何も無かった感覚、無事に終わった感覚
とある飲み会で、バツイチの男性と話す機会があった。
その人とは1,2回挨拶したことがある程度で、ほとんど知らない間柄。
相手には悪いがあまり話したくないタイプの人だったがとりあえず、「年齢よりお若く見えますね」とお世辞から始まり、更に聞きたくもなかったが、会話が途切れてしまいそうだったので、お人よしにも聞いてみた。
「ご結婚はされてるんですか?」
「前はしてました。いわゆるバツイチです。」
別れた理由は奥さんとソリが合わなかった、つまり「性格の不一致」というやつらしく、そして子供も二人いたが、彼によると今は別れた奥さんの元に子供はいるらしい。
更に、ときたま子供に会ったりするのかとか聞いてみた。
「たまにですね」と。
続けて、
「そりゃあ子供はかわいいですけどね…」と強調する。
しかし次に続けて出てきた言葉はその強調とは相反するギャップがあるものだった。
「でも、やっぱ自由はいいですよ。」と。
性格の不一致といえども彼に問題があったのか、問題ありの奥さんだったかどうかは分からない。
ただ、しみじみと今のひとりの自由な状態がいいものだということを強調していた。
話は適当に続き、周りの誰かが聞いたのか、本人からしゃべったのか忘れたが、
彼には今、彼女がいるらしい。
そしてこちらから見せてくれとも言っていないのに、おもむろに写メを取り出し、周りに見びらかした。
年齢が10歳近く離れてるらしく、顔はブスではない。が、特段、魅力的ではない。
自らあまり面識のない相手に見せびらかしたのだからよほど自信があったのだろうか。
「この娘は当たりでしたね。」と。
確かに30代後半である“オッサン”の域にある彼にしては“当たり”なのかもしれない。
しかし彼の一連の言動には、どこかに違和感がある。
それは決してねたんで言うのではない。
違和感、それは何か?
「子供はかわいい」といいながら、女の写真を見せて満足げにしている様、その醜い構図である。
「子供など顔も見たくない」と言ってくれた方が構図として、まだ醜くはない。
自分がもし彼の息子だったら、見ず知らずの女の写真を他人に見せてびらかす男に「やっぱ子供はかわいいね」などとたとえ親であれ、そんなぶざまな言われ方はされたくない。
そういう自分の醜い姿を客観的に見れない想像力の乏しさが醜いのである。
表面上、奥さんとソリが合わなかったのが別れた理由だろうが、本当はこんな風に写真を見せびらかす日常を欲していたからではないか。
彼が「やっぱりいい!」と言う『自由』というやつの正体はこんな日常だったのだろうか。
彼に限らず、大概のバツイチの男は同じように、何かの帳尻を合わせるかのごとく、一応子供はかわいいと言って見せる。
いや、彼にしたってそんなはずはなく、子供がかわいいのは本心だろうし、その気持ち以上に強い思いが自由に駆り立てられたのだろう。
ならば、彼は自由というものをしっかり捉えていないことになる。
そしてこれは彼に限ったことでなく、誰もが同じような勘違いをしているはずである。
家庭生活からの自由、それは「束縛からの自由」と言い換えてもよいでしょう。
奥さんから、子供から、あるいは親類縁者などあらゆる束縛に堪えかねてもう我慢の限界だ。実際そんな束縛もあるでしょう。
しかし少なくとも彼の場合、あの写真を見せびらかすのに何のためらいもない態度から察すると、そこまでの束縛はなかったのではないか。
もしくはそんな束縛から逃れて手に入れたかったものが、しょせんその程度のものだったとしたら、
いずれにせよ「自由」は彼にとって具体的な姿を伴い、強く求められたものでは決してなかったのだろう。
要するに、彼が求めたものは、単に自分にとって「不快なことの除去」であり、家庭というものの犠牲はいやだということである。
これが自由というものをしっかり理解していないということである。
自由を捨て、子供育てを、家庭生活をまじめにしろと説教したいのではない。
我々が口にする自由など、しょせんその程度のものしか抱けないということを感じなければ、バランスよく生けてゆけないのでないかということに集中するのである。
不快を除去した先に彼を待つものは、次の不快であるはずだから、どこまで行っても快適さには到達しない。
彼は終わりのない「不快の徹底除去」にはまり込み、
目の前の不快を除去したはいいが、何を求めているのかついにつかみきれないでいる。
それは、女の写真を見せびらかす行為そのものが、ものがたっているではないか。
不快とは何か?
不快の源は?なぜ日常において人は不快を感じやすいのか?
それは人が生まれながらに持つ「孤独」という性質がそう感じさせていると思える。
人生を振り返ったとき自分には何もなかったと思うようなことは嫌だと想像してしまうのは、誰だって同じであろう。
だから“何もなかった”という不快な感覚を恐れる。常に。
それが不快の除去へとつながってるのでないか。
確かに、死ぬ間際に知人がひとりもいないとか、自分の人生は何もなかったと想像すると、誰だって怖いはずである。
しかし、“何もなかった”という感覚を恐れるあまり、“自由”という耳触りのいいものに寄りかかってるうちは、
無事に終わった感覚が分からないだろう。
例えば、自由に操る金は持っていないが、金に操られていない人生で無事終わる。というような感覚。
子育てに追われて自分の時間がないとするか、苦労したけど子供が立派に育ってくれてまあ良しとするか。
食いつぶすか、成り就(な)らせるか。
消費か、成就か。
どっちかしか選べないなら、
あんたならどっちだ?
その人とは1,2回挨拶したことがある程度で、ほとんど知らない間柄。
相手には悪いがあまり話したくないタイプの人だったがとりあえず、「年齢よりお若く見えますね」とお世辞から始まり、更に聞きたくもなかったが、会話が途切れてしまいそうだったので、お人よしにも聞いてみた。
「ご結婚はされてるんですか?」
「前はしてました。いわゆるバツイチです。」
別れた理由は奥さんとソリが合わなかった、つまり「性格の不一致」というやつらしく、そして子供も二人いたが、彼によると今は別れた奥さんの元に子供はいるらしい。
更に、ときたま子供に会ったりするのかとか聞いてみた。
「たまにですね」と。
続けて、
「そりゃあ子供はかわいいですけどね…」と強調する。
しかし次に続けて出てきた言葉はその強調とは相反するギャップがあるものだった。
「でも、やっぱ自由はいいですよ。」と。
性格の不一致といえども彼に問題があったのか、問題ありの奥さんだったかどうかは分からない。
ただ、しみじみと今のひとりの自由な状態がいいものだということを強調していた。
話は適当に続き、周りの誰かが聞いたのか、本人からしゃべったのか忘れたが、
彼には今、彼女がいるらしい。
そしてこちらから見せてくれとも言っていないのに、おもむろに写メを取り出し、周りに見びらかした。
年齢が10歳近く離れてるらしく、顔はブスではない。が、特段、魅力的ではない。
自らあまり面識のない相手に見せびらかしたのだからよほど自信があったのだろうか。
「この娘は当たりでしたね。」と。
確かに30代後半である“オッサン”の域にある彼にしては“当たり”なのかもしれない。
しかし彼の一連の言動には、どこかに違和感がある。
それは決してねたんで言うのではない。
違和感、それは何か?
「子供はかわいい」といいながら、女の写真を見せて満足げにしている様、その醜い構図である。
「子供など顔も見たくない」と言ってくれた方が構図として、まだ醜くはない。
自分がもし彼の息子だったら、見ず知らずの女の写真を他人に見せてびらかす男に「やっぱ子供はかわいいね」などとたとえ親であれ、そんなぶざまな言われ方はされたくない。
そういう自分の醜い姿を客観的に見れない想像力の乏しさが醜いのである。
表面上、奥さんとソリが合わなかったのが別れた理由だろうが、本当はこんな風に写真を見せびらかす日常を欲していたからではないか。
彼が「やっぱりいい!」と言う『自由』というやつの正体はこんな日常だったのだろうか。
彼に限らず、大概のバツイチの男は同じように、何かの帳尻を合わせるかのごとく、一応子供はかわいいと言って見せる。
いや、彼にしたってそんなはずはなく、子供がかわいいのは本心だろうし、その気持ち以上に強い思いが自由に駆り立てられたのだろう。
ならば、彼は自由というものをしっかり捉えていないことになる。
そしてこれは彼に限ったことでなく、誰もが同じような勘違いをしているはずである。
家庭生活からの自由、それは「束縛からの自由」と言い換えてもよいでしょう。
奥さんから、子供から、あるいは親類縁者などあらゆる束縛に堪えかねてもう我慢の限界だ。実際そんな束縛もあるでしょう。
しかし少なくとも彼の場合、あの写真を見せびらかすのに何のためらいもない態度から察すると、そこまでの束縛はなかったのではないか。
もしくはそんな束縛から逃れて手に入れたかったものが、しょせんその程度のものだったとしたら、
いずれにせよ「自由」は彼にとって具体的な姿を伴い、強く求められたものでは決してなかったのだろう。
要するに、彼が求めたものは、単に自分にとって「不快なことの除去」であり、家庭というものの犠牲はいやだということである。
これが自由というものをしっかり理解していないということである。
自由を捨て、子供育てを、家庭生活をまじめにしろと説教したいのではない。
我々が口にする自由など、しょせんその程度のものしか抱けないということを感じなければ、バランスよく生けてゆけないのでないかということに集中するのである。
不快を除去した先に彼を待つものは、次の不快であるはずだから、どこまで行っても快適さには到達しない。
彼は終わりのない「不快の徹底除去」にはまり込み、
目の前の不快を除去したはいいが、何を求めているのかついにつかみきれないでいる。
それは、女の写真を見せびらかす行為そのものが、ものがたっているではないか。
不快とは何か?
不快の源は?なぜ日常において人は不快を感じやすいのか?
それは人が生まれながらに持つ「孤独」という性質がそう感じさせていると思える。
人生を振り返ったとき自分には何もなかったと思うようなことは嫌だと想像してしまうのは、誰だって同じであろう。
だから“何もなかった”という不快な感覚を恐れる。常に。
それが不快の除去へとつながってるのでないか。
確かに、死ぬ間際に知人がひとりもいないとか、自分の人生は何もなかったと想像すると、誰だって怖いはずである。
しかし、“何もなかった”という感覚を恐れるあまり、“自由”という耳触りのいいものに寄りかかってるうちは、
無事に終わった感覚が分からないだろう。
例えば、自由に操る金は持っていないが、金に操られていない人生で無事終わる。というような感覚。
子育てに追われて自分の時間がないとするか、苦労したけど子供が立派に育ってくれてまあ良しとするか。
食いつぶすか、成り就(な)らせるか。
消費か、成就か。
どっちかしか選べないなら、
あんたならどっちだ?