誰に広島・長崎を伝えねばならないのか
最近はギャルが戦争反対のデモをやるもんで、何とも似つかわしくない。
「ギャル」とは小ばかにして言ってるのでなく、ご本人が“ギャル”と称していたからだが、はっきり言おう、デモ隊が言う戦争反対は結局テレビ映像であり、脚色された「平和」のイメージでしかない。
爆弾を落とすだけが戦争でなくて、今はすっかりそれこそテレビ映像からは消えうせさられた尖閣の漁師が、中国船の脅威で漁業ができない緊張状態も戦争の一歩手前なのであります。
漁師が生活のため決死の魚釣りに行く背中に向かって「戦争反対」なんて言ってられますか?
そしてどこで聞きかじったか知りませんが、集団的自衛権で自衛隊が戦闘するのは憲法違反と彼らは言います。
もうひとつ例を出すと、北朝鮮に拉致された人が未だ帰ってこれてません。
普通、自分の子供が拉致されてるのが分かったら武力行使してでも取り返そうとするのが人情でしょう。
武力を行使する場面というのは、法律にあってるか、ルールに則ってるか、その議論以前にそれは正義に反してるから武力行使も辞さない、という正義の議論が必要なのです。
これは国会でも同じです。
合憲か違憲か、そこが論点になってます。
だから、集団的自衛権の話は憲法解釈の話ばかりで、いっこうに尖閣や北朝鮮の話は出てこないのです。
戦争の悲惨さは忘れてはならないのは当たり前ですが、それでもやらねばならない時のために、正義を貫くには武力は持っておくべきかどうか、あるいはアメリカが仕掛けたこの戦争に我が国は行くべきかどうか、それが正義の議論というものなのです。
憲法違反だから行けないという議論はもうやめたほうがいいです。
結局、戦争という非常事態の話を憲法に問い合わせてる時点で、架空の話をしてるに過ぎないということを、デモでうったえねばならないことでないでしょうか。
すると日本では、戦争ができるということは、広島・長崎のような悲惨なことをもう一度起こってもよしとする、という文脈にどうしても結び付けられてしまいます。
核保有、核廃絶の議論です。
広島・長崎の話は被爆症で亡くなった人や語り部の人たちの話、写真、絵図などでその悲惨な状況は少なくとも知っている。
アメリカが原爆を投下した理由はこれまで日本がしぶとかったから戦争を終わらせるためだとか、本土決戦になったら広島15万人、長崎8万人の十倍の民間人が亡くなることになっていたから最小限の犠牲で済んだとかが一般的だったが、最近は人体実験だったという話もある。
これは定かではないものの、しかし戦争の歴史は「核」とはいかなるものかをしっかりと示している。
戦後、アメリカが仕掛けた戦争に、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争とたくさんある。
しかし、いずれの戦争にも核爆弾は使用されていない。どの戦争もアメリカの失敗に終わったにもかかわらず。
これは何を示しているのだろうか?
理由は簡単で、核はさすがに「ヤバい」ぞ、と。
これを核の抑止力という。
核保有によって核戦争の抑止が効いているということである。
現に核を保有している国はアメリカに“大事”にされている。
北朝鮮に強く出れないものこの理由からである。
今まで核は数トンの大きさしか製造できず、持ち運びは容易ではなかったものが、核の小型化が進んでいる。
人が持ち運べる大きさにまで革新したのである。
こういった各国の軍備情勢の中で広島・長崎のむごさを誰に伝えねばらないのだろうか?
日本の小学生に伝えるのは大事ですが、もう少し考えてみると、やはりテロリストたちです。
核爆弾を人が持ち運べるのであるならば、自爆テロの被害範囲が格段に広がるはずです。
また、福島の原発事故の件で、核攻撃をしなくても原発をメルトダウンさせれば被害を出せることも分かっています。
彼らは死ぬことを恐れてない、悲惨さを教えなければならないのは、正にテロリストたちなのです。
平和を願うのは当然ですが、広島平和記念公園の映像だけでは何かが足りないのが現実なのです。
「ギャル」とは小ばかにして言ってるのでなく、ご本人が“ギャル”と称していたからだが、はっきり言おう、デモ隊が言う戦争反対は結局テレビ映像であり、脚色された「平和」のイメージでしかない。
爆弾を落とすだけが戦争でなくて、今はすっかりそれこそテレビ映像からは消えうせさられた尖閣の漁師が、中国船の脅威で漁業ができない緊張状態も戦争の一歩手前なのであります。
漁師が生活のため決死の魚釣りに行く背中に向かって「戦争反対」なんて言ってられますか?
そしてどこで聞きかじったか知りませんが、集団的自衛権で自衛隊が戦闘するのは憲法違反と彼らは言います。
もうひとつ例を出すと、北朝鮮に拉致された人が未だ帰ってこれてません。
普通、自分の子供が拉致されてるのが分かったら武力行使してでも取り返そうとするのが人情でしょう。
武力を行使する場面というのは、法律にあってるか、ルールに則ってるか、その議論以前にそれは正義に反してるから武力行使も辞さない、という正義の議論が必要なのです。
これは国会でも同じです。
合憲か違憲か、そこが論点になってます。
だから、集団的自衛権の話は憲法解釈の話ばかりで、いっこうに尖閣や北朝鮮の話は出てこないのです。
戦争の悲惨さは忘れてはならないのは当たり前ですが、それでもやらねばならない時のために、正義を貫くには武力は持っておくべきかどうか、あるいはアメリカが仕掛けたこの戦争に我が国は行くべきかどうか、それが正義の議論というものなのです。
憲法違反だから行けないという議論はもうやめたほうがいいです。
結局、戦争という非常事態の話を憲法に問い合わせてる時点で、架空の話をしてるに過ぎないということを、デモでうったえねばならないことでないでしょうか。
すると日本では、戦争ができるということは、広島・長崎のような悲惨なことをもう一度起こってもよしとする、という文脈にどうしても結び付けられてしまいます。
核保有、核廃絶の議論です。
広島・長崎の話は被爆症で亡くなった人や語り部の人たちの話、写真、絵図などでその悲惨な状況は少なくとも知っている。
アメリカが原爆を投下した理由はこれまで日本がしぶとかったから戦争を終わらせるためだとか、本土決戦になったら広島15万人、長崎8万人の十倍の民間人が亡くなることになっていたから最小限の犠牲で済んだとかが一般的だったが、最近は人体実験だったという話もある。
これは定かではないものの、しかし戦争の歴史は「核」とはいかなるものかをしっかりと示している。
戦後、アメリカが仕掛けた戦争に、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争とたくさんある。
しかし、いずれの戦争にも核爆弾は使用されていない。どの戦争もアメリカの失敗に終わったにもかかわらず。
これは何を示しているのだろうか?
理由は簡単で、核はさすがに「ヤバい」ぞ、と。
これを核の抑止力という。
核保有によって核戦争の抑止が効いているということである。
現に核を保有している国はアメリカに“大事”にされている。
北朝鮮に強く出れないものこの理由からである。
今まで核は数トンの大きさしか製造できず、持ち運びは容易ではなかったものが、核の小型化が進んでいる。
人が持ち運べる大きさにまで革新したのである。
こういった各国の軍備情勢の中で広島・長崎のむごさを誰に伝えねばらないのだろうか?
日本の小学生に伝えるのは大事ですが、もう少し考えてみると、やはりテロリストたちです。
核爆弾を人が持ち運べるのであるならば、自爆テロの被害範囲が格段に広がるはずです。
また、福島の原発事故の件で、核攻撃をしなくても原発をメルトダウンさせれば被害を出せることも分かっています。
彼らは死ぬことを恐れてない、悲惨さを教えなければならないのは、正にテロリストたちなのです。
平和を願うのは当然ですが、広島平和記念公園の映像だけでは何かが足りないのが現実なのです。