「異端児、常識を疑う」 -20ページ目

運が人生を左右するのか?

世の中の所得は全部、運で決まってるという人がいる。

ここに努力して高い所得になった人がいたとする。
しかし苦しんで高所得にたどり着いた努力とて、努力できる環境に居れたことはひとつの運であり、勉強の才能に恵まれ高い給料を得られるようになった人も、たまたま賢い遺伝子を授かれる親の元に生まれた運という要因からは離れられない。
だから高い所得の人から多く課税して、恵まれない人に再分配すれば、高所得者との格差を認めつつもある程度平等が実現できる。

こう言ったのはジョンロールズという人だ。

ロールズの考え方は日本をはじめ現代の福祉国家を正当化する強力な原理になっている。

運によってもたらされる格差は人間の手で是正するには限界がある。だから格差はある程度認めていこうじゃないか、そう暗黙の了解をするしか今の民主主義では平等とは何かについてを答えようがない。

が、そうであるなら今の日本では奇妙なことが起こっている。

大地震の被災者支援のムード。
運が悪かった人をここぞとばかりに哀れみ助けようとする風潮である。

ところが実際のところどうだろう?東京や被災地以外では被災者のことを忘れつつある。
関西の人なんて大震災なんてどこ吹く風らしいし。(阪神大震災のときは逆だったし。)
少なくともオレは忘れてた。まだ体育館で寝泊りしてる人がいるんだとか、原発はどうなったのとか。

本音を言えばこうだ。
「かわいそうだが、被災は運が悪かったと言うしかない。生活の建て直しは政府からの支援と自己の努力でやってくれ。俺達にも生活がある。だから身銭を切ってまでは助けられない。」

しかし依然として被災地に対する冷たい目はタブーとして、表向きの建前では「絆」で見守ってるよと言う。

なぜ本音と建前が真逆になって両立しているのか。

運が世の中の優劣を決定することを震災前と変わらず、続けてゆくことを実は望んでいるからである。

運が人生を左右してしまうことには致し方ない部分があると認めるとしても、「絆」という言葉を利用して、あたかも世の中は平等であると演出しようとする風潮には、何か重大な本音を隠してる匂いがプンプンしませんか?

「絆」が必要かどうかは、かわいそうだからだけではピンと来ないのだろう。
他人同士が欺瞞に満ちて足を引っ張り合う混乱の中でしか、本当に絆が必要かどうかなど分かりっこないのかも知れない。

「自分さえ良ければ」と思うことより、キレイ事で正義を表舞台で言うことのほうがはるかにたちが悪い。
なぜなら、世の中丸く収まってると考えてしまうからである。

親子関係

オレと同じくらいの年齢だろうか。精悍な顔つきの職人が、自宅マンションの廊下で配管工事をやってた。
ふと、その脇で小学生くらいの女の子がつまらなさそうに、レンガのブロックを触りながらうつむいていた。
おそらく職人の娘さんだろう。

お盆休みに母親だけ帰省したのか、休みの取れないおやじさんの仕事場に連れてこられたのだろうか。
黙々と電動カッターでレンガを切る職人と娘。
お昼過ぎには仕事が終わったのか、親子の姿はなかった。
どこか遊びに連れて行ってもらったのだろう。
お嬢ちゃん、いいおやじさんだな…。


世の中、子供が産めない人もいる。
しかし産む能力がありながら、親と子の関係がうまく築けず失敗に終わってる人もゴロゴロいる。

育児放棄がその典型だが、婚カツ女子なんかも婚カツという自分のことで精一杯な活動で疲弊したあと、更に子供を産み育ててゆく意欲があるのかという疑問がある点で、親子関係は危機にさらされてると言えるのではないか?

親子関係が壊れてるということは、子供が産まれてから突如発生するものでない。
だから産む前段階の男女関係が壊れてると見るのが自然だろう。だから子供を産まない人にもこの問題は関係してることになる。

男と女の精神構造は相当異なっている。
男はメタファー(隠喩)の能力に優れ、メトニミー(換喩)の能力に劣る。女は逆だと。
メタファー、メトニミーの意味についてはともかく、両性が近づくのは自分に不足してる精神能力を相手によって補うためで、「二人合わせて精神の完成をめざす」それが異性と出会いを求める根本動機なのだと。

そしてその企ては試行錯誤の連続で、男女関係の律し方に便利な処方箋などない。
つまり男女関係は危険と危機に満ちた修羅場なのだと。

家庭における対話も役割分担も、性交も子育ても、将来設計も社交も大失敗に終わることが普通である。
家庭には悲劇の感覚が濃く立ち込めているといえる。

しかし、この悲劇をユーモアをもって迎え入れるキャパシティが家庭にはある。
それがあるべき家庭の姿だろうと。
(西部邁氏「陥没する世界のなかでのしあわせ論」を引用させていただきました。)


人間関係は失敗に終われば、次、更に次、というのはなんとなく分かる。
しかし失敗する要素を持った人間が次に会う相手とまた失敗するのはかなり当たり前で、離婚率を上げてるとか社会に迷惑掛けてるとちっとは反省してよ。
売れっ子カリスマコンサルタントか何か知らんが、勝間和代さんなんてバツ2でも素敵な女性なんて、勘違いする輩がいるから勘弁して。
片親でも育児放棄しなくて立派だが、そんなのを自慢する親を見るあんたのドラ息子(娘?)は卑屈な目をしてるよ、きっと。

男女逆転現象

ここ25年で男女雇用機会均等法は規制がゆるくなり、女性が働く自由度は高くなった。
母子家庭でも何とかやってゆけるし、産後復職もでき、女の管理職もいる。トラックの運転手や重労働、深夜労働も可能である。

しかし報じられこそしないが、男性の失業率は上昇している。
女が働く機会を得られる反面、男が市場から退場させられてる。
つまりひとつのパイを分け合ってるのだ。
共働きが増えてるのに、世帯収入は横ばいなのもそれと関係してるかも知れない。

女が働くなと言いたいのでなく、社会問題はひとつ解決すると、思わぬところで別の課題が生まれる。
簡単に世の中回るという思い込みは誤謬を生み危険なのである。

「だったら稼げる女に食わせてもらったらいいじゃん」
こうなったら何でもアリになる。男が男である意味、女が女である意味もだんだん薄れ、そりゃニューハーフも増えるか。

草食系男子、結婚しない女、子供を産まない女なども男女逆転現象とみるべきだろう。
(別に稼げる男、結婚してる女がえらいって訳でもないけどね)
草食系男子も結婚しない女も、選択の自由を与えられすぎた結果の無気力、虚無感という産物にすぎない。

結論をいうと、無限の選択肢が用意された挙句、どの価値を選んでいいのかわからない。
いや、選択する能力がないから選べないが正解だろう。
「さあ選びなさい、どれでもアナタががんばれば手に入れられるはずです、自己責任で幸せはアナタ次第です。」

多分アナタひとりが幸せを感じようが、感じまいが、世の中の状況はほとんど変わらない。
だから、アナタは自分の幸せだけを自分のために求めることに集中することしかできないし、それが各個人の精一杯の努力だろうと言う。
しかしそれに失敗したらどうか?
生涯、満足ゆくお金を手に入れられなかった。あるいはやっと見つけたパートナーが不慮の事故で早くに失った。

つまり人間は幸せを自然に求める動物であると同時に、自分たちの意志ではどうにもならないことがある。
そんなとき、アナタの幸せがうたかたのようにはかなく消えてゆのを受け入れられるほど精神を強く保てるのか。

おそらく幸せは「これさえあれば大丈夫」というようなものではない。
もしかしたら、人間の平均寿命の80年ほどで見つけられるほどたやすくないかも知れない。

誰だか忘れたが、人間は歴史上の運搬具であると。
アナタが現在いいと思った価値観は少なくとも、アナタの周りや死んでゆくとき看取る人たちに多少なりとも残る。そういう価値観の総合が社会の風潮となって次の世代に影響を少しづつ与えてゆく。
そういう意味で人間は、何かしらの価値観を歴史上で運搬しているのだと。

宗教めいた言い草だがこれはひとつの例として、つまり幸せを選択するというとき基準になるものをよく考える余地がまだまだ現代人にはあるのだよといいたい。

そうすれば、草食系男子や結婚しない女などという無気力や虚無感から脱出できるのかも知れない。

取替え可能なボク

最近知り合った青年U君。
彼は職探しのために資格を取って自分の売りにし、優位をアピールしていきたいと意気込む。

バブル崩壊以降、特に日本社会は強烈に市場化した。
そして市場では人を「人材」として扱うようになった。

労働市場における人材、友達市場における人材、恋愛市場における人材、結婚市場における人材。

もうお分かりだろうが、「人材」とは「売り」だ。
「売り」がなければ雇う価値も、仲良くする価値も、好きになる価値も、生涯を共にする価値もないことになる。
つまり市場化とは「人材」でないと受け入れない雰囲気を日常に作り出してしまったのである。

もしU君が不動産の資格を持っていて、おもしろく、顔があるタレントにどこか似ていて、年収が500万円が売りだとする。
しかしこういう「人材」は他にも探せばおそらくたくさんいるだろう。
つまりU君は他の誰かと取替え可能な「人材」と化してしまうのだった。

では、自分とはいったい何で根拠づければ、他の誰とも取替えできない人間として認められるのだろうか?

おそらくその人を無条件で認めてくれるのは親であったり、運がよい人は配偶者になるのだろう。
ところが、最近では親子関係も悪かったり、配偶者の理解すらままならない既婚者も少なくない。

そこで誰からも認められない者は「ありのまま」や「自然体」というオンリーワンが個性という自分の根拠づけ方をしたり、それすらも諦め、引きこもる者も多く表われてるのだろう。

しかし、自分の売りであるナンバーワンを主張する人も、それを放棄してオンリーワンを主張する人も、自分を何かで根拠づけたいこには変わりがない。あくまでも市場の中での自分の位置を探してることで差はないのである。

自分とは何か?自分の存在する意味は?
この自己たることの渇望はブッダが言う最も大きい欲望でもある。


市場化から脱して、どんな人間も受け入れるよう社会を共同性あるものとすれば解決できるのだろうか。
それはわからない。

分かるのは、どんな人も他者から認められたり、帰属意識からは逃れられないということである。
そして自分が認められたい渇望は、他者も同じように持ってる意識であることを認めれば、この市場化した社会では皆、きわめて生き難いものであることは手に取るように分かる。

そうすれば相互排除よりも相互扶助が安定した社会になると、消極的ながらも選択せざるを得ない。
自己責任の自由競争社会で、取替え不可能な高レベルのスキルを身に付けられ優位に立てればいいが、ひとたび負け組みになると、やはりつらい。

劇作家のチェスタートンは人生の目的をこういう。
「一人の良い異性に出会い、一人の良い友達を持ち、一個の良い思い出を胸に抱き、一冊の良い書物を発見することにつきる」
チェスタートンは大胆かつユーモアあふれる人柄で、そんな人がこんな素朴なことを言うのには妙に説得力がある。

市場で人材を投売りするのが「投網」なら、チェスタートンのいう生き方は「竿一本」だろう。
もし釣れなくても、それはたまたま運が悪かっただけさ、と。

しかしそう言えるほど、オレはまだ悟りには至っていない。

おためごかしのボランティア

今回の震災では1円たりとも募金してない。

そんなオレに、東北でのボランティアや現地で支援にあたってる人についてあれこれ言う資格すらないのかも知れない。

だがオレもボランティアのことを少しは知ってる。
盲目の人や自閉症ぎみの人にパソコン操作を教えるようなボランティアを1年くらいやってる。

最初はボランティアにどこか嫌悪感があり、ボランティア行為自体が偽善行為でないかという疑いが常にあった。
が、しかしだからといって“しょせん自分を助けられるのは自分だ”とか“自分のことで精一杯だ”と個人主義にのめり込んでゆくのは日本では非常に多く、偽善行為以上に浅はかなのも事実だ。

なぜなら社会という公共の場で、自分ひとりでは生きられないことは皆薄々分かっているからだ。
それはおのずと好きな人も嫌いな人とも、困ってる人もそうでない人とも暮らさざるを得ない「相互扶助」の場であることを認めねばならず、「相互扶助」とは何かを知る必要がある。オレがボランティアをはじめたキッカケはそれだ。

だからボランティアとは実は、誰にでも関係のあることで、考えることから逃れられないものなのである。
そうでないと大震災とか惨事のときだけ突如現れるボランティアは、キレイ事のおためごかしに終わってしまう。


「困った人のために、できる限りのことをする」
これが今回の震災支援におけるスローガンで、プロスポーツ選手も一流企業の経営者も、チャリティー試合や莫大な金を寄付している。

だが「困ってる人のため」とか「人の役に立ちたい」と言っても、心の底では他人から立派だと思われたいからやってるかも知れない。
だったら、いい人ぶられるのは煩わしいから金だけ置いて帰ってくれと思うことだって当然ある。
あるいは孫正義が100億円寄付したと言うが、1兆円もの資産があるのになんでもっと出せないのかとなる。お前の「できる限り」はしょせんそんなものか、と。

皮肉なことに5月のゴールデンウィーク明けにボランティア人口は激減したそうだ。
理由は学校や会社が始まったからだ。

こうなると、どこまですればボランティアとして成立するのか、結局「人の役に立ちたい」とか「できる限り」とかは軽々しく言えないものなのだ。
今の日本のボランティアは、個人個人の良心や善意でしか動くキッカケは見出せない。

「相互扶助」には必ず「相互排除」が表裏一体となってる。
助け合いが大事である一方で、運悪く社会からこぼれ落ちてしまう者が少なくともいるということだ。

学生にも日常生活がある。学校が始まればボランティアから身を引くしかない。
「もう帰んなきゃ、申し訳ないが、支援は諦めてくれ」としか言いようがない。
しかしこれは言いにくいことだが、「オレは人のためにやってる、これは正義の行為だ、そこをどけ!」というのとあまり変わらない。

では、性善説なんて嘘だ、人は自分のことだけがかわいいものさ、と現実論だけに支配され、公共での相互扶助を諦めることになるのは仕方ないのか。