サラリーマンにとってTPP
TPP参加するのか否か?
TPPとは簡単に言うと、関税を撤廃する自由貿易の協定のことです。
例えば、米が安く輸入されるのです。
関税は物によってバラバラで、白米だと外国産は700%以上も税が掛かっていて、これが撤廃されると外国産は超安売りされるため、日本の米農家が打撃を受けるという訳です。
白米が安く買えるというと、一般市民にとって自由貿易はいいことのように聞こえるが、輸入されるものの中には医療、労働なども実は含まれている。
マスメディアでは農作物の関税だけを争点にしてTPP参加の是非を問うているが、実は医療、労働の方が大きな問題なのです。
これは複雑な話なのだからか、ほとんど報じられていません。
だがここでは医療、労働の自由化がいかに危険かであるかは論じない。
オレ個人の意見など誰も見ていないので、中野剛志氏の「TPP亡国論」や一時発売禁止に追いこまれた関岡英之氏「国家の存亡」を参照するのがよいです。
ここで論じたいのは、一般のサラリーマンにとってTPPは単なるニュースのネタで、反対・賛成でもどっちでもよい、あるいは無関心でも問題ないということです。
そんな議論なんかより、会社の仕事の方がはるかに忙しいわけです。
だから少なくとも賛成・反対を考えるなら、仕事で忙しいサラリーマンにとっては自分たちが「善く生きられる」ためにはどっちがいいのかという基準でしか判断できない。
しかしこの「善く生きられる」というのが、最も取り扱いがやっかいなのです。
「善く生きられる」とは生活が安定するかどうかとか、楽しく生きられるかどうかというようなことです。
つまり生活においての損得の話としてでしか○×をつける基準がない、このことが最も悲しい事実なのです。
「善く生きられる」ことを人生に求めることのどこが悪いのか?
人々の生活が完全に何からも拘束されることなく自由で、個人の利益は個人で高めることができるという、自由至上主義、リバタリアニズム。
平成の時代に暮らす一般国民の生活には当然として浸透しています。
人々は誰しも各々、自己の所有者であるのです。
我々は多かれ少なかれリバタリアニズムなのです。
だから国益よりも、国民個人の利益が優先されたい。これはリバタリアニズムにとって当たり前である。
経済外交が弱まろうが税収が下がろうが、明日自分たちの食べる米代の方が個人にとっては大事。そう思えてしまうのは当たり前である。
しかしこれは最終的に行き着くところは、守るべき最小単位は国家という単位でなく、個人という単位なので、国家としてのまとまりが弱くなるという保守派の意見があります。
つまりTPP賛成・反対の判断が、社会的な「善」からはずれる可能性が大きくなるということです。
リバタリアニズムは良い意味では「人権の尊重」だが、悪い言い方をすれば「自分にしか興味がない」とも言えます。
TPPひとつとっても政治的議論の価値基準が「善く生きられるためには?」となってる風潮に対し、
自己を負荷なきものと捉えてること、自己の所有者として出発することを疑ってみれるか、ここがとても重要です。
では、負荷ありき自己。これはどうでしょうか。
人は自己の所有者ではない、集団の一員としての自己。これはコミュニタリアン的発想です。
集団とは、ひとまず社会になります。
貧しい家庭に生まれる境遇もあれば、大事に育ててくれる家庭環境もありえる。
自己は社会から恩恵を受けていれば、不利益も受けている。
これが負荷ありき自己になるでしょう。
社会と切り離せない自己、集団の一員であるという意識は、リバタリアンの言う意味での個人の自由が疎外されたとしても、社会と何らかの接点が残されているという帰属意識が最後のよりどころになりえる。
秋葉原事件の加藤のような、社会から切り離された自己というものの最後のよりどころになる可能性に掛けてみたい。
コミュニタリアン的発想に立てば、少なくとも「善く生きる」という個人的な善だけを追求する生き苦しさから少しは解放されるのでなかろうか。
そして最後にリバタリアン的もコミュニタリアン的もイデオロギー(主義)になっては元も子もありません。
なぜならイデオロギーとは外から与えられた意見で、自分の意見ではないからです。
このことも肝に銘じておくべきです。
TPPとは簡単に言うと、関税を撤廃する自由貿易の協定のことです。
例えば、米が安く輸入されるのです。
関税は物によってバラバラで、白米だと外国産は700%以上も税が掛かっていて、これが撤廃されると外国産は超安売りされるため、日本の米農家が打撃を受けるという訳です。
白米が安く買えるというと、一般市民にとって自由貿易はいいことのように聞こえるが、輸入されるものの中には医療、労働なども実は含まれている。
マスメディアでは農作物の関税だけを争点にしてTPP参加の是非を問うているが、実は医療、労働の方が大きな問題なのです。
これは複雑な話なのだからか、ほとんど報じられていません。
だがここでは医療、労働の自由化がいかに危険かであるかは論じない。
オレ個人の意見など誰も見ていないので、中野剛志氏の「TPP亡国論」や一時発売禁止に追いこまれた関岡英之氏「国家の存亡」を参照するのがよいです。
ここで論じたいのは、一般のサラリーマンにとってTPPは単なるニュースのネタで、反対・賛成でもどっちでもよい、あるいは無関心でも問題ないということです。
そんな議論なんかより、会社の仕事の方がはるかに忙しいわけです。
だから少なくとも賛成・反対を考えるなら、仕事で忙しいサラリーマンにとっては自分たちが「善く生きられる」ためにはどっちがいいのかという基準でしか判断できない。
しかしこの「善く生きられる」というのが、最も取り扱いがやっかいなのです。
「善く生きられる」とは生活が安定するかどうかとか、楽しく生きられるかどうかというようなことです。
つまり生活においての損得の話としてでしか○×をつける基準がない、このことが最も悲しい事実なのです。
「善く生きられる」ことを人生に求めることのどこが悪いのか?
人々の生活が完全に何からも拘束されることなく自由で、個人の利益は個人で高めることができるという、自由至上主義、リバタリアニズム。
平成の時代に暮らす一般国民の生活には当然として浸透しています。
人々は誰しも各々、自己の所有者であるのです。
我々は多かれ少なかれリバタリアニズムなのです。
だから国益よりも、国民個人の利益が優先されたい。これはリバタリアニズムにとって当たり前である。
経済外交が弱まろうが税収が下がろうが、明日自分たちの食べる米代の方が個人にとっては大事。そう思えてしまうのは当たり前である。
しかしこれは最終的に行き着くところは、守るべき最小単位は国家という単位でなく、個人という単位なので、国家としてのまとまりが弱くなるという保守派の意見があります。
つまりTPP賛成・反対の判断が、社会的な「善」からはずれる可能性が大きくなるということです。
リバタリアニズムは良い意味では「人権の尊重」だが、悪い言い方をすれば「自分にしか興味がない」とも言えます。
TPPひとつとっても政治的議論の価値基準が「善く生きられるためには?」となってる風潮に対し、
自己を負荷なきものと捉えてること、自己の所有者として出発することを疑ってみれるか、ここがとても重要です。
では、負荷ありき自己。これはどうでしょうか。
人は自己の所有者ではない、集団の一員としての自己。これはコミュニタリアン的発想です。
集団とは、ひとまず社会になります。
貧しい家庭に生まれる境遇もあれば、大事に育ててくれる家庭環境もありえる。
自己は社会から恩恵を受けていれば、不利益も受けている。
これが負荷ありき自己になるでしょう。
社会と切り離せない自己、集団の一員であるという意識は、リバタリアンの言う意味での個人の自由が疎外されたとしても、社会と何らかの接点が残されているという帰属意識が最後のよりどころになりえる。
秋葉原事件の加藤のような、社会から切り離された自己というものの最後のよりどころになる可能性に掛けてみたい。
コミュニタリアン的発想に立てば、少なくとも「善く生きる」という個人的な善だけを追求する生き苦しさから少しは解放されるのでなかろうか。
そして最後にリバタリアン的もコミュニタリアン的もイデオロギー(主義)になっては元も子もありません。
なぜならイデオロギーとは外から与えられた意見で、自分の意見ではないからです。
このことも肝に銘じておくべきです。