3丁目のテロル | 「異端児、常識を疑う」

3丁目のテロル

かみさんとスーパーに行った時のこと、あか抜けない女が前から近づいてきて、
いきなり「どうも~」と、。
そして今度はこちらを向いて、「ママ友で~す!」だと言ってニコニコしてきた。

一瞬で「そんなはずはない」と悟ったオレは、かみさんに後で聞いたところ、ある場所で顔見知りになったその日から「メアド教えて」とか「今度お茶しましょう」といったノリで接してきたらしく、やはり一瞬で嫌悪感をいだいたようである。
以後、その場所で女と鉢合わせするたびに面倒なので「携帯は持ってない」(本当に持ってないのだが)と拒否つづけてきたそうだが、
この女のツレに韓国人の女がいて、どうやらバックエンドに新興宗教かネットワークビジネスか何らかの“勧誘”が垣間見えたのが決定的だった。
韓国人だからというわけではなく、やはり外国人からの勧誘となるとそれだけで不気味でないか。

最近、わが町3丁目ではここ数年で外国人が急増している。それは肌で実感できるものである。
すれ違ったカップルが韓国人で、続けて更に東南アジアのグループとすれ違う。
住んでるアパートにも中国人の新婚家庭が2組もある。
といった具合に。

そのこと自体ですぐに町の文化や日本的な様式が壊れてゆくという話に直接結びつく訳ではないが、「よそ者」が増えていることには変わりない。
これは外国人差別や偏見、排外主義の宣伝ではなく、肌で感じる違和感であり、3丁目にヒタヒタとなじみのないよその得体のしれないものが迫ってくることへの拒否反応である。
これが正直な実感である。

そして、テロ組織と非難されているイスラム国が繰り返す行為の発端もこの「よそ者への拒否」と原理は同じでないか。
彼らは欧米が勝手に引いた国境線を引き直すと言っている。

どういうことか?

国境線がある国特有のかかえる問題として、ロシアと周辺国、中国とチベットなど世の中のあらゆる国境線付近では常に紛争が絶えない。イスラム国も同様に。
気に食わないよそ者と陸続きで暮らしている以上、当然の成り行きかも知れない。

そして、イスラム国にとって国境線を引き直すこととは、ヨルダンと敵対することは表面上のことで、根底にある欧米の石油メジャー利権や経済ルールが中東地域を取り込んで行くことに対する拒否、欧米文化の強制に対する「NO」なのである。

外国人を次々と人質にして身代金を要求する。交渉成立しなければ処刑する。

ここだけを切り取れば、残虐集団として非難されるしかない。
確かに、人質に取った外国の兵士を並べて斬首してゆく映像を配信するなど、非常に残忍だと思う。
しかし単に「テロはダメっ」と言って非難したとしても、多くの疑問は残る。
暴力によるテロが攻撃しているのは、欧米の経済によるテロに対する報復だとしたら、目に見えるテロだけがテロではないのだから。

また、日本でいう「テロはなぜダメか?」については、
「テロは暴力だから、暴力で命を奪うことがあるから。人命は何よりも大事なものだから。」という論拠であって、
では、「なぜ、人命より大事なものは無いのか?」という問いに答えられる者などいない。

こういうことから、人命第一主義のヒューマニズムにあぐらをかいて、目に見えるテロだけを標的にする日本のジャーナリズムはどこか茶番でないか。

ジャーナリズムはテロがもたらす結果としての「残忍さ」だけに着目するが、テロの原因や背景についてその正当性を追究しない。
なぜなら、何があっても暴力はいけないという前提が支配している以上、そこからいくら正当性を与えても人々を説得しきれないから。
ところが「残忍さ」という踏み台さえあれば「悲しみ」を派手に演出できる「ヒューマニズム」はジャーナリズムにとって相性がいい。それなら「ヒューマニズム」路線でいこうと、、要は万人受けする方をジャーナリズムは選んだに過ぎないのである。
結局、正義面してテロの酷さをあげつらいはやし立てることこそ、残忍さを楽しんでいる行為なのであって、日本のジャーナリズムこそ真の「残忍」ではなかろうか。

そして日本人ジャーナリストは殺害された。更にイスラム国は、アメリカに加担する日本国民はどこにいても虐殺すると宣言した。
アメリカ発の経済によるテロを容認し続けてきたツケとして今、「テロル」による手痛いしっぺ返しが始まったばかりである。