ディグニティなきところに集団的自衛権なし
「もしかしたら、遠く離れた中東でアメリカの代わりに日本が戦争をしなければならない」
これが「集団的自衛権」を簡単に説明したものである。
これは部分的に正しい。
使い方を間違えるとありうる話なのだと、青山繁晴氏も言う。
しかし、だからと言って憲法違反だという意見、「憲法に書いてあるからダメ。」という意見についてはどうか?
日本国憲法9条には、陸・海・空軍はおろか、その他の「戦力」を保持しないとされており、戦争を二度とさせないようにダメ押しで「国の交戦権は認めない」としている。
集団的自衛権の行使がダメだという理由がここにある。
ご存知のとおり日本には自衛隊がいる。
自衛隊は戦力でないのか?
イージス艦があり、戦闘機に乗っていても戦力ではないと言い張れる理由は?
これについては憲法の“解釈”を変えている。
「自衛隊は戦力ではない」と。自衛権は交戦権ではないと。
しかし自衛権は認めてるにもかかわらず、自衛権のひとつである集団的自衛権について今さらながら解釈改憲が必要というおかしなことになっている。
ご承知のとおり、日本国憲法の草案はアメリカ人によって書かれた。しかも10日程度で。
憲法9条というのは原案を作った当時のアメリカ人にとっては肝の部分で、「二度と日本がアメリカに刃を向けないよう完全に武装解除させる」ことに狙いがあった。
日本国憲法は平和憲法と言われるが、このことから日本のための平和というよりもアメリカの平和のために書かれたようなものである。
それなのに「憲法9条を世界遺産に」とか「憲法9条にノーベル平和賞を」とか言われてもしっくりきません。
要するに“憲法違反”というけれども言葉のレトリックであり、違反したところで何も変わらないという事実が横たわっている。
こうなれば憲法というのは正統な行動を取ろうとしたときの足かせとなってるのである。
憲法というものの本質は?
イギリスは不文憲法として知られている。文章で書かれてない。
その理由は、別に文章でしたためておかなくても、人々の中に「これはやるべきである、これはやるべきでない」という根本の常識が共通感覚や共通認識として宿ってるならば、まあまあまっとうに議論できるだとうという見地に立っている。
文章にする、しないが大事ではなく、根本の常識がどうかが大事なのだと。
憲法を持ち出して語らなくても、どこからやってきた常識でお前は語ってるのかと常に問われている訳である。
これが本質である。
「集団的自衛権」について言えば、根本の常識さえ国家にしっかり据えられていれば、それにのっとり断固として行使することもあれば、断固として行使しない場合もあってしかるべきなのである。
「集団的自衛権」を行使するか否かの判断する根拠が国家が持っていないから、賛成か反対かという議論になっている。
この国に根本の常識はないのである。
そして今の日本国憲法を変えず守ることに執着すればするほど、根本の常識が失われている悲劇から遠ざかるのです。
青山繁晴氏は日本国憲法草案に携わったアメリカ人に直接話を聞いたという。
そのアメリカ人はこう言ったという。
「いずれ日本は自主憲法を掲げて独立してゆくだろう。」と思っていたと。少なくとも自尊心や威厳(ディグニティ)を持ってるのがひとつの国家の形であるならば、日本も例外でなく、と。
「まさか何十年も憲法が改正されないなんて思ってもいなかった。」と。
根本の常識とはどこから来るのか?
理想主義から生まれるものでもなければ、設計してつくるものでもない。
西部邁氏はこういう。
「自分たちの紆余曲折を持った長い歴史の中から自ずと発せられてくる。」
これを西部氏は「伝統」と表現する。
悲しいかなアメリカは歴史が浅く、歴史にたずねてみても国家の威厳の源はない。理想や設計で形づくらざるを得ない。
天皇をはじめとする日本の伝統が大事だというのは実はこういうことと関係ががある。
京都のお寺を守ることだけが伝統主義ではない。
「憲法9条を世界遺産に」とか「憲法9条にノーベル平和賞を」とかのセリフを本気で発しているといつかよそから軽蔑されるはずです。
これが「集団的自衛権」を簡単に説明したものである。
これは部分的に正しい。
使い方を間違えるとありうる話なのだと、青山繁晴氏も言う。
しかし、だからと言って憲法違反だという意見、「憲法に書いてあるからダメ。」という意見についてはどうか?
日本国憲法9条には、陸・海・空軍はおろか、その他の「戦力」を保持しないとされており、戦争を二度とさせないようにダメ押しで「国の交戦権は認めない」としている。
集団的自衛権の行使がダメだという理由がここにある。
ご存知のとおり日本には自衛隊がいる。
自衛隊は戦力でないのか?
イージス艦があり、戦闘機に乗っていても戦力ではないと言い張れる理由は?
これについては憲法の“解釈”を変えている。
「自衛隊は戦力ではない」と。自衛権は交戦権ではないと。
しかし自衛権は認めてるにもかかわらず、自衛権のひとつである集団的自衛権について今さらながら解釈改憲が必要というおかしなことになっている。
ご承知のとおり、日本国憲法の草案はアメリカ人によって書かれた。しかも10日程度で。
憲法9条というのは原案を作った当時のアメリカ人にとっては肝の部分で、「二度と日本がアメリカに刃を向けないよう完全に武装解除させる」ことに狙いがあった。
日本国憲法は平和憲法と言われるが、このことから日本のための平和というよりもアメリカの平和のために書かれたようなものである。
それなのに「憲法9条を世界遺産に」とか「憲法9条にノーベル平和賞を」とか言われてもしっくりきません。
要するに“憲法違反”というけれども言葉のレトリックであり、違反したところで何も変わらないという事実が横たわっている。
こうなれば憲法というのは正統な行動を取ろうとしたときの足かせとなってるのである。
憲法というものの本質は?
イギリスは不文憲法として知られている。文章で書かれてない。
その理由は、別に文章でしたためておかなくても、人々の中に「これはやるべきである、これはやるべきでない」という根本の常識が共通感覚や共通認識として宿ってるならば、まあまあまっとうに議論できるだとうという見地に立っている。
文章にする、しないが大事ではなく、根本の常識がどうかが大事なのだと。
憲法を持ち出して語らなくても、どこからやってきた常識でお前は語ってるのかと常に問われている訳である。
これが本質である。
「集団的自衛権」について言えば、根本の常識さえ国家にしっかり据えられていれば、それにのっとり断固として行使することもあれば、断固として行使しない場合もあってしかるべきなのである。
「集団的自衛権」を行使するか否かの判断する根拠が国家が持っていないから、賛成か反対かという議論になっている。
この国に根本の常識はないのである。
そして今の日本国憲法を変えず守ることに執着すればするほど、根本の常識が失われている悲劇から遠ざかるのです。
青山繁晴氏は日本国憲法草案に携わったアメリカ人に直接話を聞いたという。
そのアメリカ人はこう言ったという。
「いずれ日本は自主憲法を掲げて独立してゆくだろう。」と思っていたと。少なくとも自尊心や威厳(ディグニティ)を持ってるのがひとつの国家の形であるならば、日本も例外でなく、と。
「まさか何十年も憲法が改正されないなんて思ってもいなかった。」と。
根本の常識とはどこから来るのか?
理想主義から生まれるものでもなければ、設計してつくるものでもない。
西部邁氏はこういう。
「自分たちの紆余曲折を持った長い歴史の中から自ずと発せられてくる。」
これを西部氏は「伝統」と表現する。
悲しいかなアメリカは歴史が浅く、歴史にたずねてみても国家の威厳の源はない。理想や設計で形づくらざるを得ない。
天皇をはじめとする日本の伝統が大事だというのは実はこういうことと関係ががある。
京都のお寺を守ることだけが伝統主義ではない。
「憲法9条を世界遺産に」とか「憲法9条にノーベル平和賞を」とかのセリフを本気で発しているといつかよそから軽蔑されるはずです。