「異端児、常識を疑う」 -18ページ目

サラリーマンにとってTPP

TPP参加するのか否か?

TPPとは簡単に言うと、関税を撤廃する自由貿易の協定のことです。
例えば、米が安く輸入されるのです。
関税は物によってバラバラで、白米だと外国産は700%以上も税が掛かっていて、これが撤廃されると外国産は超安売りされるため、日本の米農家が打撃を受けるという訳です。
白米が安く買えるというと、一般市民にとって自由貿易はいいことのように聞こえるが、輸入されるものの中には医療、労働なども実は含まれている。

マスメディアでは農作物の関税だけを争点にしてTPP参加の是非を問うているが、実は医療、労働の方が大きな問題なのです。
これは複雑な話なのだからか、ほとんど報じられていません。

だがここでは医療、労働の自由化がいかに危険かであるかは論じない。
オレ個人の意見など誰も見ていないので、中野剛志氏の「TPP亡国論」や一時発売禁止に追いこまれた関岡英之氏「国家の存亡」を参照するのがよいです。

ここで論じたいのは、一般のサラリーマンにとってTPPは単なるニュースのネタで、反対・賛成でもどっちでもよい、あるいは無関心でも問題ないということです。
そんな議論なんかより、会社の仕事の方がはるかに忙しいわけです。

だから少なくとも賛成・反対を考えるなら、仕事で忙しいサラリーマンにとっては自分たちが「善く生きられる」ためにはどっちがいいのかという基準でしか判断できない。

しかしこの「善く生きられる」というのが、最も取り扱いがやっかいなのです。

「善く生きられる」とは生活が安定するかどうかとか、楽しく生きられるかどうかというようなことです。
つまり生活においての損得の話としてでしか○×をつける基準がない、このことが最も悲しい事実なのです。

「善く生きられる」ことを人生に求めることのどこが悪いのか?

人々の生活が完全に何からも拘束されることなく自由で、個人の利益は個人で高めることができるという、自由至上主義、リバタリアニズム。
平成の時代に暮らす一般国民の生活には当然として浸透しています。
人々は誰しも各々、自己の所有者であるのです。

我々は多かれ少なかれリバタリアニズムなのです。

だから国益よりも、国民個人の利益が優先されたい。これはリバタリアニズムにとって当たり前である。
経済外交が弱まろうが税収が下がろうが、明日自分たちの食べる米代の方が個人にとっては大事。そう思えてしまうのは当たり前である。

しかしこれは最終的に行き着くところは、守るべき最小単位は国家という単位でなく、個人という単位なので、国家としてのまとまりが弱くなるという保守派の意見があります。
つまりTPP賛成・反対の判断が、社会的な「善」からはずれる可能性が大きくなるということです。

リバタリアニズムは良い意味では「人権の尊重」だが、悪い言い方をすれば「自分にしか興味がない」とも言えます。

TPPひとつとっても政治的議論の価値基準が「善く生きられるためには?」となってる風潮に対し、
自己を負荷なきものと捉えてること、自己の所有者として出発することを疑ってみれるか、ここがとても重要です。

では、負荷ありき自己。これはどうでしょうか。
人は自己の所有者ではない、集団の一員としての自己。これはコミュニタリアン的発想です。
集団とは、ひとまず社会になります。

貧しい家庭に生まれる境遇もあれば、大事に育ててくれる家庭環境もありえる。
自己は社会から恩恵を受けていれば、不利益も受けている。
これが負荷ありき自己になるでしょう。

社会と切り離せない自己、集団の一員であるという意識は、リバタリアンの言う意味での個人の自由が疎外されたとしても、社会と何らかの接点が残されているという帰属意識が最後のよりどころになりえる。
秋葉原事件の加藤のような、社会から切り離された自己というものの最後のよりどころになる可能性に掛けてみたい。

コミュニタリアン的発想に立てば、少なくとも「善く生きる」という個人的な善だけを追求する生き苦しさから少しは解放されるのでなかろうか。

そして最後にリバタリアン的もコミュニタリアン的もイデオロギー(主義)になっては元も子もありません。
なぜならイデオロギーとは外から与えられた意見で、自分の意見ではないからです。

このことも肝に銘じておくべきです。

1億円でリタイアだとよ

「1億円じゃリタイアはちょっと無理だよ」
「いくらあれば大丈夫?」
「2億5千万円だな。まず現金で5000万円のマンションを買って、投資金額を…」
夕刻の地下鉄東銀座駅、20代若手サラリーマン風の男2人。
かなり真剣に話込んでる。

最近この手のリタイア話を真剣に考えたり、それを促すような個人投資のススメやビジネス書を本当によく見かける。

金があれば働かなくても済むのは事実だから、リタイアして働かないことがダメだとは言えない。

しかし、これはいくらあればリタイアできるという、単なる金計算の話ではない。
生涯の価値を金額で勘定できるというマネー至上主義が日常には組み込まれているのだとおおよそ検討がつく。

そうやって弾き出された計算で本当に将来は確実なのだろうか?
未来は計算可能なのか?

東日本大地震の津波被害で、防波堤の高さが14メートルだったからいけなかったのか。
あと数メートル高く作ればリスク管理として成立するのか。確かに30メートルならば大丈夫だったかもしれない。
しかし、数字をいかに設定するかに掛かってると考えるのは、津波に限らずどんなリスク管理も計算可能という技術信仰に陥ってるのが近代文明ではないだろうか。

実際に計算が可能か不可能か、技術が完全か不完全かの議論をしたいのでない。
計算や技術は万能だと信じてゆく社会は、いずれグロテスクな考え方をもたらしかねないといいたい。

ノーベル経済学賞を受賞した経済学者、ゲーリー・ベッカーという男がいる。
ベッカーは麻薬は合法にして市場で売買できるようにすればいいと説いた。
その理由は、違法にして闇でマフィアの資金源になるなら、合法化すればまともな市場で儲かるし、マフィアへの資金源が絶てるから得だと、いう説で有名な学者だ。

損得の計算がグロテスクさを露出した典型的な例である。

人間は未来に向けて消費し、子供の学費や住宅にいくらの費用がかかるかだけが分かれば生きてゆけるほど、簡単にはゆかない。
仕事をする意味、男女が一緒にいる意味、といったように何のために生きてるのかと答えの見えない問いを否応ナシに持ってしまう生き物だからだ。

リタイア話を人生ストーリーとして迎え入れることに何のためらいもない程、彼らに「当為」という何をなすべきかを見つける精神の力が近代社会によってそがれている、そのことに気づかないのが最も重大な問題なのです。

「今日は死ぬのに良い日だ」
インディアンは「死」すらも、なすべきことに組み入れてたらしい。
平均寿命をまっとうすることだけが、人生だと言い切ってしまう程、つまらない価値観が横行してるのだなと、かみしめながらくたばってゆきたいものだ。

えっ、オレ?
1億円あったらソッコー会社辞めるね!
この誘惑は強烈だわ。

徹底した家庭人

論客・西部邁氏は徹底した家庭人である。
家庭を最も大事にしていると。そう自らも公言している。

今から20年も前、社会で活躍するたくさんのフェミニストの女性に囲まれながら、その内のひとり石井苗子氏が西部氏に「妻である女性の方が働きに出て、夫である男性が家事についてもいいんじゃないですか」と女性の社会進出に対する肯定論を投げかけた。
妻である女性の方が稼げるなら、なおさら説得力が増す意見だ。

しかし、西部氏はNOと言った。

良かれ悪しかれ、男が女・子供を養う形式で何千年という歴史でやってきたものを、たった今思い浮かんだひとつのアイデアに託して社会構造がよくなるほど甘いものではないのだと。

これは西部氏独自の意見であり、飛躍した考え方かもしれない。
しかし男が女を家庭に縛り付ければいいと言ってるのでなく、女がそんな夫たちに嫌気がさしてることについても認めている。

西部氏が定義する家庭とは、夫婦という決定的に和解しがたい「男と女の関係」、20歳も30歳も離れた親子という「大人と子供の関係」、ペットを飼ってる家庭なら「人間と動物という奇妙な関係」、その他親戚関係、近所づきあいなどなど、絶妙なバランス感覚が必要な、築き上げる甲斐のある非常に面白い関係性がある場所なのだと。

ところが、朝7時に跳び起きて、夜遅くまで家に帰って来れないようなサラリーマン文化を日本は長年受け入れてきたわけで、その代償として男が女を家庭に縛り付け、女がそれに嫌気がさすことになってしまってる。
会社には所詮、くだらない金勘定や命令といったバランス感覚を必要としない平べったい関係性しかないと言う。

つまり女性の社会進出が家庭崩壊の原因ではなく、家庭を築く男女共々が、魅力的な家庭を作れてないことを問題視しているのです。
よく働くだけでは魅力的な家庭が作りきれないということです。

逆に言えば、朝7時に跳び起きて、夜遅くまで家に帰って来れないようなやり方、つまりよく働くことでしか、男は女・子供を守る手段が見つけてこれなかったという悲しい事態に直面しているのです。
そうなれば、バカなのは男の方だが、そんな背景を読み取ることもできない女もバカなのだと言えなくもない。

戦後からこれまでの男女関係の歴史を見ると、魅力的な家庭を作るのにいったい男女間にどんな対話(コミュニケーション)がされてきたのか?

男女の互いに対する不平や不満しか聞こえてこないではないかと西部氏は言う。

不平や不満の声は、やがて男も女も価値観が多様なのだから、男のわがままも女の社会進出も認めるような選択肢を自由に持とうという意見に転倒されてしまった。
「いやなら離婚しましょう、お互いのために」という非常に薄っぺらい議論しか出てこないのです。

ところが、多様な社会と言われながらも実は自由に選択してるようで皆、選択しきれてない。
彼らの言う価値観の選択とは、例えばせいぜい名のある大学に出て、名のある企業に勤め、それを基盤に結婚するといったことで、ほとんど皆同じ選択に最終的には収まっているわけです。
多様とは色んな選択があるかに見えて、社会自体は多様な選択肢を提示しきれてないのが現実で、本当の多様性とは人それぞれ才能の個人差、生まれた環境などの違いによる、言わばその人に「運命」というものを背負わせている、ある意味残酷な区分の仕方なのです。

多様とは「選択が自由」なのでなく、全く逆の「選択の余地がない」ことなのです。
だから選択の余地がないという面があること、つまり運命を引き受けることも人生において認めねばならないのではないでしょうか。
選択の余地がないのに、実は「選択が自由」があると勘違いしてるから、家庭を築くのにうまくゆかないのを何か別の理由を探してしまうのです。

それでも家庭を構築するのに成功しようとするなら、揺るがせにできないものを家庭を作る前提にすえるべきではないでしょうか。

「揺るがせにできないもの」これは運命めいたものをどう引き受けるか真剣に考えれることでしかはっきりとわからないだろうと思います。

ベストセラー炎上「生き方」

京セラ名誉会長であり、KDDIの創業者である稲盛和夫氏。
稲盛氏が経営者としての人生哲学を著したベストセラー「生き方」という本がある。

この「生き方」をはじめ、日本のベストセラー本を、西部邁氏、佐高信氏の共著「ベストセラー炎上」で、ことごとくこき下ろしている。

「生き方」の中には人生哲学としての教訓が数々書かれてある。

「私の成功に理由を求めるなら、人間として正しいことを追求したから」
「人は何のために生きるのか、魂を鍛えるため」
「働くことを通じて、人格の完成を目指す」
「世のため、利他の心で生きる」

そして「ベストセラー炎上」では、のっけから西部氏が「私の成功に理由を求めるなら…」について、「あなたの成功を誰が認めてるの?」と一刀両断にしている。
確かに経済的に成功したから、いわゆる「成功」とするのは、この近代社会では大筋で合っている。しかし「私の成功」を「私」が言うことに、子供っぽさがあるし、それだけで本を読む気がうせると西部氏は言う。

また「世のため、利他の心で生きる」については、世のため、人のためというのはいいとして、世のためというからには世間がどういうものか分かってるのかと、指摘している。
西部氏は世間なんてどんなものか、ほとんど分からないとし、稲盛氏の言う世間とは、せいぜい目の前に囲まれた「会長さま」という部下たちだとしたら大間違いだと言う。
「世のため」といって、おせっかいや迷惑になる場合が往々にしてあるのだから、もう少し慎重に言いなさい、と。

要するに、成功哲学やビジネス書で語られる教訓などは、おじいちゃんが「孫よ、自分のことを考えず、人さまのことを考えなさい」と素朴に語るもので、会長の特等席から大の大人を相手に語ったり、本にしたりしても仕方がない代物だと。

オレもこれには賛成で、人の生き方など、分かりやすく短い標語だけでは、哲学的な洞察を欠いたり、思想的な考察をしなくなるので、本当の窮地に立ったときに役立たないと思う。

誰かが語る「成功」とはいったいどの価値で「成功」と言ってるのか?
その「成功」は成功者の結果論でないか、自己満足ではないか?

まともに成功本など読むべきではない。

誰かが語る「成功」はその背後に数千の「失敗」が存在する。
これは悲観論でなく、単に数の論理である。
なぜなら、全部が「成功」になるならそれは「成功」とは呼ばないからだ。

確率として高い「失敗」をどうアナタは直視しますか?
夢を持つことは大事だが、同時にいつか死ぬということを忘れてないか。

最近、晩婚やモラトリアム(夢追いフリーターなど)が増加してるが、現状に満足できず、何か成功や幸福の完成形を描いてる結果だと思う。簡単にいえば理想主義だ。
夢を追い、気づいたら、もう死が近い年齢になってしまうのもありだろうが、決定的に欠けているのは「知行合一」という、現在の能力で現実に生きるということを疎かにしてないか、ということです。


日経新聞を読む女

夜、電車で日経新聞をあわただしく読む女が立っていた。紙をバサバサとうるさい。結構混んでる。おまけに首から掛けたカバンを台にipadで何か打ってる男もその隣に立ってる。
女は何やら記事を読みながら、携帯電話で誰かと話してる。そんな一大事な記事が日経にあるか?
事情はよく分からんが、少なくともオレにはこいつらが、「社会的に自分は必要な人間でありたい」ことの焦燥に駆られているようにしか見えなかった。

日経新聞なんぞ経済界の提灯記事(持ち上げる記事)しか書いてないし、第一、経済人や企業人が世間の表舞台でしゃべることなど、行き当たりばったりなことばかり。ソフトバンクの孫正義氏なんて、経済人らしいアイデア重視で、思想や価値規範が抜け落ちたことを平気で言うし。孫さんの人柄は好きだけど、孫さんを崇拝する一般人が異様に多いのには、奴らみたいにはなりたくないね。

とまあ、経済界の悪口はこれぐらいにしておいて、電車の中にしろ、パブリックな場での振舞いは重要と捉えるのは大事でないでしょうか。

例えば道を歩くときに、ヨーロッパの中流階級は、かわいい小さな女の子を連れた奥さんが歩いてきて、たまたま目があったとき、男子たるものはさりげなく笑顔をかわすそうです。その笑顔の意味は「かわいいお嬢さんとお幸せそうで結構でございますね」ということになる。そうすることで道路というパブリックな場でコミュニケーションを成立させてる貴族的な意識があるということです。

平民の周りが見えてないのとは一線を画して、貴族的な誇りを維持することなのかも知れません。というより気高さを重視する姿勢が大事で、パブリックな場だから誰でも自由に振舞えるというのをあえて、自分達が善しと思う環境を作っていく意識かも知れません。

経済学者ジョン・スチュアート・ミルが言う「人に迷惑を掛けなければ構わない」というのは本当の自由ではなく、そこには他者が否応なしにいるし、交流しコミュニケートせざるを得ないからこそ、それを拒んだら自分の居場所すらも無くしてしまうのだということです。むしろ自由から遠ざかるのです。
やっぱり経済学者も同様に、経済関係の人間はとんでもない発想を持つ傾向にあるのかも知れません。

で、日経新聞を読む女よ、女だてらにサラリーマン文化に浸りすぎんなよ。それはバッチい男どもにやらせておけ。