西部邁基調講演「アベノミクスと改憲の是非を問う」
8/2(金)に西部邁氏主催シンポジウム「アベノミクスと改憲の是非を問う」へ行ってきた。
会場は日比谷公園向かいの日本記者クラブのプレスセンタービル10Fで、ちょうど区の体育館くらいの広さの場所だった。
定員は300名だったが、340名以上を入場できるようにしたが、400名以上の応募があったらしく、断られた人もいたらしいです。
前半はアベノミクスがこの先どういう舵取りをすればよいか、またどういう逆境が待っているかについてのテーマ、そして後半は憲法論議についてで、改憲の是非を問うというよりも、憲法とはどういうものであるのか根本的な話を西部邁氏、中野剛志氏、柴山桂太氏が順番に論じられていった。
前半のテーマでは、安倍自民党が崩れる主な要因として3つ挙げられた。
参院選で自民党が圧勝したことにより、政局が安定してうまくゆけば長期政権が期待される。
そんな中でとても退屈してしまってる人たちがいる。
それがマスメディアだと。
とにかく何かネタになるスキャンダルをマスメディアは探している。
ついこの間、麻生財務大臣の「ナチス発言」の報道があったが、まさにこれである。
麻生氏はナチスを礼賛するような発言をしたと言われているが、まったく逆で、「憲法改正は、かつてドイツでナチスが戦争の動乱に乗じて伝統的憲法であるワイマール憲法をどさくさに紛れて改正してしまったが、日本でもそういうドタバタの中で憲法改正はやらないように、ドイツに見習おう」というのが正しい内容でした。
この報道は真実を捻じ曲げてでっち上げられたものであって、スキャンダルというよりデマ報道である。
それが新聞、テレビで本当かのように流される。これはとてつもなく手ごわい。
マスコミに足を引っ張られて安倍自民党が崩れるという不安が1点目。
それから米・中列強との関係で外交における判断ミスによって追いつめられるというのが2点目。
そして3点目にアベノミクス3本の矢の空中分解が指摘された。
2点目と3点目は密接に関連している。
アベノミクス1と2本目の矢である「大胆な金融政策」、「機動的な財政政策」は主に日本国政府が主導してコントロールするものであるが、これは米・中が推進するグローバリゼーションとは真っ向から相反する。そして今後どういう経済の道筋をたどるか指針であるアベノミクス3本目の矢「成長戦略」は民間主導で行うことになっており、グローバリゼーションと非常に相性がよい。
なぜなら、政府の規制を排し、国境なき自由な経済活動を掲げ、「政府は余計な口を出すな、民間の自由を邪魔するな」というのがグローバリゼーションだからである。
となると、アベノミクス3本の矢はそれぞれの矢の方向性が内部で真逆になっていて、いずれ空中分解してしまうというのである。
なぜ成長戦略がグローバリゼーションを根本に考えられているかは、戦略にかかわる人たちが新自由主義的な発想を持った政治家、官僚、知識人で構成されているからである。
では新自由主義的な発想を持った人を排除すれば済む話なのだろうか。
そうではないと、このシンポジウムで中野氏、柴山氏は述べられていた。
そして、この新自由主義が台頭してくる背景に、政府の統治能力のおとろえが関係しているという。
政府の統治能力、とは何か?
サラリーマン風情にに政府の統治能力や国家観と言われても、一見何のことだか関係ないように見えるが、西部邁氏は次のような表現をされていたので、少なからずどこかで自分と関わってくるものだと改めて思い知らされたのである。
それは後半の憲法論議のところで話されていたことだが、
「国家は作るものでなく、成長するもの」ということである。
別の表現では「国家は建設するものでなく、どう引き継ぐか」とも話されていた。
国家や政治とかは良きリーダー、カリスマリーダーが現れて、その人たちが政策をうまく編み出してよい国家や政治が構築されて、国民が幸せになるという風に思われがちである。
だが、それは設計主義といううぬぼれであると。
成長戦略など、いかなるすばらしい政策論議がされて編み出された政策にしろ、国家の根本規範や国柄に基づかない議論なら、それで編み出された政策はしょせん設計主義的で人間には誤謬性(間違いを犯してしまうもの)があることを忘れてしまっているのだと。
理想を打ち立て、それを実現するのに技術を駆使して、すばらしい仕組みや制度を創ったとしても、もし人間が本当の危機に瀕したとき、技術や理想というのはいざというときには何もしてくれないが、国家の根本規範や国柄となるものの感じ方や人とのつながり方といった「人間の精神の力」を大事にしていればその危機に対応できる。
設計主義というのは想定できることに対しては、理論がたくさん盛り込まれていて一見完璧に見えるが、いざ想定外の本当の危機に瀕したときは、技術を越えたところで、よりどころにするものがなく、やがて崩壊する。
だから、国家はいきなり建設してうまく機能するものでなく、いかに大事なものを後生へ引き継いでゆくか、そうやって成長するものなのだと。
今までそうやって、危機を乗り越えてきたのだから、人間の精神の力はこれからも大事に受け継いでゆこうよ、そしてどうやって受け継ぐのかは、口伝えや伝統として受け継がれたり、時には常識として不文律で受け継がれるが、決して設計書に書かれた条文で受け継がれるものではないし、慣習とか形の中に埋め込まれた伝統は感覚でしか受け継ぎようがない部分もある。こういう人間の精神の平衡術に関わってくることは、一介のサラリーマンであろうが、何がしかの専門家であっても国家観というものは関わらざるを得ないということなのです。
サラリーマン風情というものは、経団連や上場企業からそうであるように、新自由主義というひとつの方向性に従わざるを得ない集団であるのは間違いない。
であるから、サラリーマン文化というものは、どこかで政府の統治能力を衰えさせるという、この矛盾にどう携わってゆくか。
難題である。
会場は日比谷公園向かいの日本記者クラブのプレスセンタービル10Fで、ちょうど区の体育館くらいの広さの場所だった。
定員は300名だったが、340名以上を入場できるようにしたが、400名以上の応募があったらしく、断られた人もいたらしいです。
前半はアベノミクスがこの先どういう舵取りをすればよいか、またどういう逆境が待っているかについてのテーマ、そして後半は憲法論議についてで、改憲の是非を問うというよりも、憲法とはどういうものであるのか根本的な話を西部邁氏、中野剛志氏、柴山桂太氏が順番に論じられていった。
前半のテーマでは、安倍自民党が崩れる主な要因として3つ挙げられた。
参院選で自民党が圧勝したことにより、政局が安定してうまくゆけば長期政権が期待される。
そんな中でとても退屈してしまってる人たちがいる。
それがマスメディアだと。
とにかく何かネタになるスキャンダルをマスメディアは探している。
ついこの間、麻生財務大臣の「ナチス発言」の報道があったが、まさにこれである。
麻生氏はナチスを礼賛するような発言をしたと言われているが、まったく逆で、「憲法改正は、かつてドイツでナチスが戦争の動乱に乗じて伝統的憲法であるワイマール憲法をどさくさに紛れて改正してしまったが、日本でもそういうドタバタの中で憲法改正はやらないように、ドイツに見習おう」というのが正しい内容でした。
この報道は真実を捻じ曲げてでっち上げられたものであって、スキャンダルというよりデマ報道である。
それが新聞、テレビで本当かのように流される。これはとてつもなく手ごわい。
マスコミに足を引っ張られて安倍自民党が崩れるという不安が1点目。
それから米・中列強との関係で外交における判断ミスによって追いつめられるというのが2点目。
そして3点目にアベノミクス3本の矢の空中分解が指摘された。
2点目と3点目は密接に関連している。
アベノミクス1と2本目の矢である「大胆な金融政策」、「機動的な財政政策」は主に日本国政府が主導してコントロールするものであるが、これは米・中が推進するグローバリゼーションとは真っ向から相反する。そして今後どういう経済の道筋をたどるか指針であるアベノミクス3本目の矢「成長戦略」は民間主導で行うことになっており、グローバリゼーションと非常に相性がよい。
なぜなら、政府の規制を排し、国境なき自由な経済活動を掲げ、「政府は余計な口を出すな、民間の自由を邪魔するな」というのがグローバリゼーションだからである。
となると、アベノミクス3本の矢はそれぞれの矢の方向性が内部で真逆になっていて、いずれ空中分解してしまうというのである。
なぜ成長戦略がグローバリゼーションを根本に考えられているかは、戦略にかかわる人たちが新自由主義的な発想を持った政治家、官僚、知識人で構成されているからである。
では新自由主義的な発想を持った人を排除すれば済む話なのだろうか。
そうではないと、このシンポジウムで中野氏、柴山氏は述べられていた。
そして、この新自由主義が台頭してくる背景に、政府の統治能力のおとろえが関係しているという。
政府の統治能力、とは何か?
サラリーマン風情にに政府の統治能力や国家観と言われても、一見何のことだか関係ないように見えるが、西部邁氏は次のような表現をされていたので、少なからずどこかで自分と関わってくるものだと改めて思い知らされたのである。
それは後半の憲法論議のところで話されていたことだが、
「国家は作るものでなく、成長するもの」ということである。
別の表現では「国家は建設するものでなく、どう引き継ぐか」とも話されていた。
国家や政治とかは良きリーダー、カリスマリーダーが現れて、その人たちが政策をうまく編み出してよい国家や政治が構築されて、国民が幸せになるという風に思われがちである。
だが、それは設計主義といううぬぼれであると。
成長戦略など、いかなるすばらしい政策論議がされて編み出された政策にしろ、国家の根本規範や国柄に基づかない議論なら、それで編み出された政策はしょせん設計主義的で人間には誤謬性(間違いを犯してしまうもの)があることを忘れてしまっているのだと。
理想を打ち立て、それを実現するのに技術を駆使して、すばらしい仕組みや制度を創ったとしても、もし人間が本当の危機に瀕したとき、技術や理想というのはいざというときには何もしてくれないが、国家の根本規範や国柄となるものの感じ方や人とのつながり方といった「人間の精神の力」を大事にしていればその危機に対応できる。
設計主義というのは想定できることに対しては、理論がたくさん盛り込まれていて一見完璧に見えるが、いざ想定外の本当の危機に瀕したときは、技術を越えたところで、よりどころにするものがなく、やがて崩壊する。
だから、国家はいきなり建設してうまく機能するものでなく、いかに大事なものを後生へ引き継いでゆくか、そうやって成長するものなのだと。
今までそうやって、危機を乗り越えてきたのだから、人間の精神の力はこれからも大事に受け継いでゆこうよ、そしてどうやって受け継ぐのかは、口伝えや伝統として受け継がれたり、時には常識として不文律で受け継がれるが、決して設計書に書かれた条文で受け継がれるものではないし、慣習とか形の中に埋め込まれた伝統は感覚でしか受け継ぎようがない部分もある。こういう人間の精神の平衡術に関わってくることは、一介のサラリーマンであろうが、何がしかの専門家であっても国家観というものは関わらざるを得ないということなのです。
サラリーマン風情というものは、経団連や上場企業からそうであるように、新自由主義というひとつの方向性に従わざるを得ない集団であるのは間違いない。
であるから、サラリーマン文化というものは、どこかで政府の統治能力を衰えさせるという、この矛盾にどう携わってゆくか。
難題である。