求む、有能でないひと | 「異端児、常識を疑う」

求む、有能でないひと

何か特定の技術があると仕事を見つけやすい。
専門技術があると多少は人と賃金の差が付く。

これがおおよそ平均的なサラリーマンの就業機会と賃金の相場である。
ビジネス界で求められる有能な人とは、技術者としての性質で計られる。
スペシャリストが重宝されるのである。

“技術”とは何らかの仕組みを扱える技、何かの専門分野に特化した知識として言われる。
つまり“有能”とは 道具や仕組みの扱い方がうまい人ということになる。

ところが、この道具や仕組みの扱い方というのは、ビジネスの目標を達成するための手段にすぎないから、マネージメントや社長業の能力とはやはり異なる。
そこで一流大学を出たいわゆるエリートが管理にあたるというのは納得いく話ではある。

しかし、ここで現場を知らない経営者が偉そうにするなという問題が出てくる。
なので、下積み時代で苦労した現場を知る生え抜きの社員が管理職になるべきだと言う話も納得がいく。

エリート路線を歩めるのはごく限られた者のみであるのは事実で、誰にでも機会が均等に与えるべきとする一億総活躍社会論が支持されるのが現在であるのならば、後者がエリートでない多数派に支持されて当然である。

ここで話が横道にそれるが、技術とはテクノロジーのことである。

テクノロジーの語源は“テクネ”と“ロジー”である。
“ロジー”はロジック、論理のことで、専門技術を求めることと意味が合致してそうだが、“テクネ”の方は少々その意味が違っている。
“テクネ”とは芸術であり、生活の知恵も含む技というのが本来の意味である。
生活の知恵というだけに、奥さんとのつきあいや家族運営も当然含まれてくるのであり、古くは古代ローマで奴隷をどう扱うかというような単に道具や仕組みの扱い方だけで留まらない経験上難しいテーマまで含まれてる知恵の集大成というのが本来である。

テクノロジーを単色にとらえることしかできない現代のビジネス文化というのは狭く単調な世界で、本当は人間の生活世界を広く救えるものではない。
「有能な技術者を求む、以上で話はおしまい」とするのがビジネス文化なのです。

そんな単調な世界で、有能と言われても説得力がない。有能な人と言われても頭からは信用できない。
その証拠に有能であっても、家庭生活、育児に失敗してる人は後を絶たない。

ビジネス文化からひとたび離れればそのテクノロジーは役に立たず、“テクネ”と“ロジー”を経験的に分かってなければ、結婚にせよ、育児にせよ、介護にせよ、受験勉強にせよ、失敗に終わる。

“テクネ”と“ロジー”は「技術を身につける」といわれる意味ほど簡単なものではない。
現代の技術の正体はつまるところ、知ってるか知らないかの差でしかない。

あなたは今体験してることを“知る”ことがさして重要ではなく、経験してることをあなたの置かれてる立場や状況を通じて“分かる”ことが重要なのである。
誰でも知らないことを“知る”ことは勉強さえすれば可能だが、“分かる”というのは勉強のように方法論はなく、環境に惑わされたり、“分かる”前に遮られることもある。
どういう環境下にあっても、どう感じ、どう解釈を加えるか、単にエリート路線を歩んでも、専門技術を究めようと下積み時代を何年も積み重ねても身に付けられない人もいる。

有能でも生の力が感じられない人が多いのはきっとこのことと関係があるはずです。
しかし経験を通して“分かる”ということは、きっと生の力が宿ることのはずなのです。

人は結局手軽に手に入るもののみを受け入れる。だからビジネス文化はこれからも主導権を握ってゆくだろう。

求む、有能でないひと。