「技術知」そして「実践知」
そういう立場にいるので仕方がないので、専門家から説明を受けたのだが、何とも複雑な回答をされた。
が、よくよく自分で調べてみると大して難しい内容ではなく、むしろ難しく見える専門用語をさらに専門用語で覆い被せたりして、わざと難しく見せてるかのような内容であったので、Windowsパソコンの詳しい知識を得られた納得感より、ITというものに対するいかがわしさだけが増して終わりとなった。
こういうことを"知ってる"人が「技術者」なり「専門家」と呼ばれるが、「技術」とは、結局知ってるか知らないかの違いに集約され、そこには価値の基準や思想的なものは含まれてこない。
知っている者のみが、具体的に行動をとれるという世界をつくりだすのに、この情報を情報でオブラートするのは好都合なのであろう。
その意味において世の中では、情報をうまく選択して、それを有用な知識として生かすことができる人がお金を儲けられると言っても過言ではないでしょう。
マネーゲームがいい例である。どこの株が儲かるというような「情報」にこそ価値が置かれる。しかしその「情報」には簡単にはたどり着けないという具合に。
情報というのは氾濫している。
が、それゆえ、適切な情報は探しにくいものになっている。そして情報とはそういう性質に相性がよいのものなのだろう。
情報に対する熾烈な収集争いは続いてゆく。
そしてそれに敗れて「情報格差」というものが登場するわけです。
情報をいかに集めるか、いかに適切な情報として身につけるかという休みなき運動より、大事なものは情報の価値性ではないか。
マネーゲームに必要な情報は大事かもしれないが、それ以上に、情報の価値性はどうか?という問いは大事というよりも逃れられないはずである。
なぜなら、情報の価値性を失った社会はすでに死んだも同然だからである。
では情報の価値性とは何か?
知識には2種類あるとマイケル・オークショットが言っています。
「技術知」そして「実践知」だと。
「技術知」は人間の知識の一部に過ぎないです。
しかし「実践知」とは、“人間の行為の目的にかんする(暗黙の)知識も含まれている”ということ。
たとえば、手の込んだ料理法を年寄りが若者に伝えるという実践のなかで、健全な家庭や愉快な社交の場を保持するという目的がおのずと示されてくる。(思想の英雄たちから引用)
手の込んだ料理法のようにその先の目的の価値まで示されるものでなければ、いかなる高度な技術情報だろうが、投資情報だろうが、いずれ人間世界のすべての証明できるという錯覚を起こしてしまうのです。
「技術知」だけで世の中は渡っていける、説明が付くという欺瞞に陥ってはダメなのです。
最後にこういう批判が差し向けられるかもしれない。
知ってるか知らないかのだけの差だろうが、それで得するなら、金が儲かるなら、それはそれでよいではないか。
そういう一見ポジティブに見えて、核心部分はニヒリズムな考え方、生き方を受け入れる姿勢である。
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自分は、嫌いである。
人間を非常に単純なものとして解釈している姿勢だからである。
人間とは食って、寝て、稼いで、時には名声を得て、幸せになるのだという、単純に思い描ける「像」には簡単に当てはまらないからである。
死に様
『もちろん世界中がしあわせになれればいいけど、どうやら僕たちは増え過ぎた』
二十数年前にもなるが、こんな歌詞の歌がありました。BLANKEY JET CITYというバンドの「鉄の月」という歌です。
戦場での殺し合いで兵士が途方に暮れて彼が思ったのは、結局のところ人々のいがみ合うのは人が増えすぎたからなんだ、人が多すぎて食べ物も土地も取り合いになるし戦争にもなるんだという、シニカルで虚無的な解釈です。
それまでは「戦争反対」や「平和で行こうよ」というのが、ロック歌手っぽさを演出するための常套句であったが、観衆受けする偽善的なセリフではなく、
「戦争すらやむを得ないのではないか?」、「平和が成立することはあるのか?」、あるいは自虐的に「どうやらオレたちは増えすぎたんじゃないのか?」という懐疑をロック歌手に限らず、言え得る者はほとんどいなかった。
なぜなら、この問いはもしかしたら、「オレたちの中に無駄に生まれてきた者がいるのでないか?」と皆に降りかかってくる、誰もが避けたくなる命題を含んでいるからである。
しかし人が増えすぎたことは事実で、例えばヨーロッパの人口は6世紀頃から18世紀頃までは1億8千万人程度で1200年以上平均的に推移していたのが、その後たった100年で4億6千万人ほどにふくれ上がった。
間違いなく、時代が“近代化”するとともに人口も急進的に増加したのである。
人口の急激な増加をもたらした“近代化”とは何か?
それは科学・技術と民主主義が発展したことである。
これはオルテガ・イ・ガセットが指摘したことだが、増加した「数」よりむしろ、この短期間で増えた「速さ」の方を問題にしている。
人間というのは「教養」であれ「感受性」であれ、人から人へ、ある程度の時間を掛けて漸進的に言葉と行動で受け継がれ、なじまれてゆくものである。
つまり過去から未来へ受け継いでゆくもの、それを「伝統」と呼ぶなら、「伝統」は短期間では受け継ぐことは難しく、ゆっくり時間を掛けて伝承されてゆくものなのである。
そうなれば、短期間に人口が増えたと言うことは、やはり「伝統」が真っ当に受け継がれてない現象と見るのが正しいのでないだろう。
近代生活におけるあらゆる“技術”は短期間で人に教育することは可能だったが、果たしてその人は「教養」というものを身につけられたのだろうか。
近代生活で必要とされる“モノ”を与えられた人は、近代の産業化に順応することはできたが、伝統を大事と感じる「感受性」はどうやって身につければよいか教えられなかった。
近代には、そういう人がウヨウヨいるということで、それは自分かもしれない。
そういう量産された人々のことをオルテガは「マス・マン」と呼んだ。
「マス・マン」は科学と技術を信奉し、民主主義を最も愛したのである。
公害が問題になると省エネ技術を持ち出し、技術の進化にのみ未来を託す。
真善美の追求を断念し、多数決で正義が決まる効率性を重んじ、つまり付和雷同して生き延びる術を習得した。
「教養」や「感受性」が欠けているというのは、このように己の行く道、取り得る方向性を見失い、ついには地図を持たない旅のようにさまようような様を、
これで問題ないのだと自己暗示を繰り返すようなことでないだろうか。
本質的な不安を見て見ぬふりをし、次から次へと現れる新しい技術や民主主義の恩恵に後押しされ、一切の懐疑を持たない態度のことである。
彼らに決定的に足りないのは、科学も技術も大事だが、やっぱりやりすぎはよくないなあという「節度」、
民主主義といえど、万能な意思決定手段はないもので、調和を重んじつつも抱く「懐疑」ではないか。
最近、最近年寄りが自動車事故を起こして子供を死なせたり、詐欺に大金をだましとられたりする悲惨な事件が後をたたない。
それも科学技術が進歩して平均寿命が上がったことの弊害ととらえられるのでないだろうか。
こういう事態にこれから近代人はどう対処してゆくのか?
またしても技術や制度で調和を取ってゆくのか?
自動ブレーキ搭載の車を開発すれば片付く問題か?
高齢者に運転免許を返納させる制度の規制で取り繕うのか?
ロシアにあるシカ科の動物がいるそうで、その動物は自分が年老いて敵と戦えなくなり、食糧の確保も難しいと判断すると、断崖絶壁から飛び降りて自ら絶命するらしい。
年寄りは自ら姥捨て山に行け、ということを言いたいのではない。
人間にこのシカ科の動物のような選択はできない。
しかし人間が生きるというのはこういう残酷な面と張り合わせになってるもので、そういうことをいみじくも感じられる感受性が欠けていると生きてる意味もないのでないか。
近代人にとって重要なものは、死に様についての意識かもしれない。
生き様については人はよく口に出し語り散らされているが、それよりも死に様について考えることの方がよほど難しく、悩み考える価値のあることでないだろうか。
小学校移民
ひと昔前に比べ子供の教育に熱心な親が増えていると言う。
その熱心さは、「勉強しろ」とうるさいだけのものではなく、もっとリアリティのある熱心さとして露出しされている。
それは「小学校移民」という形で露出しているという。
子供を私立中受験に有利な小学校に通わせるため、一時的に引っ越しまでするという現象が起きている。
例えば区内のいくつかの公立小学校には教育熱心な親が多いということで、文京区に引っ越す家庭が増えている。
公立校ゆえに学区内の住民である必要があるから、千葉県や埼玉県から引っ越してきたり、子供が小学校の間だけ賃貸に越してくる方法を取っている。
これを聞いたとき、熱心ともいえるのだが、「遂にそこまで来たか」という方が率直な感想でした。
学歴競争に乗り遅れないようにするには、塾通いとか普通の行動だけではもはや物足りない時代に来ている。
彼らの目指しているところは、漠然とした単なる高学歴ではなく、最上位の東大クラスや医学部といった超一流を具体的に目指していて、そしてこの具体的な行動は有効であるににちがいない。
少し前に流行ったピケティに言われなくても、「富の世代間連鎖」は誰でも感じているはずである。
テレビドラマになった小説の「下克上受験」でのテーマであった、“子供の学力や学歴は親の年収に比例する”ということである。
学歴によっておおむね所得の高低は比例する。
これは疑いようのない事実である。
しかし、ここまで事実を突きつけられても、「遂にそこまで来たか」という違和感は払拭できない。
自分の子供に対してもこの風潮に乗り遅れることの不安と同時に、いざ自分は彼らと同じ行動を取れるかというと待ったを掛ける自分がいるということ。
それはなぜか?
高い『所得』を得るためには一般に大企業や安定した職種に就く必要があるでしょう。
そして大企業や安定した職種に就くにはやはり高学歴が必要となるでしょう。
むろん高学歴をつけるには早いうちから高い『教育』を受けることが必要になるでしょう。
ここまではわかる。
だが、どれほどの『所得』があり、いかほどの『教育』を受ければよいという前提が実は錯覚でないかと一切疑わない姿勢に違和感があるのです。
つまり、「財産」はないが『所得』はある、「教養」とはいえないが『教育』もあるという人が創られるだけではないかということです。
近所に住むある爺さんは少ない年金生活者で所得こそないが、人付き合いを通して旬の野菜や魚をしょっちゅうもらって暮らしている。
公共の場で人への配慮がすばらしかったりする婆さんが小学校しか出てないなんてことがある。
これは一例であって、この逆の場合ももちろんある。
豊かとまではいえないが、ある程度満たされているのが現代であります。
もちろん細かい点で不満はいくつもある。
だが、決定的に満たされていないものはない状況で、満たしたい欲求がはっきりしない苛立ちが『所得』や『教育』という手段的なものへ目的と化してしまいがちになります。
これは本質的には空虚なことです。
日常的に繰り返す家庭生活、職場生活はそれ自体が充実感をもたらすものでなければならないし、そうあって欲しいと希望し、『所得』や『教育』を超えて充実をめざそうと構えるのが人間でないでしょうか。