「異端児、常識を疑う」 -6ページ目

次回コラムは11月公開予定

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中心なき組織は機能しない

ヤクルトスワローズが14年ぶりのリーグ優勝を果たした。
戦後7度目の優勝になるが、巨人が30回以上も優勝を経験してることからいかに希少なことかがうかがえる。

しかし、ヤクルト球団7回の優勝の内、4回は1990年代に成し遂げられていた。
1990年代、それは即ち、野村ヤクルト時代のことでありヤクルトの黄金時代である。
ちなみに巨人の1990年代といえば長嶋監督時代で、野村の4度の優勝に対し、3度で終わっている。

ということで、ヤクルトスワローズといえばやはり野村克也氏、ノムさんを抜きには語れない。

今回優勝を果たした真中監督も現役時は野村時代の選手で、そのDNAは確実に受け継がれているはずである。
ノムさんというのはチーム運営においてミーティングに最も時間を割いた監督として有名で、真中氏も選手当時にミーティングで記録したノート、つまり野村の教えを読み返してるといっている。

数日前、ノムさんは今年の弱い巨人を指してこう評した。
「巨人はダメ、中心なき組織は機能しない」と。

「中心なき組織は機能しない」
この言葉はノムさんが楽天監督時代に著した「エースの品格」や「弱者の兵法」を始め常に持論として語っている。

では今年のヤクルトはどうだったろうか。

ご存知の通り、打撃陣は川端、山田が出塁し、畠山が返すという、2,3,4番が機能していた。
こういう主軸がしっかり機能した球団は巨人も阪神より数段上回っていたのは明らかである

投手陣は打線に比べ物足りないが、エース石川を中心に、小川、ケガから復帰した館山が機能した。

そして何より、キャッチャーの中村がセリーグ捕手の中で最も試合数をこなして好調なチームを支え、正に中心として機能したことが大きい。
このことから他球団の捕手は今年どこも中心として機能しなかったといっていい。

と、ここまで野球談義になったが、ノムさんの「中心なき組織は機能しない」という持論は、選手の成績や能力のことだけを言っているのではないことを強調したい。
中心となる選手というのは成績はさることながら、他の選手や若手に影響を与え、選手としてチームの鑑(かがみ)とならねばならない、それが中心として機能することと言っている。

中心は理屈で納得して推される場合と、影響を与えること、鑑となることといった、人間の感情にゆだねられる場合とあるが、この感情に届くことがチームや集団が機能するということと学び取れる。

たとえ家族といった集団でさえも機能するには、このことと無関係ではない。

例えば、主人が稼いでいるからこの家族の中心と思っていたら、奥様から給料を運ぶだけの存在と思われているといったケースはよく聞くが、それは家族集団として機能していないことになる。
そこには家族内の感情というものが、忙しさなのか、面倒くさいからか、きっとどこかに置き去りにされているはずである。
打ってチームに貢献した、だけでは機能しないことと同じ理屈だろう。

個人が個人として頑張ることは簡単だが、集団で物事を成し遂げてゆくことがいかに難しいことか、それを持論としているノムさんはやはり一流である。

最後にノムさんの監督としての成績を紹介したい。

「1565勝、1563敗、76引分」

これが一流と呼ばれる勝敗の数字である。

人生勝負はトントン、それが一流なのである。

勝敗にいかに負けないことが大事か。
だが、負けないようには勝ち越さなければならない。

一匹と九十九匹と

必要とされる人間になりたくないか問われている。
会社人としてである。
会社勤めの人間なら誰だって常につきまとわれる問いにちがいない。

片や、家庭人として必要とされる人間になりたくないかというのは会社人のそれとは少々異なる。
多少の出来損ないでも、否応もなく子供やかみさんからは期待されざるを得ず、必要とされるというよりしっかりしてもらわねば困るのですから。

いずれにせよ、必要とされることは大事ではある。
が、必要とされるかどうかにこだわりすぎる、あるいは必要とされることが人生観のなかに組み込まれていることに気づかないのは危険である。

これが「現実の力」というものです。

会社は必要とする人間以外に給料を支払う意味はないし、会社人はそれに必ず応えなければならない。
本当はもしかしたら、あなたでなくても他にいくらでも代わりはいるし、真に必要とされる局面などないのが事実かもしれない。
そう思うことは本当におそろしい。それを覆い隠そうとしているだけかもしれない。

ここで見つめなければならないのは「自我の空虚さ」になる。
そして自我の空虚さの背後には社会に対する自己の劣等意識がある。

現代では、この劣等意識を持った自己が社会との距離をどうとろうとするか。
この距離のとり方が下手というか、間違ってるというか、全てはここに問題がある。

「一匹と九十九匹と」で福田恆存はこのように言っている。
「かうしてひとびとはぼくたちのひとりひとりが善良なる社会人であるという想定のもとに、いや、さういう強要のもとに現実の苦難を切り抜けようとしてゐるかにみえる。」

確かに現実を乗り切る苦肉の策かもしれない。
善良な社会人としての役割を演じるしか自我の空虚さを埋め合わせする術がない悲しきいき者かもしれない。

しかし、立ち戻るべきところはやはり自我の空虚さにありはしないか。

決してペシミスト(悲観論者)の嘆きとしてでなく。

自我の空虚さの中に無理矢理に社会正義やら合目的性やら埋め合わせする何かを放り込んで、自意識というものが単に他人に見せるためだけのものに成り下がっていはしないか。

「人間・この劇的なるもの」ではこのように言っている。
「他人を見る自分と、他人に見られる自分と。…しかし自我は自分と他人という相対的平面のほかに、その両者を含めて、自他を超えた絶対の世界とかかわりをもっているのである。」と。

未知の暗黒にとりかこまれていればこそ、自我は枠を持ち、確立しうる。
そこにこそ自我の空虚さを満たせるものがあるのでないか。

誰に広島・長崎を伝えねばならないのか

最近はギャルが戦争反対のデモをやるもんで、何とも似つかわしくない。

「ギャル」とは小ばかにして言ってるのでなく、ご本人が“ギャル”と称していたからだが、はっきり言おう、デモ隊が言う戦争反対は結局テレビ映像であり、脚色された「平和」のイメージでしかない。

爆弾を落とすだけが戦争でなくて、今はすっかりそれこそテレビ映像からは消えうせさられた尖閣の漁師が、中国船の脅威で漁業ができない緊張状態も戦争の一歩手前なのであります。
漁師が生活のため決死の魚釣りに行く背中に向かって「戦争反対」なんて言ってられますか?

そしてどこで聞きかじったか知りませんが、集団的自衛権で自衛隊が戦闘するのは憲法違反と彼らは言います。

もうひとつ例を出すと、北朝鮮に拉致された人が未だ帰ってこれてません。
普通、自分の子供が拉致されてるのが分かったら武力行使してでも取り返そうとするのが人情でしょう。
武力を行使する場面というのは、法律にあってるか、ルールに則ってるか、その議論以前にそれは正義に反してるから武力行使も辞さない、という正義の議論が必要なのです。

これは国会でも同じです。
合憲か違憲か、そこが論点になってます。
だから、集団的自衛権の話は憲法解釈の話ばかりで、いっこうに尖閣や北朝鮮の話は出てこないのです。

戦争の悲惨さは忘れてはならないのは当たり前ですが、それでもやらねばならない時のために、正義を貫くには武力は持っておくべきかどうか、あるいはアメリカが仕掛けたこの戦争に我が国は行くべきかどうか、それが正義の議論というものなのです。
憲法違反だから行けないという議論はもうやめたほうがいいです。

結局、戦争という非常事態の話を憲法に問い合わせてる時点で、架空の話をしてるに過ぎないということを、デモでうったえねばならないことでないでしょうか。

すると日本では、戦争ができるということは、広島・長崎のような悲惨なことをもう一度起こってもよしとする、という文脈にどうしても結び付けられてしまいます。
核保有、核廃絶の議論です。

広島・長崎の話は被爆症で亡くなった人や語り部の人たちの話、写真、絵図などでその悲惨な状況は少なくとも知っている。

アメリカが原爆を投下した理由はこれまで日本がしぶとかったから戦争を終わらせるためだとか、本土決戦になったら広島15万人、長崎8万人の十倍の民間人が亡くなることになっていたから最小限の犠牲で済んだとかが一般的だったが、最近は人体実験だったという話もある。

これは定かではないものの、しかし戦争の歴史は「核」とはいかなるものかをしっかりと示している。

戦後、アメリカが仕掛けた戦争に、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争とたくさんある。
しかし、いずれの戦争にも核爆弾は使用されていない。どの戦争もアメリカの失敗に終わったにもかかわらず。

これは何を示しているのだろうか?

理由は簡単で、核はさすがに「ヤバい」ぞ、と。

これを核の抑止力という。
核保有によって核戦争の抑止が効いているということである。

現に核を保有している国はアメリカに“大事”にされている。
北朝鮮に強く出れないものこの理由からである。

今まで核は数トンの大きさしか製造できず、持ち運びは容易ではなかったものが、核の小型化が進んでいる。
人が持ち運べる大きさにまで革新したのである。

こういった各国の軍備情勢の中で広島・長崎のむごさを誰に伝えねばらないのだろうか?

日本の小学生に伝えるのは大事ですが、もう少し考えてみると、やはりテロリストたちです。
核爆弾を人が持ち運べるのであるならば、自爆テロの被害範囲が格段に広がるはずです。

また、福島の原発事故の件で、核攻撃をしなくても原発をメルトダウンさせれば被害を出せることも分かっています。

彼らは死ぬことを恐れてない、悲惨さを教えなければならないのは、正にテロリストたちなのです。

平和を願うのは当然ですが、広島平和記念公園の映像だけでは何かが足りないのが現実なのです。

マックスウェーバー

最近、仕事をやめたい、仕事が続かない、働く気が起こらない、仕事をやめたくなくなる方法はないかといったお問い合わせをたくさんいただく。

理由は何だろう。

人間関係、安月給、過酷な労働、意欲の問題などなど。

これに対し、「お金を得るためには仕事は仕事として割り切れ」だとか自己啓発で自分の意識を変えてゆくことなどは気休めにしかならない。

なぜか?

結論から言うと、それは解決すべきものでなく、解決しようのないもので、むしろ悩むべき点は別のところにあるのでないだろうか。

我々には忘れ去られていることがある。

その人にとっての仕事、職務に対する意識とはどういう歴史をたどって今に至っているかということ。
仕事、職務というものの性格を実は分かってるようで分かっていない。

普通職業人であれば、仕事、職務というものに対する誇り、価値観はそのひとそのひとで持っている。
そして生活の中で重要なものであることもわかっている。

それでもその誇りや価値観を持つ本当の理由とか、生活の中で重要となっている背景とかまで意識はしない。
マックスウェーバーの考察に乗じて言うなら、資本主義の根底をなすものは何かまで意識はしていないのである。

どういうことか?

最近ではあるが、仕事、職務に対して「使命」という言葉で自己表現する人が多い。
言いたいことは分かるが、自分を仕事、職務に没入させて個人的な感情をできる限り排除し全うしようとする姿勢だろう。

サラリーマン的に「お客様のことを最優先に考えてことにあたる」と言った方が分かりやすいだろう。

当人でもお分かりのことであるが「使命」というと、どこか禁欲的でストイックさを後ろ盾に持っている必要がある。
そこの点において職業人は誇り、価値観を生み出しているのでないだろうか。

このことは批判的に言ってるのではない。

では、この「使命」を帯びた職業人で組織された集団、つまり会社とはいかなる組織体をなすと考えればよいだろうか。

マックスウェーバーの「プロ倫」をひもとくと、
「使命」という感情面を排除して内面的に孤立化した“個人”がどうして近代的に“組織”をなすことができたのかという問いにぶつかる。
その答えは、感情面で組織が作られるわけではなく、集団としての目標は功利主義的な効率性を重視した組織になるのだと。

少し噛み砕くと数学的、物理学的に計算できるもので社会に貢献する目標をもった組織。

更に噛み砕くと能力主義、業績主義、科学礼賛主義といったところか。

これをマックスウェーバーは資本主義精神の結晶として説明しているが、
資本主義精神は、こういう個人のモデルを生み、組織されてゆく中で、仕事をやめたい、仕事が続かない、働く気が起こらないと悩むこと自体が少し馬鹿馬鹿しくならないか。