「異端児、常識を疑う」 -5ページ目

「変えられるもの」は変える努力を、「変えられないもの」は…

十代の頃、H君という友だちが同じクラスにいた。

クラスでは普通の仲だったが、卒業してから将来の生き方のようなものについて議論を交わすことになり一時仲良くなった。
結局はH君と自分の意見は方向性が全く違うことで話はおしまいになり、以来、H君との交流は自然となくなり現在に至る。

将来の道は自分の強い意志で切り開いてゆく、自分の目指すものに向けて状況を変えてゆくというのが彼の「自由論」だった。

一方、状況に対してしなやかに、逆らわず、川の流れのように道を進んでゆくというのが自分の「自由論」だった。

この二つの「自由」に対するとらえ方は真逆で、H君は時によって流れに逆らわないと自分の目指すものに到達できないという点で、自分の意見には賛同できなかったのだと思う。

「自由」とは自分の意のままにどんな状況をも変えてゆけるのが理想像で、目指すべく姿であるのだから、川の流れのように進んでゆくというのはともすれば、手抜きでサボってるように見えてしまう。要はがんばらない生き方と非難されても致しかたない。

だが、川の流れのように進んでゆくというのは消極的なものなのか、あるいは間違いなのだろうか。
そのとき自分の「自由論」で言い表せなかったことの続きが実はあるのだと、最近になってようやく分かるようになった。

世の中には「変えられるもの」と「変えられないもの」がある。

十代のH君も自分も世の中には「変えられるもの」しかないという前提で議論を交わしていた。

だから、「変えられるもの」を変えてゆこうとする意志がないのは怠慢以外のものではないとH君は言いたかったのだろう。

そして自分が言い表したかったのは、世の中の「変えられないもの」に対する態度だったのだと、当時の意見に付け加えられなかったのが悔やまれる。

「変えられないもの」、それは「宿命」とでも言おうか。

例えば、意のままに生きていたら、成功することも失敗することもある。

人は成功の理由を自分に求めたくなる。それがたとえラッキーであったと分かっていても。
そして失敗についてもまた何かに理由を求めたくなる。それは言い訳として。

すべては自己確認をしたいからである。

自己確認、それは自分がここに居る理由、つまり人はそこに生きた心地を求めざるを得ない生きものなのだ。宿命を欲する生きものと言い換えてもいいだろう。

人が求めていることは、成功や失敗といった「変えられるもの」は表面上のものであって、それより本当に求めていることは、生きた心地、生きた実感であって、それが宿命として受け入れるということでないだろうか。

変えられないものがあるという、"非情さ”を受け入れること。

あの時、H君へ言ったことに付け加えたい。
「変えられるもの」は変える努力を、「変えられないもの」はそのまま受け入れる気概を持ちたいと。

機構の完成

「保育園落ちた日本死ね」が話題である。

保育園事情の議論、待機児童問題についてここで論じないが、保育園に落ちて出た答えが「日本死ね」とはちょっと飛躍しすぎでないか。
日本が死んだら、保育園対策もなくなるのに。
我輩もこの声の立場と同じなので気持ちは分かる。
だが、保育園に通れば以上で話はおしまいではない。

平均的な家庭を前提にした場合、子供を保育園に入れようとするのはおそらく夫婦共働きで稼ごうとするからだろう。
しかし仕事自体は保育園の数と同じく増えてる訳ではない。

一昔前に比べ働く女性は確実に増えている。
だが就くことができる仕事が増えていないとなると、簡単にいえば男性がやっていた仕事を女性が奪わざるを得なくなる。

もしかしたらあなたの旦那さんの仕事が減ることにつながり、結局“パイ”を分け合うことになりかねないのである。

そんなことを言ってるからいつまでたっても裕福になれないのだ、働くのに人を蹴落とすことも必要で甘いことは言ってられないとご指摘もあろうか。

それでも野暮を承知で続ける。

これも平均的な家庭をモチーフにするが、夫婦共働きで収入を増やしてどうしようと算段してるのだろうか。
少しでも子供や家族に贅沢をさせてやりたいのか、はたまた住宅ローンの足しにでもするのか、要するに生活への余裕やいざというときの備えとしての考えである。

このこと自体、限られた収入の生活者ならば当然の考えである。

我輩の知る限り、働く奥さん方というのは、家庭とその他のこととをパラレルで両立させるのが上手で、要領のいい、しっかり者であることでほぼ間違いなく一致している。
いや、これはもはや、太古の昔からオスは狩りに出て、メスが家と子供を守るという女性の本能にインプットされた特質で、それが現代風に表現された形なのかもしれない。

だが、我輩にはどう見ても防衛本能からでてる行動とは思えず、むしろ、いてもたっても居られないゆえの行動で大体合ってるのでないだろうか。

昔は旦那にしっかり働いてこいとおどしていたオニババが、おどすだけでは収入は増えないと遂には働き出したようにしか見えない。

常に何かに「追い立てられる」かのように。

そしてこの何かに「追い立てられる感」は、生活への余裕やいざというときの備えと同じくらい大事なものを見過ごしている。

それは「落着き」である。

たちはだかる障害や損なものを避け、得だけをとろうとしてもそうはいかない。
それは取引きの原理である以上に、文明との付合いの原理である。

生活の余裕といざというときの備えと引換えに、「落着き」を無くしているということ。
それは「快楽」と引換えに「幸福」を無くしているということで、「人の文明との付合い方」が変わったということである。

何かを手に入れるために忙しく立ち働かねばならなくなったということ。

働くことそのものが目的でなく手段である以上、働くこと自体の忙しさでなく「こんなことはしていられない」忙しさ、つまり「落着き」なき生活者が完成するわけである。

「こんなことはしていられない」状態なら、それは「保育園落ちた日本死ね」という言葉が口をついて出てきて当然でもある。

福田恆存氏の言葉を借りれば、何かのために何かをやり、その何かのためにまた何かをやり、最後の目的を残して、その他のものは全てそれを実現するための手段になっている。手段である以上、常にもっと有効な手立てはないかと「迷う」のは当然だと。

そう、「保育園落ちた日本死ね」は迷っているのである。文明との付合い方に。

世の中便利になったから文明は変わるものではない、人の文明との付合い方のみが変わるだけである。
保育園制度の整備がすすむことで、世の中の働き方がかわり、そして文明は進歩するのだというは大間違いで、世知辛い世の中に対し、保育園制度の整備を求めることであなたはこの現代社会に対応しようとしてるだけなのです。

文明とは自然や物、他人を自分のために利用する「機構の完成」を目指すもので、自然や物、他人とどう向き合うか、どう付合うかは残念ながら教える術を持っていない。

求む、有能でないひと

何か特定の技術があると仕事を見つけやすい。
専門技術があると多少は人と賃金の差が付く。

これがおおよそ平均的なサラリーマンの就業機会と賃金の相場である。
ビジネス界で求められる有能な人とは、技術者としての性質で計られる。
スペシャリストが重宝されるのである。

“技術”とは何らかの仕組みを扱える技、何かの専門分野に特化した知識として言われる。
つまり“有能”とは 道具や仕組みの扱い方がうまい人ということになる。

ところが、この道具や仕組みの扱い方というのは、ビジネスの目標を達成するための手段にすぎないから、マネージメントや社長業の能力とはやはり異なる。
そこで一流大学を出たいわゆるエリートが管理にあたるというのは納得いく話ではある。

しかし、ここで現場を知らない経営者が偉そうにするなという問題が出てくる。
なので、下積み時代で苦労した現場を知る生え抜きの社員が管理職になるべきだと言う話も納得がいく。

エリート路線を歩めるのはごく限られた者のみであるのは事実で、誰にでも機会が均等に与えるべきとする一億総活躍社会論が支持されるのが現在であるのならば、後者がエリートでない多数派に支持されて当然である。

ここで話が横道にそれるが、技術とはテクノロジーのことである。

テクノロジーの語源は“テクネ”と“ロジー”である。
“ロジー”はロジック、論理のことで、専門技術を求めることと意味が合致してそうだが、“テクネ”の方は少々その意味が違っている。
“テクネ”とは芸術であり、生活の知恵も含む技というのが本来の意味である。
生活の知恵というだけに、奥さんとのつきあいや家族運営も当然含まれてくるのであり、古くは古代ローマで奴隷をどう扱うかというような単に道具や仕組みの扱い方だけで留まらない経験上難しいテーマまで含まれてる知恵の集大成というのが本来である。

テクノロジーを単色にとらえることしかできない現代のビジネス文化というのは狭く単調な世界で、本当は人間の生活世界を広く救えるものではない。
「有能な技術者を求む、以上で話はおしまい」とするのがビジネス文化なのです。

そんな単調な世界で、有能と言われても説得力がない。有能な人と言われても頭からは信用できない。
その証拠に有能であっても、家庭生活、育児に失敗してる人は後を絶たない。

ビジネス文化からひとたび離れればそのテクノロジーは役に立たず、“テクネ”と“ロジー”を経験的に分かってなければ、結婚にせよ、育児にせよ、介護にせよ、受験勉強にせよ、失敗に終わる。

“テクネ”と“ロジー”は「技術を身につける」といわれる意味ほど簡単なものではない。
現代の技術の正体はつまるところ、知ってるか知らないかの差でしかない。

あなたは今体験してることを“知る”ことがさして重要ではなく、経験してることをあなたの置かれてる立場や状況を通じて“分かる”ことが重要なのである。
誰でも知らないことを“知る”ことは勉強さえすれば可能だが、“分かる”というのは勉強のように方法論はなく、環境に惑わされたり、“分かる”前に遮られることもある。
どういう環境下にあっても、どう感じ、どう解釈を加えるか、単にエリート路線を歩んでも、専門技術を究めようと下積み時代を何年も積み重ねても身に付けられない人もいる。

有能でも生の力が感じられない人が多いのはきっとこのことと関係があるはずです。
しかし経験を通して“分かる”ということは、きっと生の力が宿ることのはずなのです。

人は結局手軽に手に入るもののみを受け入れる。だからビジネス文化はこれからも主導権を握ってゆくだろう。

求む、有能でないひと。

根無し草スナオ

公営住宅の募集に2件申し込んだ。
抽選結果はハズレ。

申し込んだ物件は場所が都市部から近く人気があることから、市区町村の募集住宅では100倍以上、都道府県の募集ではなんと500倍以上という高倍率であった。

公営住宅は家賃が安い。にもかかわらず間取りは広い。
こういう理由から応募者は軒並み殺到しているという。

人口というのは狭い都市部に一極集中している。

新築のマイホームを持つにはマンション購入が主流だが、狭い場所に住宅を求めるから縦に建てるしかない。
マンションがブームというより、仕方なくケチくさい共同住宅に放り込まれているのが実情なのである。

確か自分が小さい頃はマンションに住むのは悲しいかな一戸建てを持てない世帯の象徴だったのが
いつの日からか価値が逆転して共同住宅に住むことがトレンドとなっている。
億ションや高級マンションといったパラダイムのシフトでもって。

一戸建てに住みたいわけではない。
ましてやマンションに住むことがダメだということでもない。

一極集中の是非について論じるのは野暮になるからひとまず辞めておくとして、
都市部から離れると空き家が無数にあるのに、都市部では住宅を持てないという事実は、
「根無し草スナオ」という寓話でこんな風に語られている。

近代人は次から次へと理由をつけられて永久に「家」に入れない男に似ている。
この男「スナオ」が望んだのはあたりまえの家だった。

しかし非道な何かが家から彼を引き離した。

彼は庭先でご飯を食べざるを得なくなる。
そこに哲学者がやってきて、それこそが未来の生活だという。

しかしスナオは庭先でご飯を食べる“未来の生活”があまりに大胆すぎると気づき、春になってみすぼらしい小屋へ引っ越しサラリーマンとして働き始める。
そこにまたあの哲学者がやってきて、「君のビジネス努力が経済競争で国の未来の富を生んでいる。」という。

スナオはやがて経済競争に敗れ、公共労働施設に入ることになった。
またもやあの哲学者がその施設にやってきて、こう彼を説き伏せる。
「人類の目標たる輝かしき民主制だ。まさに平等という民主国家の未来がここにある。」と。

けれども割り切れないスナオは、今でも夜な夜な「家」を持ちたいという理想を夢見ている。
家が欲しいだけなのにそれがかなわない。

この寓話で、家からスナオを引き離した哲学書を「地獄から来た破壊者」といっている。
「地獄から来た破壊者」は近代人からパンを取り上げ、そのかわり石を与え、神様がくれた貴重な石だと思い込ませる。
そして田園生活を取り上げ、近代公共建築が象徴する平和と経済の黄金時代を約束する。

道路に放り出され、そっけなくそれが進歩の道だと言い聞かされ、
工場で働かざるをえなく追われて新型賃金労働にされ、それが富と文明に至る道だと思い込まされる。

陰気な産業主義で根無し草にされていることに気づかないなら、「集団主義の威圧」を疑ってみてほぼ間違いない。

スマホからの逆襲

自分、スマホを持っていない。
無論、ガラケー使用者である。
このガラケーもわずらわしいが、会社で持ってないと変人扱いされるので持っている。

スマホもいずれ買うのかも知れないが、出来れば買いたくない。

スマホというのは個人的にはテクノマニア(技術オタク)の結晶に過ぎないもの程度に思っていて、生活を革新させたもののひとつというが人間の根本的なものは何も変わってないように見える。
確かに便利で利点はあるかも知れないが、むしろLINEでいじめや架空請求被害などトラブルのデメリットもある。


ある日五十台前後だろうか、朝の電車で出勤途中のおばさんが、何をそこまで夢中にやってるのかと視界に入る画面にはパズルゲームが繰り広げられていた。

ゲームユーザを悪く言いたくはないし、実際知ってる限り、仕事の出来る人の多くはゲームにはまっている。

だが結局、スマホという道具を持ってはいるが、もてあましてるように見えるということをいいたい。

人生の楽しみ方を知ってる者などほとんどいないという大げさな結論を言ってしまいたいが、この批評を表舞台に出してしまうと必ず逆に叩かれてしまう。

なぜなら人ぞれぞれ価値や志向が違うのだし、誰が何に興味を持とうと自由で、その人が楽しいと思うことが必ずしもあなたには当てるとは限らないのだから。

“価値は相対的なもの”だという風潮である。

しかしあえてその価値相対主義には疑ってかからねばならない。

自由、そしてひとりひとりの意見や思いを出来る限り大切にしようとするいわゆるオンリーワン主義であり、これは一見、平等主義ように見えるが、実は風潮をそれなりに受け入れておけばそれでいいのだという日和見主義になるのではないか。

確かに新しく出てくるものに疑いを出したらキリがないし、何事も疑っていては前にすすめない。
どこかで信じる妥協点は必要である。

しかし、風潮を受け入れるというのは何かを強く信じるというより、風潮が変わればまた別のものに移り行き、また風潮が変われば別のものへと風見鶏になるだけでしかない。
どこかで疑いを持たねば、風潮に切り刻まれるだけになる。

疑うことを忘れれば軽信となり、信じるには逆説的に疑う力が本当は必要なのである。

そうでなければ、価値も意味も虚しく雲散霧消と化してしまう。

つまり、「疑う力」とは、価値や意味を感じる力なのである。

しかし、人間個人では価値や意味を決定する強い衝動もなければ、力量もない。
だから風潮にまかせゲーム画面に身を投じておけば、それなりに最新技術という風潮にとりのこされない錯覚が生まれるわけで、スマホをはじめその手の類の道具はそういった習慣を助長する一種の麻薬のようなものだと肝に銘じておかねばならない。