ピケティの世襲資本主義
我が知人というか友人というか恩人にあたる方が山手線圏内に新築マンションを購入した。
この方自身、大手シンクタンクに勤めるサラリーマンで、奥さんは国家公務員。
いわゆる日本の富裕層といわれる位置にいる方である。
だが、そんな自身らの高所得をあてに好立地のマンションを購入したのだろうと思われるがそうではない。
聞いたところ、マンション購入にあたりご自身の父上から生前贈与で相続したという。
相続で購入資金のほとんどをまかなったらしい。
これだけ聞くと率直にうらやましい。
我輩ときたら、新築マンションはおろかこの先、子供の学費すら捻出できるか未確定であるのに。
高所得世帯と低所得世帯では子供の大学進学率に大きく開きがある。無論、高所得世帯の方が進学率は高い。
そして大学卒と高卒以下では同じく所得格差がある。
このことから富の世代間連鎖は確かに存在することがわかる。
そしてピケティは、親から子へ格差は受け継がれやがて社会の中で格差は固定されると、自身の格差論の中でこの富の相続を最も問題視している。
親からの財産で食ってるのは何の努力もしてないので得た所得なので、たっぷり税を課してもいいのでないか、と。
国民の多くは、なんとなく格差が広がってる世の中で、資本を持つ者が世間を牛耳ることへの抵抗を感じてるわけで、ピケティ賛成派がコミットしてるのはこの点においてである。
そしてこの論理に賛成は得られやすいことは想像できるだろう。
金持ちから税を多く取ることはどこか痛快ささえある。
このことにピケティ反対派たちは待ったを掛ける。
ホリエモンなんかは言う。何で金持ちから取ることばかりの意見が通るのかと。
日本ではそれほどの格差はない。社長と平社員の所得差はせいぜい10倍程度で、それなりにフェアでないかと。
この点において、ホリエモンの言うとおりである。低所得者にとっては耳障りのいいことをピケティは言ってるに過ぎないのだと。
確かにアメリカは社長と平社員の所得差は何十倍、もしくは100倍以上という超格差が問題となっている。
ピケティは特にアメリカで絶賛された理由はわかる。
しかし日本で売れるには、違和感が残る。
ピケティ反対派の言う通りなのだろうか。
大事な論点はピケティはこのまま行けば格差が広がるということ、格差が固定化されるという点にある。
アベノミクスはこれからアメリカ型の成長戦略にシフトしていくことが明確になっている。
そうなれば、格差の問題は日本ではこれから本格化することが予想される。
では、相続に税をかけることで格差に歯止めをかけると言うピケティの政策提言は正しいのか?
世襲というものを否定してよいのだろうかという議論になる。
これについては、西部邁氏が非常に重要な指摘をしている。
男と女が一緒になれば子供ができる。
すると次世代に何かを残そうとする。
これは財産だけでなく、先祖から受け継いできた言い伝えや道徳観をはじめ、成功談や失敗談なども当然含まれている訳で、
それを否定するというのは、文化否定の野蛮行為になりかねないのでないか。と。
つまり世襲の中にも壊してはならないものが含まれているのだと。
世襲の否定が格差の是正には直結しないのだと。
格差は守るべきものではない、しかし格差の根本はなくしようがない。
これが本質である。
具体的な話に戻ろう。
では、許される格差とは?
いくらまでなら稼いでもいいのか?はてはそういう話に落ちつくというのか?
それなら結局、累進課税の制度論で既に答えは出ているではないか?
そうなるとやはり、ピケティの結論に通じる制度論でまとめるよりも、歴史観としての世襲制の方が説得力がある。
それはこういう理由からである。
能力、遺伝、環境など様々な要因と格差は関わっているわけで、格差を含む社会もまた歴史的に形成されるものである。
先ほどの西部邁氏が言ったとおり、先人の失敗や成功を通じ、次にはまともな社会が形成されるものであるのならば、そこには「この人の貢献度なら、まあこれくらい稼いでもよいでしょう」とか「あいつはサボってばかりだからこれくらいだな」という、まともな所得配分も形成されてゆくと見るのが、よりまともな格差論であり、制度論が表舞台に出てくるのはまともな歴史観が指し示されていない何よりの証拠なのである。
この方自身、大手シンクタンクに勤めるサラリーマンで、奥さんは国家公務員。
いわゆる日本の富裕層といわれる位置にいる方である。
だが、そんな自身らの高所得をあてに好立地のマンションを購入したのだろうと思われるがそうではない。
聞いたところ、マンション購入にあたりご自身の父上から生前贈与で相続したという。
相続で購入資金のほとんどをまかなったらしい。
これだけ聞くと率直にうらやましい。
我輩ときたら、新築マンションはおろかこの先、子供の学費すら捻出できるか未確定であるのに。
高所得世帯と低所得世帯では子供の大学進学率に大きく開きがある。無論、高所得世帯の方が進学率は高い。
そして大学卒と高卒以下では同じく所得格差がある。
このことから富の世代間連鎖は確かに存在することがわかる。
そしてピケティは、親から子へ格差は受け継がれやがて社会の中で格差は固定されると、自身の格差論の中でこの富の相続を最も問題視している。
親からの財産で食ってるのは何の努力もしてないので得た所得なので、たっぷり税を課してもいいのでないか、と。
国民の多くは、なんとなく格差が広がってる世の中で、資本を持つ者が世間を牛耳ることへの抵抗を感じてるわけで、ピケティ賛成派がコミットしてるのはこの点においてである。
そしてこの論理に賛成は得られやすいことは想像できるだろう。
金持ちから税を多く取ることはどこか痛快ささえある。
このことにピケティ反対派たちは待ったを掛ける。
ホリエモンなんかは言う。何で金持ちから取ることばかりの意見が通るのかと。
日本ではそれほどの格差はない。社長と平社員の所得差はせいぜい10倍程度で、それなりにフェアでないかと。
この点において、ホリエモンの言うとおりである。低所得者にとっては耳障りのいいことをピケティは言ってるに過ぎないのだと。
確かにアメリカは社長と平社員の所得差は何十倍、もしくは100倍以上という超格差が問題となっている。
ピケティは特にアメリカで絶賛された理由はわかる。
しかし日本で売れるには、違和感が残る。
ピケティ反対派の言う通りなのだろうか。
大事な論点はピケティはこのまま行けば格差が広がるということ、格差が固定化されるという点にある。
アベノミクスはこれからアメリカ型の成長戦略にシフトしていくことが明確になっている。
そうなれば、格差の問題は日本ではこれから本格化することが予想される。
では、相続に税をかけることで格差に歯止めをかけると言うピケティの政策提言は正しいのか?
世襲というものを否定してよいのだろうかという議論になる。
これについては、西部邁氏が非常に重要な指摘をしている。
男と女が一緒になれば子供ができる。
すると次世代に何かを残そうとする。
これは財産だけでなく、先祖から受け継いできた言い伝えや道徳観をはじめ、成功談や失敗談なども当然含まれている訳で、
それを否定するというのは、文化否定の野蛮行為になりかねないのでないか。と。
つまり世襲の中にも壊してはならないものが含まれているのだと。
世襲の否定が格差の是正には直結しないのだと。
格差は守るべきものではない、しかし格差の根本はなくしようがない。
これが本質である。
具体的な話に戻ろう。
では、許される格差とは?
いくらまでなら稼いでもいいのか?はてはそういう話に落ちつくというのか?
それなら結局、累進課税の制度論で既に答えは出ているではないか?
そうなるとやはり、ピケティの結論に通じる制度論でまとめるよりも、歴史観としての世襲制の方が説得力がある。
それはこういう理由からである。
能力、遺伝、環境など様々な要因と格差は関わっているわけで、格差を含む社会もまた歴史的に形成されるものである。
先ほどの西部邁氏が言ったとおり、先人の失敗や成功を通じ、次にはまともな社会が形成されるものであるのならば、そこには「この人の貢献度なら、まあこれくらい稼いでもよいでしょう」とか「あいつはサボってばかりだからこれくらいだな」という、まともな所得配分も形成されてゆくと見るのが、よりまともな格差論であり、制度論が表舞台に出てくるのはまともな歴史観が指し示されていない何よりの証拠なのである。
ピケティ旋風
これから先世界は寒くなる
どれだけ太陽を浴びれたか
浴びた奴だけが生き残り
何もかも押さえ込むのさ
これは「プライド」という歌の一節だが、ベストセラー「21世紀の資本」で旋風を巻き起こしているトマ・ピケティの資本主義に対する展望は正にこれである。
ピケティの論議はこうだ。
資本主義というものは社会を豊かにすると思われてきて、人々はたくさん働いて所得を増やし、実際に社会は経済成長をしてきた。
結果、貧しかった層の多くの人が中流層となり、資本を持つ階層と持たない階層の格差は縮まった。
それがデータでも実証され、資本主義は多くの人を幸福にするのに社会が取るべき最善の策だと大方認められてきた。
しかし、これは戦争から戦後の立ち直りという一部の短い期間のデータで見た結果だったことを明らかにし、ピケティは300年という長いスパンでデータを調べなおした。
するとむしろ人々が働いて所得を蓄える速度よりも、最初から大きな資産を持ってる資本家が不動産や株式投資などで得る収益率の方がより短期間で多く蓄えることができるため、時代が進むにつれ、階層の格差は拡大しているということが実証され、これまでの資本主義に対する認識をピケティは覆したのである。
しかもアメリカやヨーロッパ各国、日本など広い範囲で調べた結果だという。
ピケティのこの論議は著書、あらゆる評論本、パリ白熱教室で語られていて、多くの人が注目している。
一部の大金持ちが世の中の資産の大部分を所有し、たくさんの一般市民が残りの資産を分け合ってる状態。
資本主義が進むにつれ、その格差は益々広がっている。
これがピケティの問題提起で、そこに多くの人は注目しているのである。
しかし、ここで読者である我々はピケティの論議に導かれて格差の問題をどう解決するかを考える前に忘れてはならないことがある。
問題は現実の生活において多くの人が相変わらず資本主義で生きていかざるを得ない点にある。
ピケティ自身も資本主義を否定するのではないと言っている。
では、ピケティの結論は?
それは後回しにするとして、ではなぜピケティにデータで実証されたように資本主義は格差を拡大させたのか?
ピケティの調査したデータから分かることは、資本家、大企業が儲けた利益はいずれ社会に還元され下層の人々の富にも恩恵が与えられる「トリクルダウン効果」が働くという資本主義の理想が、実はそうでなかったことを意味する。
大企業は「内部留保」で資産を貯め込み、労働者への還元はされず、資産家は税の安い国「タックスヘイブン」に資本を移動し税を逃れる。
身近な例で言うと、ネットビジネスで巨額の金を稼いだ一個人であるI氏もシンガポールに資産を移すことを何のためらいもなく、むしろ賢い資産運用の方法だと宣伝している。
日本人が自分の国に税を納め還元するというごく自然なことは始めから考慮されることはなく、トリクルダウンは絵に描いたモチでしかなかった。
つまり資本主義は万能でなかった。
誰だって人は稼いで得た富を、今度は守りに入る。
自分のものは自分のものと独占したくなるのは当然のなりゆきである。
だから税で徴収するわけであるが、そこからも法の網の目をかいくぐり逃れようとするのも当然かもしれない。
かくして巨額の富はそう簡単には社会に還元されることはなく、格差は時代が進むにつれ拡大してゆくことにピケティは危機感を抱いているのである。
一億総中流の黄金時代は終わり、資本主義は次の局面を向かえている。
そしてピケティの結論は何か?
ピケティの結論を簡単に言えば、金持ちにもっと税を課すということにある。
海外へグローバルに動く資本にも厳しく規制をかける「グローバル資本課税」でタックスヘイブンと戦おうとしている。
最後にピケティの論議を総括した話がある。
ピケティの論議は、貧困層は当然ながら生活が苦しくなりつつある中流階層にも受け入れられている。
しかしピケティを絶賛する人々の中には、単に「金持ち悪玉論」に陥っているものがいないだろうか、と。
「格差」が悪いとすれば、ともすれば金持ちを引きずりおろすことで解決策となってしまう。
金持ちだけに集中的に巨額の税を課せば、格差拡大が不平等のはずだったものが、今度は格差縮小が別の不平等を生むことになる。
格差がなくなればいいのではない。そのことをピケティを絶賛する人々は忘れてはならない。
行過ぎた格差が問題でなのある。
多少の格差があった方がやってやろうという活力になるし、がんばっても格差を平準化され、出る釘は打たれればやる気も起こらないし、ズルをしてサボることに走ってしまう者も現れる。
我々が相変わらず資本主義で生きていかざるを得ないというのは、こういうジレンマの中にある。
それゆえ、格差論と資本主義路線のバランスは歴史上数々の経済学者が論じてきたが、解決策は未だ確立していない。
どれだけ太陽を浴びれたか
浴びた奴だけが生き残り
何もかも押さえ込むのさ
これは「プライド」という歌の一節だが、ベストセラー「21世紀の資本」で旋風を巻き起こしているトマ・ピケティの資本主義に対する展望は正にこれである。
ピケティの論議はこうだ。
資本主義というものは社会を豊かにすると思われてきて、人々はたくさん働いて所得を増やし、実際に社会は経済成長をしてきた。
結果、貧しかった層の多くの人が中流層となり、資本を持つ階層と持たない階層の格差は縮まった。
それがデータでも実証され、資本主義は多くの人を幸福にするのに社会が取るべき最善の策だと大方認められてきた。
しかし、これは戦争から戦後の立ち直りという一部の短い期間のデータで見た結果だったことを明らかにし、ピケティは300年という長いスパンでデータを調べなおした。
するとむしろ人々が働いて所得を蓄える速度よりも、最初から大きな資産を持ってる資本家が不動産や株式投資などで得る収益率の方がより短期間で多く蓄えることができるため、時代が進むにつれ、階層の格差は拡大しているということが実証され、これまでの資本主義に対する認識をピケティは覆したのである。
しかもアメリカやヨーロッパ各国、日本など広い範囲で調べた結果だという。
ピケティのこの論議は著書、あらゆる評論本、パリ白熱教室で語られていて、多くの人が注目している。
一部の大金持ちが世の中の資産の大部分を所有し、たくさんの一般市民が残りの資産を分け合ってる状態。
資本主義が進むにつれ、その格差は益々広がっている。
これがピケティの問題提起で、そこに多くの人は注目しているのである。
しかし、ここで読者である我々はピケティの論議に導かれて格差の問題をどう解決するかを考える前に忘れてはならないことがある。
問題は現実の生活において多くの人が相変わらず資本主義で生きていかざるを得ない点にある。
ピケティ自身も資本主義を否定するのではないと言っている。
では、ピケティの結論は?
それは後回しにするとして、ではなぜピケティにデータで実証されたように資本主義は格差を拡大させたのか?
ピケティの調査したデータから分かることは、資本家、大企業が儲けた利益はいずれ社会に還元され下層の人々の富にも恩恵が与えられる「トリクルダウン効果」が働くという資本主義の理想が、実はそうでなかったことを意味する。
大企業は「内部留保」で資産を貯め込み、労働者への還元はされず、資産家は税の安い国「タックスヘイブン」に資本を移動し税を逃れる。
身近な例で言うと、ネットビジネスで巨額の金を稼いだ一個人であるI氏もシンガポールに資産を移すことを何のためらいもなく、むしろ賢い資産運用の方法だと宣伝している。
日本人が自分の国に税を納め還元するというごく自然なことは始めから考慮されることはなく、トリクルダウンは絵に描いたモチでしかなかった。
つまり資本主義は万能でなかった。
誰だって人は稼いで得た富を、今度は守りに入る。
自分のものは自分のものと独占したくなるのは当然のなりゆきである。
だから税で徴収するわけであるが、そこからも法の網の目をかいくぐり逃れようとするのも当然かもしれない。
かくして巨額の富はそう簡単には社会に還元されることはなく、格差は時代が進むにつれ拡大してゆくことにピケティは危機感を抱いているのである。
一億総中流の黄金時代は終わり、資本主義は次の局面を向かえている。
そしてピケティの結論は何か?
ピケティの結論を簡単に言えば、金持ちにもっと税を課すということにある。
海外へグローバルに動く資本にも厳しく規制をかける「グローバル資本課税」でタックスヘイブンと戦おうとしている。
最後にピケティの論議を総括した話がある。
ピケティの論議は、貧困層は当然ながら生活が苦しくなりつつある中流階層にも受け入れられている。
しかしピケティを絶賛する人々の中には、単に「金持ち悪玉論」に陥っているものがいないだろうか、と。
「格差」が悪いとすれば、ともすれば金持ちを引きずりおろすことで解決策となってしまう。
金持ちだけに集中的に巨額の税を課せば、格差拡大が不平等のはずだったものが、今度は格差縮小が別の不平等を生むことになる。
格差がなくなればいいのではない。そのことをピケティを絶賛する人々は忘れてはならない。
行過ぎた格差が問題でなのある。
多少の格差があった方がやってやろうという活力になるし、がんばっても格差を平準化され、出る釘は打たれればやる気も起こらないし、ズルをしてサボることに走ってしまう者も現れる。
我々が相変わらず資本主義で生きていかざるを得ないというのは、こういうジレンマの中にある。
それゆえ、格差論と資本主義路線のバランスは歴史上数々の経済学者が論じてきたが、解決策は未だ確立していない。
1995年の洗脳
20年程前、池袋にCDラジカセを買いに行った時のことである。
新規開店記念ということもあってか家電量販店「さくらや」の店内は客でごった返していた。
目当てのSONY製品は他店で¥39,800くらいするを、店員さんと簡単な交渉でなんと¥29,800で売ってくれることになった。
それでも迷ってると、その店員さんは¥29,800のサインをして、「これを見せればいつでもこの値段で売りますよ」と親切に名刺を差し出してくれた。
今考えると即決でよかったはずなのに、貧乏性の自分は他店も確かめたく次に「ビックカメラ」へと足を運んだ。
予想通り、同じ製品がここでは¥39,800で売られている。
- しかし、この時点で自分はこの店で買うことになることをまだ知らない。
ふと、商品棚に目をやると至るところに「他店より1円でも高い場合は…」と書かれたポップが張り巡らされている。
それではと、先ほど「さくらや」の店員さんにもらった名刺を差し出しそれより安くなるかを交渉してみた。
しばらく待つと責任者のような店員さんが慌てた様子で現れ、次にこう言われた。
「¥29,700でお売りいたします。」(汗)
明らかに店側の動揺をかくせない様子。だが「さくらや」より100円安くなった。
もう少し安くなることを期待してたせいか、どこかしっくりこなかったが、結局100円安い「ビックカメラ」でCDラジカセを購入することになった。
同じ品物を安く売ってる方で買っただけ。
ごく一般的にみて合理的な判断である。高い方でわざわざ買う理由もない。正しい選択だったと言える。
しかしどこか不思議な違和感が残った。
その正体は何か?
20年経った今、分かったことがある。
消費活動というものは、自分にとって常にその場限りの計算問題へと単純化されるだけの場所だったということ。
消費社会とは単に、量的な媒体「紙幣」のみを手にしてしか交流が成立しない場に矮小化されていて、そこで取る行動には、必ず見っとも無さや醜さが露出されてしまう、それが違和感の正体であると。
“グロテスクな社会へのかかわり方”なのである。
そして社会とのかかわり方の違和感は消費社会のシーンだけに留まらず、あらゆるシーンでその姿を露出し、
20年前の1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教団もまた同様にグロテスクな形で露出させた。
死刑囚である実行犯は今も、事件は「救済」のためにやったのだと言っている。
彼らにとって社会の「悪」を排除する殺人は、“殺戮行為”でなく、死によって魂をより高い次元に移す「ポア」という方法で“転生”させてやる行為。それが「救済」の論理である。
確かに世の中には生かしてる必要のないと思えるほど邪悪な人間がいるという彼らの意見に対して…頭からは否定はしない。
思うのは、殺人の正当化することのグロテスクさというよりも、何も感じてなかった平凡人が、ある日突然新興宗教に目覚め、何十年も修業をして悟ったかのように「救済」で社会をよくできると思うことの単純さ、「救済」でよくなるという社会をそんな単純な図式で説明がつくものかと疑問を抱かない無垢さ、その態度に根本的なグロテスクさを感じるのである。
単純で無垢なその様を“宗教”と彼らが呼ぶならば、それは信仰ではなく、妄信あるいは迷信でないか。
1995年に洗脳された者も、消費活動でいかに安くものを買うかに奔走する者も、根本は同じで、共通するキーワードは社会のかかわり方の単純化である。
本来コミュニケーション一つとっても複雑怪奇で一筋縄ではいかないものである。
社会とかかわると言っても思い通りにいかないことの方が多く、困難が常につきまとうものなのである。
一歩社会へ出れば、騙されたり、裏切られたり、いいことの方が圧倒的に少ない。
そうすると社会の中で行動するときに基準は、予測可能なもの、絶対信頼できるものに頼るのが楽になる。
かくして社会を単純化するのである。
豊かさとはライフ(生)よりリヴィング(生活)にのみ関心が集まり、その場限りの計算問題へと矮小化されるのである。
それが思考停止であり、洗脳される下地が出来上がるのである。
その挙句、退屈に苛立ち、社会を救済するというミニ・ストーリーをこしらえて、1995年の洗脳は完成されたのでなかろうか。
暇を与えられると、ロクな考えを起こしかねないやるせない生き者なのです。
新規開店記念ということもあってか家電量販店「さくらや」の店内は客でごった返していた。
目当てのSONY製品は他店で¥39,800くらいするを、店員さんと簡単な交渉でなんと¥29,800で売ってくれることになった。
それでも迷ってると、その店員さんは¥29,800のサインをして、「これを見せればいつでもこの値段で売りますよ」と親切に名刺を差し出してくれた。
今考えると即決でよかったはずなのに、貧乏性の自分は他店も確かめたく次に「ビックカメラ」へと足を運んだ。
予想通り、同じ製品がここでは¥39,800で売られている。
- しかし、この時点で自分はこの店で買うことになることをまだ知らない。
ふと、商品棚に目をやると至るところに「他店より1円でも高い場合は…」と書かれたポップが張り巡らされている。
それではと、先ほど「さくらや」の店員さんにもらった名刺を差し出しそれより安くなるかを交渉してみた。
しばらく待つと責任者のような店員さんが慌てた様子で現れ、次にこう言われた。
「¥29,700でお売りいたします。」(汗)
明らかに店側の動揺をかくせない様子。だが「さくらや」より100円安くなった。
もう少し安くなることを期待してたせいか、どこかしっくりこなかったが、結局100円安い「ビックカメラ」でCDラジカセを購入することになった。
同じ品物を安く売ってる方で買っただけ。
ごく一般的にみて合理的な判断である。高い方でわざわざ買う理由もない。正しい選択だったと言える。
しかしどこか不思議な違和感が残った。
その正体は何か?
20年経った今、分かったことがある。
消費活動というものは、自分にとって常にその場限りの計算問題へと単純化されるだけの場所だったということ。
消費社会とは単に、量的な媒体「紙幣」のみを手にしてしか交流が成立しない場に矮小化されていて、そこで取る行動には、必ず見っとも無さや醜さが露出されてしまう、それが違和感の正体であると。
“グロテスクな社会へのかかわり方”なのである。
そして社会とのかかわり方の違和感は消費社会のシーンだけに留まらず、あらゆるシーンでその姿を露出し、
20年前の1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教団もまた同様にグロテスクな形で露出させた。
死刑囚である実行犯は今も、事件は「救済」のためにやったのだと言っている。
彼らにとって社会の「悪」を排除する殺人は、“殺戮行為”でなく、死によって魂をより高い次元に移す「ポア」という方法で“転生”させてやる行為。それが「救済」の論理である。
確かに世の中には生かしてる必要のないと思えるほど邪悪な人間がいるという彼らの意見に対して…頭からは否定はしない。
思うのは、殺人の正当化することのグロテスクさというよりも、何も感じてなかった平凡人が、ある日突然新興宗教に目覚め、何十年も修業をして悟ったかのように「救済」で社会をよくできると思うことの単純さ、「救済」でよくなるという社会をそんな単純な図式で説明がつくものかと疑問を抱かない無垢さ、その態度に根本的なグロテスクさを感じるのである。
単純で無垢なその様を“宗教”と彼らが呼ぶならば、それは信仰ではなく、妄信あるいは迷信でないか。
1995年に洗脳された者も、消費活動でいかに安くものを買うかに奔走する者も、根本は同じで、共通するキーワードは社会のかかわり方の単純化である。
本来コミュニケーション一つとっても複雑怪奇で一筋縄ではいかないものである。
社会とかかわると言っても思い通りにいかないことの方が多く、困難が常につきまとうものなのである。
一歩社会へ出れば、騙されたり、裏切られたり、いいことの方が圧倒的に少ない。
そうすると社会の中で行動するときに基準は、予測可能なもの、絶対信頼できるものに頼るのが楽になる。
かくして社会を単純化するのである。
豊かさとはライフ(生)よりリヴィング(生活)にのみ関心が集まり、その場限りの計算問題へと矮小化されるのである。
それが思考停止であり、洗脳される下地が出来上がるのである。
その挙句、退屈に苛立ち、社会を救済するというミニ・ストーリーをこしらえて、1995年の洗脳は完成されたのでなかろうか。
暇を与えられると、ロクな考えを起こしかねないやるせない生き者なのです。
ゲマインシャフトとゲゼルシャフト
訳あって最近転職をした。
我輩が働く業種では珍しくない。
能力が高く、違った現場で即戦力となる技能さえあれば、今もらってるギャラが跳ね上がることも珍しくない。
今回我輩のギャラは上がったわけでないので該当しないが、転職を通じ、あらためてわかったことは、
この業種で働いている以上は会社に対する帰属意識は薄く、ゆえに所属する会社を変えることは簡単であり、その帰属意識を強めるのにはやはり対価として“ギャランティー”でしか表現しきれないということ。
会社とはメンバーが各自の利益的関心に基づいて結合する集団のことで、アメリカ的にいうと会社とメンバーが“win─win「”であることが安定した関係ということになる。
こういう“利益”という共通の価値である種機械的につながる集団の構成を社会学の概念で「ゲゼルシャフト(利益社会)」ということがある。
ひるがえって、価値観は違うけれども離れられない関係、つまり親子、血縁、家族といった“感情”で融合する集団を「ゲマインシャフト(共同社会)」と呼ばれる。
簡単に言えば義理人情の世界である。
日本社会は、ドロドロとした人間関係で集団の向かう方向が決まってしまう「ゲマインシャフト」だったと言え、その悪しき部分をとっぱらい、「ゲゼルシャフト」という合理的な集団に進化してきたというのが大筋であってるであろう。
>しかし、東日本大震災などの人間が作る合理的解決策だけでは到底対処できない危機に対する備えとして、いわゆる「絆」というものに重きを置くようになり、最近ではベンチャー企業などがゲマインシャフト的経営を取り入れていたりする。
ゲゼルシャフトは比較的わかりやすい。
金のつながり、金の切れ目が縁の切れ目と言えば大筋であってるだろう。
こう書くとゲゼルシャフトは軽薄で悪者のようにも思われてしまう。
ゲマインシャフトの方はどうか?
“感情”で融合する集団ということだがこんな疑問が起こる。
“感情”で融合するとは「金」でつながることと違い、具体的な「物」を媒介せず今も昔も変わらずなぜ人はつながりを保ってゆけるのだろうか?
例えば自分の身内や友だちのことをバカにされてたら、自分のことではないのに腹が立つというようなことがある。
これは自分のことでないにも関わらず、当事者とどこかで連帯感や同朋意識を感じているから自然に出てくる感情ではないだろうか。
“感情”で融合するとは正にこういうことで、“感情”であるがゆえに結束力としては強力である。
では、このゲゼルシャフトの機械的社会からゲマインシャフトの有機的社会に移行してゆくことが社会集団の結束力を高めてゆくことになるのだろうか?
しかし、それはかなり難しいと思う。
我輩の経験からでいうと、今回の転職に際し、社長、同僚をはじめ数年いた会社には愛着があったものの、結局ギャラも含め自分にとって総合的な“利益”を最優先にした結果の選択であり、ゲゼルシャフトで生きる者の使命として、自己の自由、自己の快楽が基準にすることからは逃れられない。
ゲマインシャフトを再び現代社会に浸透させるのはそう簡単ではないはず。
ところが、サラリーマンの誰しもが日常生活においてそう気付いてるはずだが、ゲゼルシャフトの世界だけで生きているとやっぱり疲れる。
これはどうにもしようがないことで、まともな人間なら誰しも同じように感じることだろう。
自分のいるべき場所に帰るとホッとするもので、ゲマインシャフトの結束力はその時、必要と感じられるのである。
ゲマインシャフトが色濃くなればゲゼルシャフトへ、ゲゼルシャフトが行過ぎればゲマインシャフトへ、
ゲマインシャフトとゲゼルシャフト、どちらも極端に振れると反動がくるのであって、
現代では、ゲゼルシャフトが悪役を買って出てくれているから、ゲマインシャフトとしての我々が帰属する場所、「家庭」などが重みを帯びてくるのでないか。
ひとまずそう解釈して過ごすしか、明日会社に行く気が起こらないのである。
我輩が働く業種では珍しくない。
能力が高く、違った現場で即戦力となる技能さえあれば、今もらってるギャラが跳ね上がることも珍しくない。
今回我輩のギャラは上がったわけでないので該当しないが、転職を通じ、あらためてわかったことは、
この業種で働いている以上は会社に対する帰属意識は薄く、ゆえに所属する会社を変えることは簡単であり、その帰属意識を強めるのにはやはり対価として“ギャランティー”でしか表現しきれないということ。
会社とはメンバーが各自の利益的関心に基づいて結合する集団のことで、アメリカ的にいうと会社とメンバーが“win─win「”であることが安定した関係ということになる。
こういう“利益”という共通の価値である種機械的につながる集団の構成を社会学の概念で「ゲゼルシャフト(利益社会)」ということがある。
ひるがえって、価値観は違うけれども離れられない関係、つまり親子、血縁、家族といった“感情”で融合する集団を「ゲマインシャフト(共同社会)」と呼ばれる。
簡単に言えば義理人情の世界である。
日本社会は、ドロドロとした人間関係で集団の向かう方向が決まってしまう「ゲマインシャフト」だったと言え、その悪しき部分をとっぱらい、「ゲゼルシャフト」という合理的な集団に進化してきたというのが大筋であってるであろう。
>しかし、東日本大震災などの人間が作る合理的解決策だけでは到底対処できない危機に対する備えとして、いわゆる「絆」というものに重きを置くようになり、最近ではベンチャー企業などがゲマインシャフト的経営を取り入れていたりする。
ゲゼルシャフトは比較的わかりやすい。
金のつながり、金の切れ目が縁の切れ目と言えば大筋であってるだろう。
こう書くとゲゼルシャフトは軽薄で悪者のようにも思われてしまう。
ゲマインシャフトの方はどうか?
“感情”で融合する集団ということだがこんな疑問が起こる。
“感情”で融合するとは「金」でつながることと違い、具体的な「物」を媒介せず今も昔も変わらずなぜ人はつながりを保ってゆけるのだろうか?
例えば自分の身内や友だちのことをバカにされてたら、自分のことではないのに腹が立つというようなことがある。
これは自分のことでないにも関わらず、当事者とどこかで連帯感や同朋意識を感じているから自然に出てくる感情ではないだろうか。
“感情”で融合するとは正にこういうことで、“感情”であるがゆえに結束力としては強力である。
では、このゲゼルシャフトの機械的社会からゲマインシャフトの有機的社会に移行してゆくことが社会集団の結束力を高めてゆくことになるのだろうか?
しかし、それはかなり難しいと思う。
我輩の経験からでいうと、今回の転職に際し、社長、同僚をはじめ数年いた会社には愛着があったものの、結局ギャラも含め自分にとって総合的な“利益”を最優先にした結果の選択であり、ゲゼルシャフトで生きる者の使命として、自己の自由、自己の快楽が基準にすることからは逃れられない。
ゲマインシャフトを再び現代社会に浸透させるのはそう簡単ではないはず。
ところが、サラリーマンの誰しもが日常生活においてそう気付いてるはずだが、ゲゼルシャフトの世界だけで生きているとやっぱり疲れる。
これはどうにもしようがないことで、まともな人間なら誰しも同じように感じることだろう。
自分のいるべき場所に帰るとホッとするもので、ゲマインシャフトの結束力はその時、必要と感じられるのである。
ゲマインシャフトが色濃くなればゲゼルシャフトへ、ゲゼルシャフトが行過ぎればゲマインシャフトへ、
ゲマインシャフトとゲゼルシャフト、どちらも極端に振れると反動がくるのであって、
現代では、ゲゼルシャフトが悪役を買って出てくれているから、ゲマインシャフトとしての我々が帰属する場所、「家庭」などが重みを帯びてくるのでないか。
ひとまずそう解釈して過ごすしか、明日会社に行く気が起こらないのである。
3丁目のテロル
かみさんとスーパーに行った時のこと、あか抜けない女が前から近づいてきて、
いきなり「どうも~」と、。
そして今度はこちらを向いて、「ママ友で~す!」だと言ってニコニコしてきた。
一瞬で「そんなはずはない」と悟ったオレは、かみさんに後で聞いたところ、ある場所で顔見知りになったその日から「メアド教えて」とか「今度お茶しましょう」といったノリで接してきたらしく、やはり一瞬で嫌悪感をいだいたようである。
以後、その場所で女と鉢合わせするたびに面倒なので「携帯は持ってない」(本当に持ってないのだが)と拒否つづけてきたそうだが、
この女のツレに韓国人の女がいて、どうやらバックエンドに新興宗教かネットワークビジネスか何らかの“勧誘”が垣間見えたのが決定的だった。
韓国人だからというわけではなく、やはり外国人からの勧誘となるとそれだけで不気味でないか。
最近、わが町3丁目ではここ数年で外国人が急増している。それは肌で実感できるものである。
すれ違ったカップルが韓国人で、続けて更に東南アジアのグループとすれ違う。
住んでるアパートにも中国人の新婚家庭が2組もある。
といった具合に。
そのこと自体ですぐに町の文化や日本的な様式が壊れてゆくという話に直接結びつく訳ではないが、「よそ者」が増えていることには変わりない。
これは外国人差別や偏見、排外主義の宣伝ではなく、肌で感じる違和感であり、3丁目にヒタヒタとなじみのないよその得体のしれないものが迫ってくることへの拒否反応である。
これが正直な実感である。
そして、テロ組織と非難されているイスラム国が繰り返す行為の発端もこの「よそ者への拒否」と原理は同じでないか。
彼らは欧米が勝手に引いた国境線を引き直すと言っている。
どういうことか?
国境線がある国特有のかかえる問題として、ロシアと周辺国、中国とチベットなど世の中のあらゆる国境線付近では常に紛争が絶えない。イスラム国も同様に。
気に食わないよそ者と陸続きで暮らしている以上、当然の成り行きかも知れない。
そして、イスラム国にとって国境線を引き直すこととは、ヨルダンと敵対することは表面上のことで、根底にある欧米の石油メジャー利権や経済ルールが中東地域を取り込んで行くことに対する拒否、欧米文化の強制に対する「NO」なのである。
外国人を次々と人質にして身代金を要求する。交渉成立しなければ処刑する。
ここだけを切り取れば、残虐集団として非難されるしかない。
確かに、人質に取った外国の兵士を並べて斬首してゆく映像を配信するなど、非常に残忍だと思う。
しかし単に「テロはダメっ」と言って非難したとしても、多くの疑問は残る。
暴力によるテロが攻撃しているのは、欧米の経済によるテロに対する報復だとしたら、目に見えるテロだけがテロではないのだから。
また、日本でいう「テロはなぜダメか?」については、
「テロは暴力だから、暴力で命を奪うことがあるから。人命は何よりも大事なものだから。」という論拠であって、
では、「なぜ、人命より大事なものは無いのか?」という問いに答えられる者などいない。
こういうことから、人命第一主義のヒューマニズムにあぐらをかいて、目に見えるテロだけを標的にする日本のジャーナリズムはどこか茶番でないか。
ジャーナリズムはテロがもたらす結果としての「残忍さ」だけに着目するが、テロの原因や背景についてその正当性を追究しない。
なぜなら、何があっても暴力はいけないという前提が支配している以上、そこからいくら正当性を与えても人々を説得しきれないから。
ところが「残忍さ」という踏み台さえあれば「悲しみ」を派手に演出できる「ヒューマニズム」はジャーナリズムにとって相性がいい。それなら「ヒューマニズム」路線でいこうと、、要は万人受けする方をジャーナリズムは選んだに過ぎないのである。
結局、正義面してテロの酷さをあげつらいはやし立てることこそ、残忍さを楽しんでいる行為なのであって、日本のジャーナリズムこそ真の「残忍」ではなかろうか。
そして日本人ジャーナリストは殺害された。更にイスラム国は、アメリカに加担する日本国民はどこにいても虐殺すると宣言した。
アメリカ発の経済によるテロを容認し続けてきたツケとして今、「テロル」による手痛いしっぺ返しが始まったばかりである。
いきなり「どうも~」と、。
そして今度はこちらを向いて、「ママ友で~す!」だと言ってニコニコしてきた。
一瞬で「そんなはずはない」と悟ったオレは、かみさんに後で聞いたところ、ある場所で顔見知りになったその日から「メアド教えて」とか「今度お茶しましょう」といったノリで接してきたらしく、やはり一瞬で嫌悪感をいだいたようである。
以後、その場所で女と鉢合わせするたびに面倒なので「携帯は持ってない」(本当に持ってないのだが)と拒否つづけてきたそうだが、
この女のツレに韓国人の女がいて、どうやらバックエンドに新興宗教かネットワークビジネスか何らかの“勧誘”が垣間見えたのが決定的だった。
韓国人だからというわけではなく、やはり外国人からの勧誘となるとそれだけで不気味でないか。
最近、わが町3丁目ではここ数年で外国人が急増している。それは肌で実感できるものである。
すれ違ったカップルが韓国人で、続けて更に東南アジアのグループとすれ違う。
住んでるアパートにも中国人の新婚家庭が2組もある。
といった具合に。
そのこと自体ですぐに町の文化や日本的な様式が壊れてゆくという話に直接結びつく訳ではないが、「よそ者」が増えていることには変わりない。
これは外国人差別や偏見、排外主義の宣伝ではなく、肌で感じる違和感であり、3丁目にヒタヒタとなじみのないよその得体のしれないものが迫ってくることへの拒否反応である。
これが正直な実感である。
そして、テロ組織と非難されているイスラム国が繰り返す行為の発端もこの「よそ者への拒否」と原理は同じでないか。
彼らは欧米が勝手に引いた国境線を引き直すと言っている。
どういうことか?
国境線がある国特有のかかえる問題として、ロシアと周辺国、中国とチベットなど世の中のあらゆる国境線付近では常に紛争が絶えない。イスラム国も同様に。
気に食わないよそ者と陸続きで暮らしている以上、当然の成り行きかも知れない。
そして、イスラム国にとって国境線を引き直すこととは、ヨルダンと敵対することは表面上のことで、根底にある欧米の石油メジャー利権や経済ルールが中東地域を取り込んで行くことに対する拒否、欧米文化の強制に対する「NO」なのである。
外国人を次々と人質にして身代金を要求する。交渉成立しなければ処刑する。
ここだけを切り取れば、残虐集団として非難されるしかない。
確かに、人質に取った外国の兵士を並べて斬首してゆく映像を配信するなど、非常に残忍だと思う。
しかし単に「テロはダメっ」と言って非難したとしても、多くの疑問は残る。
暴力によるテロが攻撃しているのは、欧米の経済によるテロに対する報復だとしたら、目に見えるテロだけがテロではないのだから。
また、日本でいう「テロはなぜダメか?」については、
「テロは暴力だから、暴力で命を奪うことがあるから。人命は何よりも大事なものだから。」という論拠であって、
では、「なぜ、人命より大事なものは無いのか?」という問いに答えられる者などいない。
こういうことから、人命第一主義のヒューマニズムにあぐらをかいて、目に見えるテロだけを標的にする日本のジャーナリズムはどこか茶番でないか。
ジャーナリズムはテロがもたらす結果としての「残忍さ」だけに着目するが、テロの原因や背景についてその正当性を追究しない。
なぜなら、何があっても暴力はいけないという前提が支配している以上、そこからいくら正当性を与えても人々を説得しきれないから。
ところが「残忍さ」という踏み台さえあれば「悲しみ」を派手に演出できる「ヒューマニズム」はジャーナリズムにとって相性がいい。それなら「ヒューマニズム」路線でいこうと、、要は万人受けする方をジャーナリズムは選んだに過ぎないのである。
結局、正義面してテロの酷さをあげつらいはやし立てることこそ、残忍さを楽しんでいる行為なのであって、日本のジャーナリズムこそ真の「残忍」ではなかろうか。
そして日本人ジャーナリストは殺害された。更にイスラム国は、アメリカに加担する日本国民はどこにいても虐殺すると宣言した。
アメリカ発の経済によるテロを容認し続けてきたツケとして今、「テロル」による手痛いしっぺ返しが始まったばかりである。