片付けられず、偽善でごまかしのきかない問題があり、そんなすさまじい矛盾の中からしか本当の表現は出てこないと言っています。

神といった全ての問題を解決する“理想”を信じてしまえば、人間というものがかかえる問題の本質を乗り越えられるだろうが、それは信じることはできない。
しかし乗り越えてゆくという一見不可能な“現実”に対し、絶対への志向や崇高へのまなざしをもたねばならない。
そうでないと、果てしない相対主義の泥沼にさまよってしまう。そうなってるのが近代であり、福田氏が言う『文学』の退廃なのです。

絶対への志向や崇高へのまなざしとは何でしょうか?

道徳感情論「モラル・センチメンツ」~表現者塾 第二回~

「与沢翼」というネットで大儲けしてる人をご存じだろうか?
札束になった現金で豪快に買い物をして、派手な車で登場する。その様をワザとらしいほどにテレビで露出している。
ぽっちゃりした男性である。
本人曰く、自身のビジネスへの反響を得る目的で、自分を露骨に表現する戦略だそうだ。
本業はというと、ネットを利用したビジネスである。

彼らの論理は非常に簡潔で、素人でも会社の社長や有名タレント、プロスポーツ選手のように巨額の収入を一気に得られるノウハウがあるという触れ込みで喧伝する。
そしてそれを実現することを“夢<ドリーム>”と呼ぶ。

実際に可能かどうか、儲け話が本当かどうかは問題でない。
儲けられることを夢と呼び、簡単に幸せの答えとすることにぽっかり抜け落ちてるものがないだろうか?


数か月前、渋谷公会堂でこの人のセミナーがあった。偵察のためネットビジネスの一ミリも知らない身内をエージェントとしてセミナーに送り込んだ。
しかしその身内は予想外に話を聞きいってしまい、講演後、8000円もするオールナイトの懇親会に家族分を申し込んでしまったのです。
乳飲み児をかかえ、泣く泣く夜の渋谷へ駆り出され、渋谷駅近くのナイトクラブに案内されたオレ。
そしてそこで見た光景は…。

ギラギラした店内に成金と化したものどもの、ヒステリックなはしゃぎ声と酔いどれた姿であった。

「金かえせぇ~」

なぜ彼らは儲けられるという触れ込みでせまることを是とし、そして儲けられてない人はこういう触れ込みにどうして簡単に飛びついてしまうのか?

それについての答えは、表現者塾第二回で語られたアダムスミスの「道徳感情論」をひも解かねばならない。

アダムスミスという人は経済学の祖と言われ、その論理は近代経済学の主流派の人たちに受け継がれている。
「国富論」というスミスが歴史に名を残すことになった著作には、「見えざる手」、「レッセフェール(なすに任せる)」といった有名な言葉が出てくる。
これらの言葉が示す意味の本質は何か?


スミスは、日常の経済活動の場で、個人も企業も各人が自由にそれぞれの利己心に基づき利益追求を行うことにより、競争を通じて結果的に社会が繁栄すると説いた。
バナナ一房が赤字覚悟の100円で売るのか、1000円でボロく儲けるかは、商店AとBが競争することによって価格調整がおのずとはたらくという。
自分の利益を追い求めてしのぎを削り合い、切磋琢磨された産業は成長を遂げ、やがて社会は繁栄し、皆豊かになる。
混沌とした経済取り引きの市場にやがて秩序がもたらされる。
近代経済の主流となる新自由主義者と呼ばれる人たちが、「レッセフェール(なすに任せる)」すれば、「見えざる手」で自動調整されるという理屈を、市場原理主義として継承した。

ここで大事なのが、本当になすに任せれば自動調整されるのか、「見えざる手」は嘘か誠かという議論ではない。
この話の前提に出てくる人々のモデル「経済人」が皆、利己的あるいは合理的な存在であると想定している点、ここに全ての間違いの元がある。

ロビンソン・クルーソーの話が経済学の引き合いに出されるようだが、
この冒険物語になぞらえて、市場原理主義が描くロビンソンは次のような「孤独の経済人」なのである。
遭難して無人島にたった一人で流れ着いたロビンソンはくよくよせず、前向きに日々の生活を送る。生きてゆくために畑仕事をして、着実に自立への道を歩む。
人間はどんな状況でも合理的に、自分で自分をコントロールして、理性的に行動する「孤独の経済人」だという前提である。

果たして人はそんな合理だけの行動を取れるものなのか?
しばらくして故郷を恋しく思い、他人との交流の一切が失われたロビンソンはやがて疲れ果て、人間が崩壊してしまうことはないのか?

だが、やっぱり人は楽に大儲けできるという話には、合理性があると考えるものである。
人はあらゆる状況でロビンソン・クルーソーのように合理的に判断して行動を取っているのである。

そして、スミスもそのように論じてるのだろうか?

歴史上著名なスミスであるが、生涯に2冊しか著書を残していない。
国富論ともう一冊が、道徳感情論「モラル・センチメンツ」である。

人は利己的、合理的な生き物であるが、スミスは「道徳感情論」で、他人に「共感」することを付け加えている。
人は「孤独の経済人」にはなりきれず、他者の目がある。自分の感情があるのと同じように感情のある他者がいる。その他者との関係で公正な秩序を見出し「フェアプレー」で動く。そういう生き物であると。
つまり、「見えざる手」も利己的に従って自由気ままに動くのでなく、「共感」することで熟成されたフェアプレーが土台に横たわってレッセーフェールするというのが、スミスが2冊の著作を通して述べたかったこととまとめられる。

答えは、必ずしも人は合理的な行動をとらないということです。

そして道徳感情論で、「共感」の本質についてこう述べられている。
貧困というのは、共感しがたいものである。それは他人への賞賛は共感しやすいものだが、他人の貧困や悲惨なものをあえて見たいと思わないし、アンタッチャブル(触れてはならない)なものという感覚がやがて無視にかわる。
このことをわかっているから、貧困な状況になりたくないと思うし、貧困の苦しみを他人に同感してもらえないことが一番悲惨なのである。
こういう貧困を人々が味わわないためにも、皆が豊かになれる国富の論理が必要だということです。

いいでしょうか。

大儲けを喧伝することを止めさせようとは思わない。彼を止めてもいずれ後継者は出てくるだろうから。
ただ、大儲けの先にだけ幸せがあるというようなことは、ものごとの半分しかしゃべっていないのであり、儲けられなかった果てに「共感」のない一番悲惨なことが可能性としてあることも同時に伝えねばならない。

社会ダーウィニズム ~表現者塾 第一回~

表現者塾の第一回目が10/4(金)に開催された。
表現者塾とは西部邁氏が主宰する塾で、公式サイトによるとコンセプトは「物事の考え方および表し方の基本を自分自身で鍛えるための言論の場である。」と。

入塾にあたっては、志望理由を書いて提出するよう義務付けられた。
自分としては、「自分を高めたい」とか、「世の中を変えたい」という、何か変化を求めてという理由が参加のきっかけになった訳ではない。
特に理由めいたものはなく、当たり前のことを当たり前に感じれるか、それを確認するため、という感覚に近い。

さて、表現者塾一回目のテーマは「明治の精神」ということで、中江兆民や徳富蘇峰(とくとみそほう)という言論人について触れ、彼らの言ったことがいかにまっとうで、常識として当たり前のことであったか、だから明治の時代に少しは見習おうという講義であったのだが、もっと簡単にまとめると、中江兆民が言った、“日本人は「まじめじゃない」そして「考えない」”ということ、こういう厳しい指摘である。

明治の精神についての詳しい内容は、2013年11月に発売予定の西部邁氏著『中江兆民』にゆずるとして、なぜ日本人は「まじめ」に「考えない」のか?
それは、近代社会が「社会ダーウィニズム」の枠組みで解釈されていることと大きく関わっている。

「社会ダーウィニズム」とは、 社会進化論のことで、生物が高次に進化するのと同じように、社会も高次元に進化してゆく、やがてその先には「完全社会」が待ち受けているとする、ダーウィンの進化論を社会現象においても説明した理論のことです。

既存の制度・習慣を改善して古いものを壊し、新規の制度・習慣に改革して新しいものを構築してゆくことが「進化」であり、
近代社会では、それはよいことだという共通感情が人々で共有されてしまっているのである。
要するに、生まれながらに新しいものを柔軟に受け入れて変化してゆくことはいいことだというのが、当たり前で通っている。

それが近代社会というもので、それが「社会ダーウィニズム」の枠組みで解釈されてるということである。

こういう枠組みが浸透してしまってるのには、「考える」余裕が与えられてない背景がある。
いやそれ以前に、「この進化は本当に正しいか?そしてその正しいかの基準はどこから来てるのか?」こういう問いをいちいち整理する時間もなければ、第一面倒くさい。
だから、「これとこれをこういう風に組み合わせれば、世の中うまく回る」といった類の仕組みや制度、手段が次々生まれ、改革や革新といって急進的に推し進められる。
構造改革とか技術革新(イノベーション)とコンパクトにフレーズでまとめられれば、「おおそうか、それは名案だ」と忙しい国民はそう思うのです。

つまり、「今すぐ変われるよ!」と言われることで、楽になるのである。
どんなに悪い状況でも「一発逆転ができるよ」、「これさえすれば万事OK」と立場の弱い国民は言ってもらいたいだけなのです。
この一発逆転の法則を考え出す人、先陣を切ってそれを推し進める人がもてはやされる、それが「まじめ」に「考えない」ということです。

過剰に持ち上げられて現れたリーダーが決まって吐くセリフ「世の中うまくゆく方法はこれだよっ!」に、何度も日本人は風見鶏のように態度をコロコロ変えて来たわけです。
そして究極的に、彼らは「進化には法則がある」と断言するのです。

法則とは?
同じことがいつでも繰り返し再現できることが「法則」で、彼らは「これさえやれば…」と成功法則として打ち出し人々を魅了する。
金、恋愛、美容、仕事、健康、結婚…術として、人生をうまくゆかせる方法に日本人は過剰に固執している。
彼らが描く人生とはこれら物質的なものごとばかりの時点で議論にのぼらないかも知れないが、彼らはものごとをうまくゆかせる法則があると信じて疑わない。

たとえば結婚生活にせよ、子育てにせよ、一筋縄ではいかない。ましてやひとりで生きるにしても、難儀は多い。
ものごと、そう簡単にうまくゆかないものなんです。

日本人の国柄というものは、生活をうまくゆかせる方法はその人や時と場合によりけりで一概にはこれだと決められないだが、その知恵は昔から習慣や口伝えなどの中にすべり込ませて受け継がれていて「隣人と仲良くせえよ」の爺さんの小言に込められた意味をくみ取り、実生活で「なるほどやっぱり隣人とは仲良くしないとな」と知恵が生かされてくる。

方法を確立して伝えることでなく、方法がなぜ大事かをどうやって伝えてゆくか。
法則を組み立てようとすることに方法論、技術論への過信があり、どこかに嘘がある。

そういう風に疑わないことが「まじめ」に「考えない」ということです。

ワンスフォーオール、人生一回限り。
誰かの成功法則を繰り返し再現など本質的にはできない。方法論にまとめるなどでしゃばらないこと。
だがこのことを分からないと過剰にのめりこんだり、過激に振り回される。
変な風に「進化」はしたかも知れないが、あいかわらず「進歩」のない生き物なのが人間ということで、徳富蘇峰の言葉を借りると、「人間、時代は変わってもやることは変わらない」ってことなんでしょう。