1億円でリタイアだとよ | 「異端児、常識を疑う」

1億円でリタイアだとよ

「1億円じゃリタイアはちょっと無理だよ」
「いくらあれば大丈夫?」
「2億5千万円だな。まず現金で5000万円のマンションを買って、投資金額を…」
夕刻の地下鉄東銀座駅、20代若手サラリーマン風の男2人。
かなり真剣に話込んでる。

最近この手のリタイア話を真剣に考えたり、それを促すような個人投資のススメやビジネス書を本当によく見かける。

金があれば働かなくても済むのは事実だから、リタイアして働かないことがダメだとは言えない。

しかし、これはいくらあればリタイアできるという、単なる金計算の話ではない。
生涯の価値を金額で勘定できるというマネー至上主義が日常には組み込まれているのだとおおよそ検討がつく。

そうやって弾き出された計算で本当に将来は確実なのだろうか?
未来は計算可能なのか?

東日本大地震の津波被害で、防波堤の高さが14メートルだったからいけなかったのか。
あと数メートル高く作ればリスク管理として成立するのか。確かに30メートルならば大丈夫だったかもしれない。
しかし、数字をいかに設定するかに掛かってると考えるのは、津波に限らずどんなリスク管理も計算可能という技術信仰に陥ってるのが近代文明ではないだろうか。

実際に計算が可能か不可能か、技術が完全か不完全かの議論をしたいのでない。
計算や技術は万能だと信じてゆく社会は、いずれグロテスクな考え方をもたらしかねないといいたい。

ノーベル経済学賞を受賞した経済学者、ゲーリー・ベッカーという男がいる。
ベッカーは麻薬は合法にして市場で売買できるようにすればいいと説いた。
その理由は、違法にして闇でマフィアの資金源になるなら、合法化すればまともな市場で儲かるし、マフィアへの資金源が絶てるから得だと、いう説で有名な学者だ。

損得の計算がグロテスクさを露出した典型的な例である。

人間は未来に向けて消費し、子供の学費や住宅にいくらの費用がかかるかだけが分かれば生きてゆけるほど、簡単にはゆかない。
仕事をする意味、男女が一緒にいる意味、といったように何のために生きてるのかと答えの見えない問いを否応ナシに持ってしまう生き物だからだ。

リタイア話を人生ストーリーとして迎え入れることに何のためらいもない程、彼らに「当為」という何をなすべきかを見つける精神の力が近代社会によってそがれている、そのことに気づかないのが最も重大な問題なのです。

「今日は死ぬのに良い日だ」
インディアンは「死」すらも、なすべきことに組み入れてたらしい。
平均寿命をまっとうすることだけが、人生だと言い切ってしまう程、つまらない価値観が横行してるのだなと、かみしめながらくたばってゆきたいものだ。

えっ、オレ?
1億円あったらソッコー会社辞めるね!
この誘惑は強烈だわ。