取替え可能なボク | 「異端児、常識を疑う」

取替え可能なボク

最近知り合った青年U君。
彼は職探しのために資格を取って自分の売りにし、優位をアピールしていきたいと意気込む。

バブル崩壊以降、特に日本社会は強烈に市場化した。
そして市場では人を「人材」として扱うようになった。

労働市場における人材、友達市場における人材、恋愛市場における人材、結婚市場における人材。

もうお分かりだろうが、「人材」とは「売り」だ。
「売り」がなければ雇う価値も、仲良くする価値も、好きになる価値も、生涯を共にする価値もないことになる。
つまり市場化とは「人材」でないと受け入れない雰囲気を日常に作り出してしまったのである。

もしU君が不動産の資格を持っていて、おもしろく、顔があるタレントにどこか似ていて、年収が500万円が売りだとする。
しかしこういう「人材」は他にも探せばおそらくたくさんいるだろう。
つまりU君は他の誰かと取替え可能な「人材」と化してしまうのだった。

では、自分とはいったい何で根拠づければ、他の誰とも取替えできない人間として認められるのだろうか?

おそらくその人を無条件で認めてくれるのは親であったり、運がよい人は配偶者になるのだろう。
ところが、最近では親子関係も悪かったり、配偶者の理解すらままならない既婚者も少なくない。

そこで誰からも認められない者は「ありのまま」や「自然体」というオンリーワンが個性という自分の根拠づけ方をしたり、それすらも諦め、引きこもる者も多く表われてるのだろう。

しかし、自分の売りであるナンバーワンを主張する人も、それを放棄してオンリーワンを主張する人も、自分を何かで根拠づけたいこには変わりがない。あくまでも市場の中での自分の位置を探してることで差はないのである。

自分とは何か?自分の存在する意味は?
この自己たることの渇望はブッダが言う最も大きい欲望でもある。


市場化から脱して、どんな人間も受け入れるよう社会を共同性あるものとすれば解決できるのだろうか。
それはわからない。

分かるのは、どんな人も他者から認められたり、帰属意識からは逃れられないということである。
そして自分が認められたい渇望は、他者も同じように持ってる意識であることを認めれば、この市場化した社会では皆、きわめて生き難いものであることは手に取るように分かる。

そうすれば相互排除よりも相互扶助が安定した社会になると、消極的ながらも選択せざるを得ない。
自己責任の自由競争社会で、取替え不可能な高レベルのスキルを身に付けられ優位に立てればいいが、ひとたび負け組みになると、やはりつらい。

劇作家のチェスタートンは人生の目的をこういう。
「一人の良い異性に出会い、一人の良い友達を持ち、一個の良い思い出を胸に抱き、一冊の良い書物を発見することにつきる」
チェスタートンは大胆かつユーモアあふれる人柄で、そんな人がこんな素朴なことを言うのには妙に説得力がある。

市場で人材を投売りするのが「投網」なら、チェスタートンのいう生き方は「竿一本」だろう。
もし釣れなくても、それはたまたま運が悪かっただけさ、と。

しかしそう言えるほど、オレはまだ悟りには至っていない。