「異端児、常識を疑う」 -16ページ目

異常性欲

テレフォン人生相談というラジオ番組がある。一般の人の様々な悩みを電話で答える15分番組で、聴取率(テレビでいう視聴率)は非常に高く40年以上も続いている。
これにオレが20年前から知っている加藤諦三先生もパーソナリティーとして出演している。

最近の人生相談の内容は、非常に現代的ともいえる。
子どもを虐待してしまう30歳の母親、妻と同居する妻の母とも肉体関係がある47歳の男。
中でも、7歳の娘に性的いたずらをする父親、女装癖があってとがめると妻の前でオナニーをする67歳の夫というように異常な性欲についての相談も目立つ。

いずれも家族関係の根幹にかかわる問題で、人生に破綻してることが見える内容だ。

異常な性欲が表面化するのにも理由はある。
近親相姦や幼児虐待は道徳的にいけないことなのは理解できる。
だが人間の異常性や鬼畜性が内面で抑えられてるか、表面に出てくるかの違いだけで、鬼畜性が現に存在してしまってることからは目を背けられない。
しかし真っ当な人間であれば、近親相姦を強要された側の子供は深く傷つくこと、世間にバレたら社会的信頼を大きく失うことは容易に分かるはずである。
だから例え自分が異常な性癖があるとしても、理性がはたらいて抑えられるはずだが、表面にでてしまう。

表面に出すことに抵抗がなくなっているのである。

7歳の娘に勃起したナニをくわえさせ射精した父親は公務員で地域の子供たちに剣道を教えてるらしい。
社会的に見れば立派な人である。
しかし社会的生活が普通に出来てるのにもかかわらず異常性があらわになること。これはまさに破綻しているのです。
一見、社会生活の舞台では普通に振舞ってように見えるが、社会に対してあざむけるという、ずるい知恵がはたらいてるのかも知れない。
破綻していても人生が継続できているという錯覚を持ってしまっていて、破綻していることに気づけない、事の重大さに気づかないのである。

なぜ破綻していることに気づかないのか。

破綻とは?

大事にするものが分からない、決められない、そういうことと深く関連している。
これだけ安定した社会だとあからさまに大事なものが分らないのは無理もなく、大事なものと思しきものは当たり前にあるから、こう言い換えれば分るかもしれない。

「この一線だけは譲れないもの」つまり守るべきものと言い換えてみてはどうか。
7歳の娘を親である自分が性の対象にすると、己の異常性の欲求は達成されるが、その記憶が残った娘はいずれ大きく傷つく。
それだけは避けなければならない。
己がどんな変態であれ、これ以上越えたらまずいと思うのはごく当たり前のことであり、想像力をはたらかせると、理性を失ったフリーセックスの社会はもはや人類として滅びに入ること、その序章をオレはやってしまっているという恐ろしさを感じる力が失われているのである。
この当たり前のことが崩壊している。
これが破綻しているということである。

この破綻が日常に現れてきた理由が、もし近代のせいであるならば、やはり個人主義のせいである。
この場合、築き上げた信頼や家庭を一瞬にして崩壊させることに対するストッパーが効かなくなってるということである。

個人の自由を突き詰めてゆけば、個人の純粋な欲望を妨げるストッパーは自由の障壁になる。
最も優先させられるのは個人だからだ。
逆にいえば、集団に対する配慮、他人に対する思いやりが厄介ごとや負荷になる、それが行過ぎた個人主義なのである。

かつて集団への敬意は、個人の意志や自由を放棄するものとしてずっと嫌われてきた。個人主義が礼賛されてきた歴史的背景はこういうところにある。
しかし集団に対する配慮というものは、個人や個性を押しつぶすものと考えられる反面、人間個人が大事にするものは何かを定義するときにひとつの指標になるのである。
とりあえず人のために、会社という集団のためにオレの存在意義があるのだとひとまず思える。
やっぱり人間個人の理性で何が大事かを選択できるほど、理性とはあてにならないもので、ひとまず会社に泥を塗らないように変なことはよそうとなるし、そうやって忠誠をつくしてる会社にもかかわらず不満が出てくれば、そのときこそ本当に大事なものも真剣に探す気が起こるものです。

つまり、自由に対する抑圧を全部取り払えばいいというものでもないということです。

そして集団主義がいいということではなく、個人の自由が至上価値だという個人主義が行過ぎた時代が今なのだという視点をまず持つことから始めるべきだということなのです。

「僕の命は僕のもの、人の命は宇宙より重い」チャンチャラおかしい。
そういう輩は「お前が死んでも地球にとって何の影響もない」、そんな逃れられない現実から、個人の自由を語る旅に出発してみせよ。
そうすれば「オレが出来ることはせめてこの子供を守ることぐらいかも知れないが、それぐらいは立派にやってみせよう」と謙虚さが生まれてくるものです。

先に勝ってる者が勝ち続ける

消費税が5%や10%になろうとしている。
国家の収入(歳入)は税金だけでなく、借金(国債などの発行)することでもまかなえるわけだが、ここでは税金のことについて考えてみた。
なぜなら、税負担というものの性質をよく見ることで、今の格差のあり方が見えたからだ!

応益負担と応能負担というのがある。

所得税や法人税というのは、収入が多ければ多いほど課税される。これを累進課税といって、貧乏人は少ない税負担で済み、年収1億円の金持ちには何千万円も課税してもまだ数千万円残るから生活に困ることはないので、国民ひとりひとりの生活水準は公平に保たれる。
こういう税の考え方を、能力に応じて負担する「応能負担」という。

逆に消費税というのは、どんな金持ちでもどんな貧乏人でも1万円の物を買うと同じ税金を支払わなければならない。たとえ1万円でも金持ちにとっての1万円と貧乏人にとっての1万円は重さが違う。だから貧乏人には実質負担増となり、金持ちはそんなに負担にならない。だが受けるサービスに対して平等に課税されてるから公平な課税だという考え方ともいえる。
こういう税の考え方を、受ける利益に応じて負担する「応益負担」という。

応益負担と応能負担どちらが公平なのか。
これは税だけを議論するときいつも対立する意見でもある。

いつの時代でも大企業や財界人、すなわち稼いでる身分の人々は発言権が強い。
だから「応益負担」が支持される。
要するに金持ちから税金を取りすぎるなという意見である。
しかし不況で稼げる人がドンドン少なくなるなると、応益負担では自然と格差が開くばかりになる。

そしてこのありえないほど付いてしまった格差、超格差が現代かかえる格差問題の本質なのである。

本来目指すべきはほどよい格差なのである。
社会主義のような悪平等を目指すのではなく、がんばった者はがんばった分の見返りが約束され、その反面サボれば収入も下がる。
そうなればほどよく格差が保たれるはずだが、何にもしないで儲かってしまうとあっという間に超格差が付いてしまうのです。

しかし貧乏人でもがんばれば貧困から抜け出せる税負担、社会構造を求める者は少ない。
なぜなら、応益負担だと「おいしい」からである。
金持ちをねたみながら、実は自分がそのポジションになったとたんに応益説を支持してしまう。

金持ちはその地位を守ることだけ、貧乏人は楽して稼げるポジションだけを求めているわけです。
これはつまり、「先に勝っている者が勝ち続けられるポジション」のイス取りゲームに明け暮れているということで、彼らが言う競争に勝つと言う事は、つまるところ競争相手と同じ土俵に上がって勝負することではなく、自分達の足かせになるものを取り除く、つまり一人勝ちをすることなのである。


誰にとって良い課税負担かではない。
健全な課税負担とは何か、そんな風に考えられるかだ。

こんな身近なこととは言えないようなことを考える暇もなく、否応なしに我々は貧乏物語という日常を演じ続けねばならない。
しかし北朝鮮で親に捨てられた幼児が残飯をあさっていて、あるとき「オレは何のために生きてるのか」と社会の中にいる自己を意識したとたんに、自己とは何か、社会の正義とは何かという問いを持たざるを得なくなる。
それと同じようにこういう問いは我々が拒否しようとも、容赦なく降りかかっているのである。

デフレ、ほんとうの恐ろしさ

デフレとは、物の値段が下がり続けることで、お金の価値が上がり続けることと定義される。
お金を持っていれば資産価値が上がり続けるので、使うのはバカなことになる。

例えば住宅ローンの金利を0%にしても、デフレでは住宅そのものの値段が下がり続けるので、
ローンを組んだら損をする。3000万円で買った家が、将来500万円になるから、金利が0でも損をするという構図である。
逆にインフレ(物の値段が上がり続ける)だと、金利が5%でも住宅そのものの値段が10%ずつ上昇すると得をする。
こうやって、個人の買い物では最大の消費である住宅ローンが売れないというのが、デフレの代表的な現象でもある。

戦後、デフレが10年以上も続いてるのは世界でたったひとつ日本だけです。

デフレで所得格差が極端に開いてしまってることも、デフレに陥った1997年以降、自殺者が3万人を毎年ずっと越えてることも国民レベルでは実感してる人も少ないのでは?
また、インフレが行過ぎるとバブルになるが、ゆるやかなインフレが一般的には心地よいとされる。
なぜデフレはこんなにしぶとく、脱出することが困難なのか?

例えば、子ども手当は政府が行ったデフレに対する経済刺激策とされる。この狙いは負担が多いであろう核家族へ手当てによって消費にあててもらおうというものであった。が、蓋を開けてみるとデフレという物を買うのを控えたい雰囲気のときに、呑気にお金を使ってなんていられず、結局貯蓄にまわってしまったという失敗劇に終わってます。
というより、核家族世帯だけの消費で克服しようなど、本気でデフレ克服策を考えていたとも思えない。
単に「お金上げますよ」をエサに政権交代を勝ち取った民主党の作戦だという見方が正確だろう。

子ども手当などではビクともしないデフレの圧力は、もっと大きな波が支配している。
それは何か?

グローバル化という波です。

大企業は専ら、このグローバル化路線を推進している。
グローバル化とは、新興国の低賃金労働と競争することを余儀なくされ、日本人も低賃金にするか、いっそのこと外国人を安く雇って日本人の失業者が増えてしまう結果も止むを得ないとする状況のことである。
企業はもうけを出すことが使命であり、今いる従業員を守るためにもコストカットは仕方がない。これがグローバル化に飲み込まれた結果である。

グローバル化が進めば進むほど、デフレを止めるのは至難の業ということです。
景気をよくするには企業が儲かり、従業員が儲かり、そして消費に回る。だからグローバル化をバックアップせよと、大企業の集まりである経団連も政府にこの市場原理主義路線を強く求めています。

グローバル化、これがデフレ圧力の最大要因です。

では、この先子供手当ても止めて政府はどこにお金を使えばデフレを抑えられるのか?

経済学の言葉でいうと「有効需要」というものにお金を使えばよいらしいが、簡単にいうと公共投資です。
特に震災復興や首都圏へ10年以内に70%の確率で発生するといわれる大地震の防災など、国土のインフラ整備などです。

公共投資というと、借金をして行わざるを得ない。
だから反対意見がある、「国の借金が…」と。

公共投資の性格とは、今、新幹線を東京から北陸へ迂回して大阪に行くような東海道新幹線の予備の路線を作っても意味がないとされる。要するに無駄だと。しかしこれは家計の考え方で、国民経済という真の資本主義の考え方ではない。
首都圏や東海で大震災がもし起きたとき、北陸へ迂回するルートがあれば物資の輸送や助けにもゆける。
つまり現在の支出が現在の利益にならなくても、将来の利益になるということです。
真の資本主義とは、自分が支出したものが、自分が死んだ後、将来誰かの利益になるかもしれない。
こういう広いモラルで支えられるのが、真の資本主義と、シュンペーターという経済学者は言っている。

シュンペーターは家族という集団も大事にしている。その意味は、自分の生きてる時間より先のことを考える手段として、子供という存在があるという、単に子供がかわいいからだけでなく守る意味をバカな人間にも教えてくれています。
そして、シュンペーターは核家族化して、家族が細かく解体されてゆくと資本主義も死ぬと言っています。

デフレ、ほんとうの恐ろしさ
それは家族問題、そんなところにも及んでいるのです。

ショックドクトリン

まず、仲間から引き離し孤立させ、独房で電気や水などでショックを与え、記憶を消滅させる。
そうすると人間は人格改造されやすくなるというショック療法がある。

CIAがテロリストや捕虜を人格改造させるのに使ったこの方法をビジネスに利用するのが1980年代から流行している。
これをショックドクトリンという。

これを解き明かしたのは、カナダの女性ジャーナリストであるナオミ・クライン氏、41歳。

例えば、2004年のスマトラ地震の被災地に大資本が投入され大リゾート地が作られるビジネスが展開されたり、ハリケーン・カトリーナが襲ったニューオールリンズでは、公立の学校が廃校にされ、教育バウチャー制度の社会実験が行われたりした。
これ以外にも多くの実例を挙げて、ショックドクトリンの実態を解き明かしている。

このようにショックドクトリンとは、大自然災害、戦争、テロなど突発的な社会システムの混乱をビジネスチャンスとして捉え、大資本を流入させて、短期で利益を狙う改革や乱暴なやり方のことである。

そして東日本大震災の復興に、ショックドクトリンは「特区」という名で今襲い掛かっている。
要するに被災地でひと儲けを当て込んで、復興を進めているということである。

これの何がいけないのか?

被災地で傷ついた人の中で、漁業を生業とするある男性がこのように言った。

「オレは何度津波が来てもここで漁業をやる」と。
被災民としての、どう復興したいかを表現したひとつの端的な例である。

これは非常に伝統に根ざした、人間の根本的な生き方ともいえます。
先祖から何十年も漁業をやっていて、それを自分の代で途絶えさせたくない。あるいは自分の命ひとつと引き換えに、漁業民同士の共同体を壊すことは、それ以上に大きなものを失うのではなかろうか。
この思いの根拠は、そんな風にも想像できます。

自分が暮らした土地で自分の生業を取り戻す。

これが復興の基本のはずだが、震災で何ヶ月も政府からほったらかしにされた東北の人々は、ショックドクトリンによって「何でも受け入れてしまう」精神状態が芽生え始めていても不思議ではないのです。
復興が遅れ、被災生活が極限に来ていれば、それがたとえ大資本家の短期の儲け話でも、受け入れてしまいかねないのです。

自分が暮らした土地も生業も捨て、安全な場所に移住することは、ショックドクトリンからすれば、その人たちの安全を考えているわけではない。
むしろ共同体の破壊、地域の切捨て、即ち、「弱者切捨て」につながることを思い知らる必要があります。

そして、何度津波が来てもここで漁業をやると言った男性の生き方が、なぜ忠実な生き方と言えるのだろうか?

ごく単純な話で、震災だろうが、混乱だろうが、それらの人間が生きてるうえで直面する苦難に対し、抵抗したり、防災したり、被害を受けたらケアしたり手当てして、グッとこらえて守るべきものを守ることこそが、そこの共同体で暮らす忠実なあり方であるのに対し、ショックドクトリンのもたらす惨事に骨抜きにされ、何かにすがったり、単純なものに安易に飛びついてしまうことは、いわゆる新興宗教に飛びつくのと同じで、人間が危機に直面したときの大事な振舞い方を消滅させてしまうことになるからなのです。

ショックドクトリンとはビジネスチャンスという目的のために発動されるものです。ビジネスのチャンスを成功に導くために、ショックを利用したり、意図的に作り出したりするものなので、ビジネスに組み込まれる人のことは全く考えていません。こういう考え方を「新自由主義」といいます。
新自由主義に自分の生活や雇用が飲み込まれないようにするには、新聞やテレビの意見を聞くことでも、新橋の飲み屋で政治の批判話をすることでもなく、危機に直面したときに何を大事にするかを持っているかどうかにかかっているのです。

何を大事にするかは、素朴な時代でない現代の多様性の中で決定するのは非常に難しく、決断力も必要ですが、ひとつ注意するべきは、損得勘定や世論の意見に流されたりするのが日常的に習慣化してる新自由主義的な発想が、私達自身の体に既にこびりついてるということは常に忘れてはなりません。

レレレのおじさん

かつて町にはおせっかいにも、アナタの行動を監視するおじさんがいた。
「お出かけですか?」
「ええ、ちょっと八百屋まで…」
向こう三軒両隣り、という近所づきあいで安全が担保される習慣のあった頃の話である。

やがてプライバシーを重視することの方が安全という価値に取って変わり、近所づきあいや周囲の目というものはわずらわしいものとなった現代では、“他人に構うな”が他人との接し方の標準となった。
「お出かけですか?」
「ええ、ちょっと(うるせえじじい)…」

電車の中ではマナーの悪い若者に注意すべきかどうか、いまだに答えは見出せていない。

偉そうにおじさんがマナーを注意すると、そのおじさんがルールになってしまい、「何でお前の言う事を聞かなけりゃならない」と、子供から反論をされてしまうからです。

この見知らぬ誰かが怒らないと仕方がない状況とは、何なのか。

かつて子供らの行動範囲というものは、電車に乗る必要もほとんどなく、せいぜい近所か町内といった狭いエリアに限定されていた。
そして町中にはレレレのおじさん的な、防犯の役目となる人や子供らの悪さを寸止めする効力となる人がいたのです。
「あのおっさんの前ではおとなしくしていよう」と。
そうすることで、社会に盾突くにはリスクがあると子供たちは自然と学習したのです。

だが、アットランダムに人が集まり、色んな考えの人間が一堂に介す電車の中で、一応の了解を示しあうには、偉そうにおじさんがいくら真っ当なことを言っても聞く耳を持ってもらえるはずもなく、共通のルールやマナーという人じゃないものに中立公平の機能を担わせて何とか安定させているのです。
ところが、ルールやマナーというは空気のようなもので、各人がないと思えば、たちまち効力はなくなってしまいます。

かくして、電車の中という空間は制御不能のカオスとなってお手上げ状態なのです。

しかし、やはり子供にものを教えてやれるのは大人の役割です。

近代社会で暮らす上で、電車のひとつやふたつにも乗るだろう。
そしたら、ルールやマナーをひとまず守らないとやってゆけないのは仕方ないのだよ、
ルールやマナーが絶対的な力があるのではないが、それに寄りかかってゆくしかまとまる方法がないということ、
そんな近代社会の生きにくさを教えてあげられてる大人は本当に少ない。

言い換えれば、レレレのおじさんがいなくなった社会は安全装置がはずされた社会です。
その典型が電車の中なわけで。

電車賃払ってんだから、乗客に権利がある。
大の大人が子供と同じ理屈で納得するしかないほど、私たちはまたしてもこんな自由論を抱いてしまってるのです。

電車の中では「レレレのおじさん」は「変なおじさん」と思われても仕方ないです。
だが「レレレのおじさん」が介入する余地のない社会になってしまってること、このことのリスクを社会は教えてくれません。