自己正当化 | 「異端児、常識を疑う」

自己正当化

おにぎりが一つあったとする。
お腹が減っていて、どうしてもこのおにぎりを食べたい。

ところがしかし、目の前にもう一人お腹を空かせた人がいる。
もしその相手のことが好きだったら、あげたくなる相手だったら、自分もお腹が空いていてもあげてしまうこともある。

しかしもし、その相手に嫌われたくないからとか、取り入りたいからとかの理由であげる場合どうなるだろうか。

加藤諦三氏は、人に嫌われたくないからあげることに慣れてゆくと、そのうち「人が嫌いになる」と言い、こういう行動をとり続けていると人生を間違えてしまう大きな要因になるのでないかと問う。
人が嫌いになるということの延長線上には、人を好きになれない、好きにならないという現代的な病にやがてつながるのでないかということである。

加藤氏の話はここまでだが、もう一つおにぎりをめぐる選択には現代的と象徴されるべきものが用意されている。

それは、「嫌われたっていいからオレが食べる」である。

そして現代では、この選択がエゴイズムでないと正当化する風潮を後押ししている
この選択をたやすくしてる心理的背景には、現実に基づいた合理的な選択なのだからと、単なるエゴイズムとは違うという大義名分を下支えしてるのである。

相手にも自分にも食べる権利は平等にあり、個人個人が自分の主張を持つことは当然である。よってこの選択は単なるエゴイズムでは片付けられない、と。
どうせおにぎりをあげても、その温情が相手に伝わらないこともあるのだから、初めから自分が食べた方がよい場合もあることを考えれば合理的な選択である、と。
これらの理由で、「嫌われたっていいからオレが食べる」はためらいなく正当化される。

「法を犯してない以上は何でも許される」のと似ている。
つまり自己主張というものが、どれだけ上手く自己正当化できるかにかっかってくるのである。

個人のことは個人でしか守れない風潮が強まり、足元をすくわれないよう損得勘定で物事を見てしまうことに慣れてしまってるということ、そしてこれが現代の、とりわけここ十数年の間に個人個人が「自己正当化」が上手になってしまった顛末でないだろうか。

一方、「人に嫌われたくないからあげる」はどうか。
一見、「嫌われたっていいからオレが食べる」ことと正反対の行為に見えるが、実は本質的には同じである。
嫌われたっていいと自己正当化をやりすぎた挙句、腹を割って相手を信じることができなくなる。すると人に嫌われないように注意を払うようになり、即席で味方を作ろうとする。
どちらも本質が同じになる。
結局、ひとりでどこまでもエゴイズムを押し通すなんて不可能であり、押し通せば通すほどひとりであることの不安だけが募り、嫌われたくないからあげる結果に導かれてゆくのである。

やっぱり一人は不安である。
そして、自分には何でも決められる「選択の自由」があるはずなのに、自分を自分の意志で決定づけているにも関わらず不安が最後に残る。
自己主張するおぜん立ては揃ってるのに、不安はぬぐえないのである。

これはどういうことか?

自由に振舞うことを本当の自分だと自己主張することは中々難しい。
例えば、尊敬される経営者になりたいと自由な立場で言ったとしても、どこか言わされてる感はぬぐえないし、そう言える環境に恵まれてるだけかもしれない。
そもそも本当になりたいと思ってるかも疑問で、なってもいないものになりたいという矛盾も含んでいる。

自分を自分で解ろうとすることの限界性の問題になる。

自分とは?

本当の自分の手掛かりは実は選べないものにこそ宿ってるのでないだろうか。
つまり自分に負ってる宿命や生まれながらの状況など選べないもの。
いやおうもなく、自分はその役割を背負わされると自覚するとき、はじめて自分の片鱗が垣間見えてくる。

つまり他人を通してしか、自分は決定づけられないのでないだろうか。ということである。

言い換えれば、自分が自分を見透かそうと思ってもできやしない。
そのことを、自己正当化などで自分を確立することなど不可能だと受け入れた者のみが、不安から少し距離を置ける。
心に余裕<ユーモア>が生まれるのである。

自己正当化による不安。
これは現代人の誰もが多かれ少なかれかかえてる課題であり、自己正当化の余地のない状況においてこそ、相手を好きになり、相手を思いやることとがどういうことか実感を伴うのでないか。

自己正当化の巧みな口実をさがすことより、実は、おにぎりをあげてやりたいと強く思える友人なり、異性なり、師匠なり、自分を賭けてみたい相手にめぐり合いたいと、時代を問わず誰もが欲する生き者なのでないだろうか。