「異端児、常識を疑う」 -8ページ目

何も無かった感覚、無事に終わった感覚

とある飲み会で、バツイチの男性と話す機会があった。
その人とは1,2回挨拶したことがある程度で、ほとんど知らない間柄。
相手には悪いがあまり話したくないタイプの人だったがとりあえず、「年齢よりお若く見えますね」とお世辞から始まり、更に聞きたくもなかったが、会話が途切れてしまいそうだったので、お人よしにも聞いてみた。

「ご結婚はされてるんですか?」
「前はしてました。いわゆるバツイチです。」
別れた理由は奥さんとソリが合わなかった、つまり「性格の不一致」というやつらしく、そして子供も二人いたが、彼によると今は別れた奥さんの元に子供はいるらしい。

更に、ときたま子供に会ったりするのかとか聞いてみた。
「たまにですね」と。
続けて、
「そりゃあ子供はかわいいですけどね…」と強調する。

しかし次に続けて出てきた言葉はその強調とは相反するギャップがあるものだった。
「でも、やっぱ自由はいいですよ。」と。
性格の不一致といえども彼に問題があったのか、問題ありの奥さんだったかどうかは分からない。
ただ、しみじみと今のひとりの自由な状態がいいものだということを強調していた。

話は適当に続き、周りの誰かが聞いたのか、本人からしゃべったのか忘れたが、
彼には今、彼女がいるらしい。

そしてこちらから見せてくれとも言っていないのに、おもむろに写メを取り出し、周りに見びらかした。
年齢が10歳近く離れてるらしく、顔はブスではない。が、特段、魅力的ではない。
自らあまり面識のない相手に見せびらかしたのだからよほど自信があったのだろうか。
「この娘は当たりでしたね。」と。
確かに30代後半である“オッサン”の域にある彼にしては“当たり”なのかもしれない。

しかし彼の一連の言動には、どこかに違和感がある。
それは決してねたんで言うのではない。

違和感、それは何か?

「子供はかわいい」といいながら、女の写真を見せて満足げにしている様、その醜い構図である。
「子供など顔も見たくない」と言ってくれた方が構図として、まだ醜くはない。
自分がもし彼の息子だったら、見ず知らずの女の写真を他人に見せてびらかす男に「やっぱ子供はかわいいね」などとたとえ親であれ、そんなぶざまな言われ方はされたくない。
そういう自分の醜い姿を客観的に見れない想像力の乏しさが醜いのである。

表面上、奥さんとソリが合わなかったのが別れた理由だろうが、本当はこんな風に写真を見せびらかす日常を欲していたからではないか。
彼が「やっぱりいい!」と言う『自由』というやつの正体はこんな日常だったのだろうか。
彼に限らず、大概のバツイチの男は同じように、何かの帳尻を合わせるかのごとく、一応子供はかわいいと言って見せる。

いや、彼にしたってそんなはずはなく、子供がかわいいのは本心だろうし、その気持ち以上に強い思いが自由に駆り立てられたのだろう。
ならば、彼は自由というものをしっかり捉えていないことになる。

そしてこれは彼に限ったことでなく、誰もが同じような勘違いをしているはずである。

家庭生活からの自由、それは「束縛からの自由」と言い換えてもよいでしょう。
奥さんから、子供から、あるいは親類縁者などあらゆる束縛に堪えかねてもう我慢の限界だ。実際そんな束縛もあるでしょう。
しかし少なくとも彼の場合、あの写真を見せびらかすのに何のためらいもない態度から察すると、そこまでの束縛はなかったのではないか。
もしくはそんな束縛から逃れて手に入れたかったものが、しょせんその程度のものだったとしたら、
いずれにせよ「自由」は彼にとって具体的な姿を伴い、強く求められたものでは決してなかったのだろう。

要するに、彼が求めたものは、単に自分にとって「不快なことの除去」であり、家庭というものの犠牲はいやだということである。
これが自由というものをしっかり理解していないということである。

自由を捨て、子供育てを、家庭生活をまじめにしろと説教したいのではない。
我々が口にする自由など、しょせんその程度のものしか抱けないということを感じなければ、バランスよく生けてゆけないのでないかということに集中するのである。

不快を除去した先に彼を待つものは、次の不快であるはずだから、どこまで行っても快適さには到達しない。
彼は終わりのない「不快の徹底除去」にはまり込み、
目の前の不快を除去したはいいが、何を求めているのかついにつかみきれないでいる。
それは、女の写真を見せびらかす行為そのものが、ものがたっているではないか。

不快とは何か?
不快の源は?なぜ日常において人は不快を感じやすいのか?

それは人が生まれながらに持つ「孤独」という性質がそう感じさせていると思える。
人生を振り返ったとき自分には何もなかったと思うようなことは嫌だと想像してしまうのは、誰だって同じであろう。
だから“何もなかった”という不快な感覚を恐れる。常に。
それが不快の除去へとつながってるのでないか。
確かに、死ぬ間際に知人がひとりもいないとか、自分の人生は何もなかったと想像すると、誰だって怖いはずである。

しかし、“何もなかった”という感覚を恐れるあまり、“自由”という耳触りのいいものに寄りかかってるうちは、
無事に終わった感覚が分からないだろう。

例えば、自由に操る金は持っていないが、金に操られていない人生で無事終わる。というような感覚。

子育てに追われて自分の時間がないとするか、苦労したけど子供が立派に育ってくれてまあ良しとするか。

食いつぶすか、成り就(な)らせるか。

消費か、成就か。

どっちかしか選べないなら、
あんたならどっちだ?

おい・ごうチェック

「おい!」「ごう!」
高校生の頃、電車の中、学校の中、待ち行く中、場所を選ばず友人Y君と自分は、こんな暗号を用いて女性を識別していた。
もちろん「顔」もしくは「容姿」に対してである。
これをY君と「おい・ごうチェック」と呼んでいた。
それぞれ暗号の呼び方の由来は別の機会に話すとして、「おい」はつまり「かわいい」とか「きれい」のことで、「ごう」はそうでないこと。

今振り返ると、はっきり言って頭の中の大半は女のこと、特にその「美」か「醜」かどうかしか考えてなかったのが、青春時代だったといってもいいくらいである。
ところが、これは多かれ少なかれ誰でもそうではないか。しかも今も昔も変わらないのではないだろうか。

そして、このことに目をつぶることも、今も昔も変わらないのである。
それはこういうことである。

これは劇作家福田恒存氏のエピソードであるが、女子大生が就職活動で出版社の面接を受けた。
ひとりはクラスで成績が一番で、もうひとりは大してできない子。
しかしできない子の方が受かった。
理由はその子が美貌だったからである、と。
そして成績一番の子は「社会が信用できない」と言ったそうです。

この話を聞いて、成績一番になる努力の甲斐もなく、むごい話だとは思うかも知れない。
そして、美貌に恵まれない子は不幸というかもしれない。
社会というのは公平でない、偏見や差別というものはどこかで効いているというかもしれない。
自由や平等と言うのは建前でしかない、こんな社会は変えてゆかねばならないうかもしれない。

しかしここで忘れてはいけないのが、社会とはこういうもので、どうにも動かしがたいものが存在するということ。
現実は甘くないということ。
現実に目をつぶっていては始まらないということです。

だから社会を恨んだり、理想の社会にしようとすることは結果的に間違いにたどり着いてしまう。

なぜなら、美貌に恵まれない子の「不幸」というのは、本当の「幸」「不幸」で測られていないからである。
ここでいう「不幸」というのは「損」をしたということである。
得か損か、美貌に恵まれない子は「損」という理由で、本人も社会を恨んでいる。

この得か損かの幸福論は、今も昔も根強く人々の人生に強く影響を及ぼしている。
人生は不幸なことの方が多いかもしれない。もちろんここでいう不幸とは「損」することである。
そして、不幸なことに救いを求めたがる。
別のことで損を取り返そうとするのである。

自分の顔がまずい。だから立派に生きると、弱点を別のことで補おうと努力しても、根本はひがみや劣等感が動機となってる以上、そうして出来上がった人間が他人に不寛容で冷たかったりしては何も変わらないのと同じになる。

これは立派に生きることが間違いということでなく、弱点を埋める努力よりも、弱点にこだわらない努力が大事で、言い換えれば、得する面を探そうとするのではなく、損得にとらわれない努力が大事ということである。
福田氏はこういう。
現実に甘んじる素直さが今隠れている長所を芽生えさせるのでないか、と。
そしてこの「長所」というのは思うに、自分の得する面ではなく、コントロールの難しい手に負えない「自分」というものとどう折り合いをつけるかの平衡術のことでないか。

自己正当化

おにぎりが一つあったとする。
お腹が減っていて、どうしてもこのおにぎりを食べたい。

ところがしかし、目の前にもう一人お腹を空かせた人がいる。
もしその相手のことが好きだったら、あげたくなる相手だったら、自分もお腹が空いていてもあげてしまうこともある。

しかしもし、その相手に嫌われたくないからとか、取り入りたいからとかの理由であげる場合どうなるだろうか。

加藤諦三氏は、人に嫌われたくないからあげることに慣れてゆくと、そのうち「人が嫌いになる」と言い、こういう行動をとり続けていると人生を間違えてしまう大きな要因になるのでないかと問う。
人が嫌いになるということの延長線上には、人を好きになれない、好きにならないという現代的な病にやがてつながるのでないかということである。

加藤氏の話はここまでだが、もう一つおにぎりをめぐる選択には現代的と象徴されるべきものが用意されている。

それは、「嫌われたっていいからオレが食べる」である。

そして現代では、この選択がエゴイズムでないと正当化する風潮を後押ししている
この選択をたやすくしてる心理的背景には、現実に基づいた合理的な選択なのだからと、単なるエゴイズムとは違うという大義名分を下支えしてるのである。

相手にも自分にも食べる権利は平等にあり、個人個人が自分の主張を持つことは当然である。よってこの選択は単なるエゴイズムでは片付けられない、と。
どうせおにぎりをあげても、その温情が相手に伝わらないこともあるのだから、初めから自分が食べた方がよい場合もあることを考えれば合理的な選択である、と。
これらの理由で、「嫌われたっていいからオレが食べる」はためらいなく正当化される。

「法を犯してない以上は何でも許される」のと似ている。
つまり自己主張というものが、どれだけ上手く自己正当化できるかにかっかってくるのである。

個人のことは個人でしか守れない風潮が強まり、足元をすくわれないよう損得勘定で物事を見てしまうことに慣れてしまってるということ、そしてこれが現代の、とりわけここ十数年の間に個人個人が「自己正当化」が上手になってしまった顛末でないだろうか。

一方、「人に嫌われたくないからあげる」はどうか。
一見、「嫌われたっていいからオレが食べる」ことと正反対の行為に見えるが、実は本質的には同じである。
嫌われたっていいと自己正当化をやりすぎた挙句、腹を割って相手を信じることができなくなる。すると人に嫌われないように注意を払うようになり、即席で味方を作ろうとする。
どちらも本質が同じになる。
結局、ひとりでどこまでもエゴイズムを押し通すなんて不可能であり、押し通せば通すほどひとりであることの不安だけが募り、嫌われたくないからあげる結果に導かれてゆくのである。

やっぱり一人は不安である。
そして、自分には何でも決められる「選択の自由」があるはずなのに、自分を自分の意志で決定づけているにも関わらず不安が最後に残る。
自己主張するおぜん立ては揃ってるのに、不安はぬぐえないのである。

これはどういうことか?

自由に振舞うことを本当の自分だと自己主張することは中々難しい。
例えば、尊敬される経営者になりたいと自由な立場で言ったとしても、どこか言わされてる感はぬぐえないし、そう言える環境に恵まれてるだけかもしれない。
そもそも本当になりたいと思ってるかも疑問で、なってもいないものになりたいという矛盾も含んでいる。

自分を自分で解ろうとすることの限界性の問題になる。

自分とは?

本当の自分の手掛かりは実は選べないものにこそ宿ってるのでないだろうか。
つまり自分に負ってる宿命や生まれながらの状況など選べないもの。
いやおうもなく、自分はその役割を背負わされると自覚するとき、はじめて自分の片鱗が垣間見えてくる。

つまり他人を通してしか、自分は決定づけられないのでないだろうか。ということである。

言い換えれば、自分が自分を見透かそうと思ってもできやしない。
そのことを、自己正当化などで自分を確立することなど不可能だと受け入れた者のみが、不安から少し距離を置ける。
心に余裕<ユーモア>が生まれるのである。

自己正当化による不安。
これは現代人の誰もが多かれ少なかれかかえてる課題であり、自己正当化の余地のない状況においてこそ、相手を好きになり、相手を思いやることとがどういうことか実感を伴うのでないか。

自己正当化の巧みな口実をさがすことより、実は、おにぎりをあげてやりたいと強く思える友人なり、異性なり、師匠なり、自分を賭けてみたい相手にめぐり合いたいと、時代を問わず誰もが欲する生き者なのでないだろうか。

大衆の反逆

自殺未遂の経験がある若者たちが集まって座談会を行うテレビ番組がある。
それぞれの経験やいきさつを語りあい、励ましあい、解決策を模索したりする。

理由はさまざまで、親から日常的にネガティブな言葉をかけられ精神的にまいってしまったり、職場で居場所がなくなったなど。
聞いてると、その境遇自体は非常に不幸なものと同情できる。
しかし自分は本気で死にたいと思ったことがないので、深いところで理解できないから言えるのかもしれないが、彼らに同情する一歩手前で考えてみることがある。

それは「生きたくない」ということと「人生楽しけりゃいいじゃん」という一見正反対のように見える生に対する価値観が、実は同じでないかという問いかけである。いずれも生きる「意味」を必要とせず、生きる「口実」常に捜し求めているという奇妙な「生」でないのかいうことである。

1800年頃までは人口が1億8千万人を越えたことがないが、それから100年少しの間で4億6千万人にも膨れ上がった。
これはヨーロッパの人口推移である。
そして増殖した大衆をオルテガ・イ・ガセットは大量人「マス・マン」と呼んだ。

この人口が爆発的に増加した理由は、技術そしてデモクラシー(民主主義)の勝利にあるという。

どういうことか?

かつては生きることは様々な困難や危険、抑圧、欠損などが伴っていた。
しかし物的な問題は技術によって解決されたため、生活は一変し、社会的には生まれた瞬間から他人の意志に煩わされない「権利」が付与され平等が実現された。
生に対する障害や制約が取り除かれ、安楽な生活をお膳立てされたわけである。
つまり「障害」や「制約」に適応する必要がなくなった。
もっと簡単に言えば、生きるということを耐え忍ばなくてもよくなった。

オルテガは「大衆の反逆」で、「運命は生としてかくあるべき、かくあるべきでないとか「議論」するものでなく、受け入れるか否かである」、という。
したくないことをしなければならない自覚を持つか、それとも拒否するかということである。
受け入れず、拒否すれば生きる口実を探すしかなくなる。

口実とは「装い」であり「偽装」である。「逃避」とも言い換えられる。
運命に逆らえないことを直視しなくて済む態度のことである。

自分の行為は取り消すことができないという真剣さがなくても生きてゆけてしまう。

つまり何も成さなくても、既に最低限のものは揃っているから「生活」はやってゆける。
だから他人の言葉に耳を傾けなくてもある程度「孤立」してもやってゆけてしまう。
こういう一見、人々が平均的な生活が保障されるようになった近代の「平均化」が実は大衆自身を思い上がらせ、不安に陥れているのだと。
いわゆるひきこもり問題、老人の孤独死問題にあらわれてる閉鎖性にもつながっているのである。

そしてこれは単に「一般大衆」をバカにしたり、自殺する人に対しての頭ごなしの批判ではない。
生きる口実ばかり探し求めても、生きた心地がしないんじゃないの?という問いなのである。

技術を信頼しすぎない態度、民主主義はともすれば危ういものと割り切る態度、こういう態度しか近代の「平均化」から脱出する方法はない。
技術が万能でないならば生の危機に備えられ、民主主義を疑えばモラルを追求しはじめられる。
生きた心地を得るには、宗教性を持つとか、タブーや慣習の中に生を浸すとか、人間を超えたメタレベルのものを感じようとする力が必要になるということです。

つまり人間は、自分の「生」を何か超越的なものに奉仕させないと生きた心地がしないものなのかも知れない。

ディグニティなきところに集団的自衛権なし

「もしかしたら、遠く離れた中東でアメリカの代わりに日本が戦争をしなければならない」
これが「集団的自衛権」を簡単に説明したものである。
これは部分的に正しい。
使い方を間違えるとありうる話なのだと、青山繁晴氏も言う。

しかし、だからと言って憲法違反だという意見、「憲法に書いてあるからダメ。」という意見についてはどうか?

日本国憲法9条には、陸・海・空軍はおろか、その他の「戦力」を保持しないとされており、戦争を二度とさせないようにダメ押しで「国の交戦権は認めない」としている。
集団的自衛権の行使がダメだという理由がここにある。

ご存知のとおり日本には自衛隊がいる。
自衛隊は戦力でないのか?
イージス艦があり、戦闘機に乗っていても戦力ではないと言い張れる理由は?

これについては憲法の“解釈”を変えている。
「自衛隊は戦力ではない」と。自衛権は交戦権ではないと。

しかし自衛権は認めてるにもかかわらず、自衛権のひとつである集団的自衛権について今さらながら解釈改憲が必要というおかしなことになっている。

ご承知のとおり、日本国憲法の草案はアメリカ人によって書かれた。しかも10日程度で。
憲法9条というのは原案を作った当時のアメリカ人にとっては肝の部分で、「二度と日本がアメリカに刃を向けないよう完全に武装解除させる」ことに狙いがあった。

日本国憲法は平和憲法と言われるが、このことから日本のための平和というよりもアメリカの平和のために書かれたようなものである。
それなのに「憲法9条を世界遺産に」とか「憲法9条にノーベル平和賞を」とか言われてもしっくりきません。

要するに“憲法違反”というけれども言葉のレトリックであり、違反したところで何も変わらないという事実が横たわっている。
こうなれば憲法というのは正統な行動を取ろうとしたときの足かせとなってるのである。

憲法というものの本質は?

イギリスは不文憲法として知られている。文章で書かれてない。
その理由は、別に文章でしたためておかなくても、人々の中に「これはやるべきである、これはやるべきでない」という根本の常識が共通感覚や共通認識として宿ってるならば、まあまあまっとうに議論できるだとうという見地に立っている。

文章にする、しないが大事ではなく、根本の常識がどうかが大事なのだと。
憲法を持ち出して語らなくても、どこからやってきた常識でお前は語ってるのかと常に問われている訳である。
これが本質である。

「集団的自衛権」について言えば、根本の常識さえ国家にしっかり据えられていれば、それにのっとり断固として行使することもあれば、断固として行使しない場合もあってしかるべきなのである。

「集団的自衛権」を行使するか否かの判断する根拠が国家が持っていないから、賛成か反対かという議論になっている。
この国に根本の常識はないのである。
そして今の日本国憲法を変えず守ることに執着すればするほど、根本の常識が失われている悲劇から遠ざかるのです。

青山繁晴氏は日本国憲法草案に携わったアメリカ人に直接話を聞いたという。
そのアメリカ人はこう言ったという。
「いずれ日本は自主憲法を掲げて独立してゆくだろう。」と思っていたと。少なくとも自尊心や威厳(ディグニティ)を持ってるのがひとつの国家の形であるならば、日本も例外でなく、と。
「まさか何十年も憲法が改正されないなんて思ってもいなかった。」と。

根本の常識とはどこから来るのか?
理想主義から生まれるものでもなければ、設計してつくるものでもない。
西部邁氏はこういう。
「自分たちの紆余曲折を持った長い歴史の中から自ずと発せられてくる。」

これを西部氏は「伝統」と表現する。
悲しいかなアメリカは歴史が浅く、歴史にたずねてみても国家の威厳の源はない。理想や設計で形づくらざるを得ない。

天皇をはじめとする日本の伝統が大事だというのは実はこういうことと関係ががある。
京都のお寺を守ることだけが伝統主義ではない。

「憲法9条を世界遺産に」とか「憲法9条にノーベル平和賞を」とかのセリフを本気で発しているといつかよそから軽蔑されるはずです。