レレレのおじさん | 「異端児、常識を疑う」

レレレのおじさん

かつて町にはおせっかいにも、アナタの行動を監視するおじさんがいた。
「お出かけですか?」
「ええ、ちょっと八百屋まで…」
向こう三軒両隣り、という近所づきあいで安全が担保される習慣のあった頃の話である。

やがてプライバシーを重視することの方が安全という価値に取って変わり、近所づきあいや周囲の目というものはわずらわしいものとなった現代では、“他人に構うな”が他人との接し方の標準となった。
「お出かけですか?」
「ええ、ちょっと(うるせえじじい)…」

電車の中ではマナーの悪い若者に注意すべきかどうか、いまだに答えは見出せていない。

偉そうにおじさんがマナーを注意すると、そのおじさんがルールになってしまい、「何でお前の言う事を聞かなけりゃならない」と、子供から反論をされてしまうからです。

この見知らぬ誰かが怒らないと仕方がない状況とは、何なのか。

かつて子供らの行動範囲というものは、電車に乗る必要もほとんどなく、せいぜい近所か町内といった狭いエリアに限定されていた。
そして町中にはレレレのおじさん的な、防犯の役目となる人や子供らの悪さを寸止めする効力となる人がいたのです。
「あのおっさんの前ではおとなしくしていよう」と。
そうすることで、社会に盾突くにはリスクがあると子供たちは自然と学習したのです。

だが、アットランダムに人が集まり、色んな考えの人間が一堂に介す電車の中で、一応の了解を示しあうには、偉そうにおじさんがいくら真っ当なことを言っても聞く耳を持ってもらえるはずもなく、共通のルールやマナーという人じゃないものに中立公平の機能を担わせて何とか安定させているのです。
ところが、ルールやマナーというは空気のようなもので、各人がないと思えば、たちまち効力はなくなってしまいます。

かくして、電車の中という空間は制御不能のカオスとなってお手上げ状態なのです。

しかし、やはり子供にものを教えてやれるのは大人の役割です。

近代社会で暮らす上で、電車のひとつやふたつにも乗るだろう。
そしたら、ルールやマナーをひとまず守らないとやってゆけないのは仕方ないのだよ、
ルールやマナーが絶対的な力があるのではないが、それに寄りかかってゆくしかまとまる方法がないということ、
そんな近代社会の生きにくさを教えてあげられてる大人は本当に少ない。

言い換えれば、レレレのおじさんがいなくなった社会は安全装置がはずされた社会です。
その典型が電車の中なわけで。

電車賃払ってんだから、乗客に権利がある。
大の大人が子供と同じ理屈で納得するしかないほど、私たちはまたしてもこんな自由論を抱いてしまってるのです。

電車の中では「レレレのおじさん」は「変なおじさん」と思われても仕方ないです。
だが「レレレのおじさん」が介入する余地のない社会になってしまってること、このことのリスクを社会は教えてくれません。