自由と平等を否定したあとに出てくるもの
人間を外見と内面のどちらで判断するべきか?
おそらく内面と答える人が多いかと思います。
その理由は人は見かけによらないからでしょう。
例えば、身だしなみは気を使わないけど人にはやさしかったり、特別な才能をもっていたりと。
またこれとは逆に見た目は美しいが性格が醜いとかです。
だから外見だけに騙されないようにしようとします。
けれどもこんなケースもあります。
人に対しとてもやさしく接してくるのだが、実は別の目的、例えば結婚詐欺をはたらく人だっています。
また、常に身だしなみは完璧だが、冷徹な人で気軽になじめなさそうな人。しかし核心の部分は芯の通った人で実は信頼できる人だったってこともあります。
これらは人の内面に騙されたと言えます。
現代社会は複雑で、人と人のつながりが希薄で距離が遠いため、本来はその人の外見や人相から心を読み取る力が鍛えられなくなっているからこのようなことが起こるのだと思います。
美・醜の話になりますが、つまるところ人相や表情がすべてを語るということを忘れてはいけません。
「美」というものはあいまいなものではなく、形こそがすべてです。形と中身(内容)は完全一致しているものです。
例えば造形美でいうと、形が美しい茶碗は内容がつまらないといったことはなく、逆に形がまずいが内容はすばらしい茶碗などありえません。
人間もしかりで、生半可な観念や知識にひきずられることなく、じかにものを見る習慣が身についていれば、茶碗と同様に人間もまたこの眼に単なるものの「形」として映ってくるはずなのです。
これは単に抽象論をしゃべっているのではなく、つまり他人と接触するにあたり、自分の美意識と感覚のみが頼りになるのであって、自分もまた自分の外形を通じてしか他人に受け入れられないという、いわば覚悟が必要になるということです。
大変厳しい理屈ですが、もう一歩究極的に話せば、人間の外見という形を含め世の中にはどうにもならないことがあるということです。
しかもこのどうにもならないことが、どうでもいい場面でちょっと顔を見せるのではなく、人生の大事な場面に現れます。
更にもう一歩深く言えば、色々努力したあげく自分の力ではもうだめだと限界点に達するといったことはなく、私たちはこの限界点をはじめから背負わされて出発せざるを得ないということです。
そしてこれらのことが意味することは人間には最初から「自由」や「平等」といったものはない、ということです。
福田恆存氏は言う。「自由や平等は信じない」、「人間が自由や平等だというのは嘘だ」と。
しかし、こうも付け加えています。
自由や平等を否定したあとに出てくるものはある、と。
それについては次章でお話することとして、「自由」や「平等」は虚偽だということから話は始めねばなりません。
核の傘
安倍首相が核の先制不使用に反対する理由は「核の傘」の抑止力が下がるからだと言う。
日本はアメリカの核の影響力があってこそ、その安全が保障されるという理論である。
これに保守系の人々はオバマ氏の発言は北朝鮮を調子に乗らせるだけだと安部首相の姿勢をおおむね支持しています。
ここで問題は「核の傘」が本当に効力を持っているかということになります。
もし日本が侵略国家から核のファーストアタック(先制攻撃)を受けた場合、核の傘としてアメリカがセカンドアタック(報復攻撃)をしてくれるだろうか。
それはかなり難しいのではないか。
セカンドアタックを仕掛けたアメリカは、侵略国家から今度はサードアタックを自国が受けて、アメリカの国民に大きな被害が及ぶと推測した場合、例え日米同盟があっても本当にセカンドアタックへと踏み切れるかどうかは断定できない。
そう簡単に「核の傘」で守られてるという理論はなりたたなくなるのである。
では、オバマ氏の核の先制不使用宣言は正しい道筋なのだろうか。
朝日新聞をはじめ、左派系の方々は安倍首相の姿勢を批判し、オバマ大統領が掲げる核の先制不使用宣言を後押しして評価している。
ここで核を持たない日本の姿勢が核のない世界への道筋だとする理論が果たして有効か、という問題になる。
唯一の被爆国である日本では、広島・長崎の悲劇を繰り返さないことと核廃絶とがつながっていると説明され、それは我々が小さい頃から教えられてるため、おおむね心情的に利にかなってるように多くの人が思うのではないだろうか。
しかしその次に考えねばならないのは、またしてももし日本が侵略国家から核のファーストアタックを受けた場合のことである。
当たり前だが、広島・長崎の悲劇は繰り返されることになる。
その時、核を持たない日本はどう対処するだろうか。核攻撃はできないが別の兵器でセカンドアタックをするか、甚大な被害にじっと耐えるしかない。まるでガンジーのように。
そう考えるとやはり核廃絶をとなえる人々も「核の傘」へと考えをシフトせざるを得なくなるのです。
ここで言いたいのは左派系の方々が言う「核のない世界」は空想的で、保守系の
方々が言う「核の傘」は非現実的ということです。
もちろん「核のない世界」は理想なのだが、反面「核のある世界」という現実の重さを十分に考えねばならないときに来ているともいえるのではないでしょうか。
つまり、核を保有するけれども先制攻撃には絶対に使用しないというような態度、「核」の取り扱いには十分な議論がなされている姿勢を表わすことが、国家間の勢力図の適切な位置に日本を配置することになるのでないでしょうか。
しかし先制攻撃には絶対に使用しないということは、報復には使用するということです。
言い換えれば、侵略国家から核のファーストアタックを受けた場合、多くの国民が甚大な被害を受けつつも、核のセカンドアタックに踏み切るという、それにはいったいどれくらいの精神力がいることかを今一番最初に考えねばならないところまで来ているのかもしれません。
そこから核抑止の議論の第一歩が始まるはずです。
ティラニー・オブ・マジョリティ(多数派の専制)
しかし、上位三者に大きく差がついたものの得票数の順位で四位は上杉隆氏、五位は桜井誠氏、更に八位に立花孝志氏とこの点は興味深い結果であった。
それはともかく選挙演説のスローガンには少なくとも上位三者とも「待機児童問題」が必ず含まれていた。
理由は簡単で、待機児童が問題であるかは別にこの問題に関心があるのは子供を持つ親であり、ひとつの問題提起でお父さんお母さんの2票を効率よく票が集まるからだったのでしょう。
その真偽はともかく、この「待機児童問題」、実に不思議であると昭和生まれの人は誰もが思っているはず。
それはこんな話でお分かりでしょう。
確か自分が子供だった頃の昭和の五十年前後頃だと、母親が働きに出てるため子供が自宅の鍵を持っているのは「カギっ子」と呼ばれある種蔑まれていた。
実際自分はそうだったので、近所のメガネをかけた白髪のオバハンに「カギっ子」とうわさされてるのを聞いたことがある。
要は事情はどうであれ、母親が働きに出るのは人目をはばかられることというのが一般的だったのです。
これはどういうことでしょう?時代が進歩したからでしょうか。女性はしんどい思いをして働かなくちゃいけなくなったのが進歩したことになるのでしょうか?
お母ちゃんは働くなと言いたいのではない。
進歩どころか事態は悪化してるのに、「女性に働く“権利”を」、とか大義名分をつけられて、しまいには「待機児童問題」として人目をはばかられることがいつしか表舞台に立っている。
つまり「待機児童問題」を叫ぶ人たちは、少数派のときはおとなしかったのに、多数派となった今、皆で元気よく社会や政治に「権利」をよこせと言うことが正しいことだと思うようになったのです。
「カギっ子」と馬鹿にされたことをひがんでるのではない。
結局、世の中というのは、多数派にいつも流れるもので、少数派に正しさがあったとしても、少々居心地は悪くても多数派に正義があるのだと思うものなのです。
この点で、「待機児童問題」をいかにも正しい主張のように叫ぶ人たちは信用できない。
ここまでくると大人たちの「待機児童問題」とは、実は子供がかわいそうというよりも親たちの家庭運営の便宜が悪いから問題にしてるだけであって、むしろ「共稼ぎできない問題」とした方がよろしいかもしれない。
家庭とは便宜的なものでも、手段でもない。
少しでも便宜的に共稼ぎで将来に備えたというのは分かります。
しかし、家庭とはそういった手段としてみなすものではない。
家庭とは?
家庭とは社会全体のいわば最小単位であり、最小にしてもっとも純粋な形態であるわけで、そこにあるもの、あらねばならないものは何でしょうか。
ここに「家庭とは便宜的でないのならいったい何なのか」の答えがあるのです。
センチメンタリズム
アイドル研究者と言えば分かりやすい。
当時、おニャン子クラブの批評などをテレビでやっていてこの人を知ったが、何か気持ち悪い部類の人と見てて、あまり気に入らない感じがしていた。
ところが何と、この人が西部邁ゼミナールにゲスト出演したのである。
理由は「西部邁」が好きなんだと。「西部邁」がカッコいいと見ていたんだと。
中森氏は西部邁氏の何に感動したのか?
西部邁氏が20歳の頃、演説でこういっていたと言う。
「この世のあらゆるイズムを否定する。だが、たっとひとつを除いて。センチメンタリズムだ!」と。
センチメンタリズムとは、感情をよりどころにすることで、人間の理性や意志はひとまず疑う姿勢といえるだろう。
西部邁氏が否定するあらゆるイズムとは何か?
平和主義、民主主義、進歩主義、ヒューマニズムである。
平和は、負けて静かになること、
民主は、愚論が罷り通ること、
進歩は、新しいものにはむやみにとびつくこと、
ヒューマニズムは、人間へのオベンチャラを述べること、
そう語っている。
では何故これらのイズムを西部邁氏は気に入らないというのだろうか。
ゼミナールで、西部氏と中森氏は現代の、特に若者の「力」のなさについて非常に重要な指摘をしていた。
それはお二人が同じく愛してやまない「福田恆存」の言葉を用いて説明された。
福田恆存氏の最も重要な指摘のひとつで、人間にとって「自由が大事でない」というフレーズがある。
「自由によってひとは決して幸福になりえない」と付け加えられて。
人はそれぞれ、生まれた環境、社会的立ち位置、職業などなど、宿命的に当てられ運命を与えられてしまうもので、
それはある種、演劇の役柄のように与えられるものである。
しかし、その運命というものに遭遇して、自由とは何かと考えるのであるが、
その自分は宿命的にどういう状態に置かれてるかを分かった上で、宿命、運命を生き抜くときに本当の「力」が生まれてくるのだという。
若者を含め、現代人が陥ってる病理は、自由とは何か知ろうとする努力もしないことで、それゆえに何を表現しても「力」を感じられないのでないだろうか。
これはもはや時代のせいではなく、若者の活力がない理由に、「この国が豊かだから」は理由にならない。
センチメンタリズム以外は信じない理由、それはどんなイズムも力を感じられないからである。