小室直樹の宗教原論
小室直樹という日本で最高ともいえる社会学者がいた。
奇人とも言われ2010年に亡くなっている。
弟子に宮台真司氏や副島隆彦氏、橋爪大三郎氏など影響力を持った人が多数いる。
宮崎哲弥氏も敬意を表している。
小室氏の宗教論は大変おもしろい。
日本は無宗教という「日本教徒」なのだと。
神社でお賽銭を投げて、願いを叶えてもらう。
そこで起こる論理は、「お賽銭をあげるから願いを叶えなさい」という神が人間の奴隷になっていると。
宗教というのは絶対の揺るがせに出来ない存在、「神」があるのが前提だが、日本は無宗教だから、絶対の揺るがせに出来ない存在=人間であると。これが「日本教」の根本である。
日本に宗教が必要ということや新興宗教に期待をしたいと言いたいのではない。
例えばキリスト教を理解するのに、根本原理の予定説がある。
予定説とは、予め神に救われる人は決まっているということです。神が救う人を決めるし、善人だろうが悪人だろうが救われる。
これは日本的に見ると、不公平というかも知れないが、神が絶対なので、人間の決める善や悪を神に持ち込むことは愚かだと。神の意思は絶対だから不公平でいいのです。
予定説は難解なので理解しがたいが、要するに人間以上のなにかしら絶対のものがあり、それが下すものは絶対に揺るがせにできない。だからこそ、人間のやりたい放題にストッパーがはたらくと解釈できる。
(アメリカは金融経済では自由放任のやりたい放題をやってきたから一概に予定説のストッパーがはたらいたとは言いがたいが)
要は日本に予定説のような規範があったならば、もう少し違った社会観があると仮説は成り立つ。
今の日本は表向きには宗教にとらわれることのない自由な社会というが、宗教的な見えない規範(道徳観ともいえる)がはっきりしないがゆえ、無規範状態に不安、孤独、凶気、狂暴、引きこもりなどが放出していると。
宗教というと拒否反応を示すのが常だが、新興宗教のような狂信でなく、道徳に根ざした宗教観というのは、特に今のようなどうしようもない時代には、下手な自己啓発書よりは参考になるのでは。
どの宗教がどうだとかでなく、ふっと自分の頭から湧いて出るアイデアなんかより歴史の知恵に問い合わせる方がいいということです。
奇人とも言われ2010年に亡くなっている。
弟子に宮台真司氏や副島隆彦氏、橋爪大三郎氏など影響力を持った人が多数いる。
宮崎哲弥氏も敬意を表している。
小室氏の宗教論は大変おもしろい。
日本は無宗教という「日本教徒」なのだと。
神社でお賽銭を投げて、願いを叶えてもらう。
そこで起こる論理は、「お賽銭をあげるから願いを叶えなさい」という神が人間の奴隷になっていると。
宗教というのは絶対の揺るがせに出来ない存在、「神」があるのが前提だが、日本は無宗教だから、絶対の揺るがせに出来ない存在=人間であると。これが「日本教」の根本である。
日本に宗教が必要ということや新興宗教に期待をしたいと言いたいのではない。
例えばキリスト教を理解するのに、根本原理の予定説がある。
予定説とは、予め神に救われる人は決まっているということです。神が救う人を決めるし、善人だろうが悪人だろうが救われる。
これは日本的に見ると、不公平というかも知れないが、神が絶対なので、人間の決める善や悪を神に持ち込むことは愚かだと。神の意思は絶対だから不公平でいいのです。
予定説は難解なので理解しがたいが、要するに人間以上のなにかしら絶対のものがあり、それが下すものは絶対に揺るがせにできない。だからこそ、人間のやりたい放題にストッパーがはたらくと解釈できる。
(アメリカは金融経済では自由放任のやりたい放題をやってきたから一概に予定説のストッパーがはたらいたとは言いがたいが)
要は日本に予定説のような規範があったならば、もう少し違った社会観があると仮説は成り立つ。
今の日本は表向きには宗教にとらわれることのない自由な社会というが、宗教的な見えない規範(道徳観ともいえる)がはっきりしないがゆえ、無規範状態に不安、孤独、凶気、狂暴、引きこもりなどが放出していると。
宗教というと拒否反応を示すのが常だが、新興宗教のような狂信でなく、道徳に根ざした宗教観というのは、特に今のようなどうしようもない時代には、下手な自己啓発書よりは参考になるのでは。
どの宗教がどうだとかでなく、ふっと自分の頭から湧いて出るアイデアなんかより歴史の知恵に問い合わせる方がいいということです。
少子化社会の滅び方
討論番組の映像でも残っているが1991年、今から20年前に出生率1.54をはじき出し社会問題として大騒ぎされた。
その番組ではおおむね、少子化によって文明が滅びに入るとまで総括されていた。
その理由は、労働問題で置き換えると、足りない生産人口を外国人でまかなってゆかなければならないからだ。
ちなみに出生率1.54とは大人(夫婦)2人に対し子どもが1.54人ということです。
ところが現在の出生率は1.39。苦肉の策として子ども手当てで増やそうとしているが、20年前の1.54が滅びに入る前段階だったなら、今は滅びの真っ只中。もはや風前の灯火であるのかも知れない。
少子化の理由は経済的に苦しいとか、時代の力学によるものとして語られる。
おそらく正しいだろう。
だから、政治家や知識人たちは解決を制度やシステムからアプローチする。
子ども手当てなども、制度論のひとつで解決を試みているわけです。
しかし、経済的な問題としては個々人で解決しがたいのは認めるものの、ひとりひとりが男としてあるいは女として、人生を組み立ててゆく冒険心が薄れてるという指摘はほとんど聞かれない。
つまり子どもを産まない理由を、時代の力学に左右されてるとだけでしか考えない精神のごまかしについてです。
時代のせいにしなければならないときはやむを得ずあるが、制度論だけを主張するようなことは一般市民でもいとも簡単に言えてしまうのです。そこに陥ってはダメなのです。
結婚をする、しない。子供を産む、産まない。
これ自体は自由だ。
だが、一般論でいえば結婚をして子供を産むという「標準」があり、そこからどう距離をとるのかと見定めてみると、子供を産まない選択は、哀しい選択でもあるのです。
その自覚を持って出生率低下に進むべきです。
僕が、私が生き延びたいがために産まないなんて品がない。
つまり滅び方にすらこだわり、品位を持って滅んでゆくべきなのです。
その番組ではおおむね、少子化によって文明が滅びに入るとまで総括されていた。
その理由は、労働問題で置き換えると、足りない生産人口を外国人でまかなってゆかなければならないからだ。
ちなみに出生率1.54とは大人(夫婦)2人に対し子どもが1.54人ということです。
ところが現在の出生率は1.39。苦肉の策として子ども手当てで増やそうとしているが、20年前の1.54が滅びに入る前段階だったなら、今は滅びの真っ只中。もはや風前の灯火であるのかも知れない。
少子化の理由は経済的に苦しいとか、時代の力学によるものとして語られる。
おそらく正しいだろう。
だから、政治家や知識人たちは解決を制度やシステムからアプローチする。
子ども手当てなども、制度論のひとつで解決を試みているわけです。
しかし、経済的な問題としては個々人で解決しがたいのは認めるものの、ひとりひとりが男としてあるいは女として、人生を組み立ててゆく冒険心が薄れてるという指摘はほとんど聞かれない。
つまり子どもを産まない理由を、時代の力学に左右されてるとだけでしか考えない精神のごまかしについてです。
時代のせいにしなければならないときはやむを得ずあるが、制度論だけを主張するようなことは一般市民でもいとも簡単に言えてしまうのです。そこに陥ってはダメなのです。
結婚をする、しない。子供を産む、産まない。
これ自体は自由だ。
だが、一般論でいえば結婚をして子供を産むという「標準」があり、そこからどう距離をとるのかと見定めてみると、子供を産まない選択は、哀しい選択でもあるのです。
その自覚を持って出生率低下に進むべきです。
僕が、私が生き延びたいがために産まないなんて品がない。
つまり滅び方にすらこだわり、品位を持って滅んでゆくべきなのです。
ABCクッキング教室
日曜日の午前、新宿のとあるビルの一角に、うら若き乙女たちが集いし場所がある。
外から見えるようにオープンに開かれた、とてもキレイな内装の料理教室である。
笑顔で料理を楽しむ彼女たちは輝いて見える。照明設備の関係でそう見えるのかもしれないが…。
妙に美しいもの、特にこんな汚い都会の中で美しいものほど、もろさや嘘臭さをいつも直観で感じてしまう。
普通、日曜といえば男とイチャついてるものなのに、こんなところで料理なんぞにかまけてる彼女らに、結婚を控えた男はまだいないのだろう。
平日働いてたら、料理が下手くそでも当たり前と思うのだが、おそらく彼女らが料理教室に時間を費やすのは寂しいからに他ならない。
つまらない時間を作りたくないからである。
何故つまらない時間を作ってはいけないのか?
それを一度たりとも考えたことはないはずである。
そんな貴女には一度つまらない時間を作ること、孤独になることを是非ともオススメしたい。
そしてじっくり孤独を味わったとき、いても立ってもいられない自分は、つくづく「寂しいから」を動機に行動していたんだと思い知る。
寂しいから相手を求めるのは、自分の寂しささえ埋まればいい、極論すれば相手が誰であろうが、どう思っていようが実は構わないということ。
そんな利己的で他人と共有するものがない関係こそ、本当の孤独であったことに気づいたとき非常にむなしくなるだろう。
「孤独に生きる」ことと、「孤独を生きる」ことは違う。
つまらない時間は「孤独に生きる」ことではない。
「孤独を生きる」境地で寂しさを紛らわす者同士でない巡り合いを欲したら、もうほとんどいい出会いがあるのと同じである。
あとは偶然巡り合うだけである。
外から見えるようにオープンに開かれた、とてもキレイな内装の料理教室である。
笑顔で料理を楽しむ彼女たちは輝いて見える。照明設備の関係でそう見えるのかもしれないが…。
妙に美しいもの、特にこんな汚い都会の中で美しいものほど、もろさや嘘臭さをいつも直観で感じてしまう。
普通、日曜といえば男とイチャついてるものなのに、こんなところで料理なんぞにかまけてる彼女らに、結婚を控えた男はまだいないのだろう。
平日働いてたら、料理が下手くそでも当たり前と思うのだが、おそらく彼女らが料理教室に時間を費やすのは寂しいからに他ならない。
つまらない時間を作りたくないからである。
何故つまらない時間を作ってはいけないのか?
それを一度たりとも考えたことはないはずである。
そんな貴女には一度つまらない時間を作ること、孤独になることを是非ともオススメしたい。
そしてじっくり孤独を味わったとき、いても立ってもいられない自分は、つくづく「寂しいから」を動機に行動していたんだと思い知る。
寂しいから相手を求めるのは、自分の寂しささえ埋まればいい、極論すれば相手が誰であろうが、どう思っていようが実は構わないということ。
そんな利己的で他人と共有するものがない関係こそ、本当の孤独であったことに気づいたとき非常にむなしくなるだろう。
「孤独に生きる」ことと、「孤独を生きる」ことは違う。
つまらない時間は「孤独に生きる」ことではない。
「孤独を生きる」境地で寂しさを紛らわす者同士でない巡り合いを欲したら、もうほとんどいい出会いがあるのと同じである。
あとは偶然巡り合うだけである。
小さな文化
少し前の話で、東北地方の30代の男性が自殺した。
彼は震災で妻と子供、親をすべてなくした。
震災がらみで自殺した人は多い。
「お墓に避難します」といって自殺した老人もいた。
彼らに何の落ち度もない。たまたま降りかかった悲劇だ。
今回の震災で幸も不幸も、自然という人間の手にはおえない力の前では、善人も悪人も何もなすすべがないということを再確認したのかも知れない。
そんな自分の力の及ばない「運」というものの前に人は、どうせ生きるなら楽しくなくちゃ(別に人生楽しくなければならないなんてことはなく、落ち込む必要もなければ、楽しくなくてもゲラゲラ笑ってられる、という意味で)とか、法に触れなければ何でもOKとか、半ば諦めの虚無的な発想に世の中の流れは傾いている。
30代の男性を見て、そんな悲惨な思いをするならひとりでいた方がマシ、という虚無的な発想も益々強まったかもしれない。
男女二人でいると煩わしいことは多く、でもひとりでいると寂しい。
それでも男と女が一緒にいるということは、震災による突然の死別や失恋による離別など、悲劇は平然と日常に組み込まれてくる。
つまり幸せを求めるなら悲劇も引き受けなければならないのは、ひとりでいる孤独から逃れんと企てた者たちの、支払わなければならない代償なのかも知れない。
人生おいしいとこ取りはできないということである。
そして、ひとたび悲劇の受容を伴って、男女関係を築いてゆくのなら、お互い長く一緒にいることとか、どんな相手と巡り合うかとかは男女の幸せにとって一番には重要ではなく、たまたま運命を共にする相手との「二人の関係」がそういう内側でなく外側に対し、つまり周囲の人たちに対し何を残せるかとう点に宿るのではないか。
それを「小さな文化」の伝播と継承と西部邁氏は言う。
具体的に言えば子供だったりする。
震災で妻と子供、親をすべてなくした男性にとって、これは悲劇としか言いようがなく、自殺した心境は当人にしか分かりようがない。そして最後に自殺という締めくくり方で、「小さな文化」の伝播と継承が終わってしまった。
風呂に入らない汚い女房や女房に毎日そっけない亭主。それは男女関係を個人的な情念の次元だけで幸せを位置づける精神の空滑り状態なのかもしれない。
互いに我慢し容認し激励するような家庭における男女の努力はむなしく終わることの方が多いかもしれないが、その努力は子供によって直接に、職場の同僚、親戚には間接的に、その成果は受け継がれてゆくのも事実である。
「小さな文化」の伝播と継承ということである。
彼は震災で妻と子供、親をすべてなくした。
震災がらみで自殺した人は多い。
「お墓に避難します」といって自殺した老人もいた。
彼らに何の落ち度もない。たまたま降りかかった悲劇だ。
今回の震災で幸も不幸も、自然という人間の手にはおえない力の前では、善人も悪人も何もなすすべがないということを再確認したのかも知れない。
そんな自分の力の及ばない「運」というものの前に人は、どうせ生きるなら楽しくなくちゃ(別に人生楽しくなければならないなんてことはなく、落ち込む必要もなければ、楽しくなくてもゲラゲラ笑ってられる、という意味で)とか、法に触れなければ何でもOKとか、半ば諦めの虚無的な発想に世の中の流れは傾いている。
30代の男性を見て、そんな悲惨な思いをするならひとりでいた方がマシ、という虚無的な発想も益々強まったかもしれない。
男女二人でいると煩わしいことは多く、でもひとりでいると寂しい。
それでも男と女が一緒にいるということは、震災による突然の死別や失恋による離別など、悲劇は平然と日常に組み込まれてくる。
つまり幸せを求めるなら悲劇も引き受けなければならないのは、ひとりでいる孤独から逃れんと企てた者たちの、支払わなければならない代償なのかも知れない。
人生おいしいとこ取りはできないということである。
そして、ひとたび悲劇の受容を伴って、男女関係を築いてゆくのなら、お互い長く一緒にいることとか、どんな相手と巡り合うかとかは男女の幸せにとって一番には重要ではなく、たまたま運命を共にする相手との「二人の関係」がそういう内側でなく外側に対し、つまり周囲の人たちに対し何を残せるかとう点に宿るのではないか。
それを「小さな文化」の伝播と継承と西部邁氏は言う。
具体的に言えば子供だったりする。
震災で妻と子供、親をすべてなくした男性にとって、これは悲劇としか言いようがなく、自殺した心境は当人にしか分かりようがない。そして最後に自殺という締めくくり方で、「小さな文化」の伝播と継承が終わってしまった。
風呂に入らない汚い女房や女房に毎日そっけない亭主。それは男女関係を個人的な情念の次元だけで幸せを位置づける精神の空滑り状態なのかもしれない。
互いに我慢し容認し激励するような家庭における男女の努力はむなしく終わることの方が多いかもしれないが、その努力は子供によって直接に、職場の同僚、親戚には間接的に、その成果は受け継がれてゆくのも事実である。
「小さな文化」の伝播と継承ということである。
親の子殺し
子供の虐待死事件がここのところ立て続けに起こった。
声優の女(43)が3歳の里子を虐待死させ、大阪では7歳の男の子が義理の父(44)から暴行を受けて死んだ。
子供の虐待は2010年の下村早苗の事件から社会問題化している様子だが、おそらく親の子殺しは太古の昔からあるのだろう。
それを今だけの問題として考えても決定的な解決は見つからない。
特に「残忍な親は死刑だ」という論調のように、子供らの親、「個」の問題で片付けても、またどこかで虐待する親は発生しないとも限らない。
7歳の男の子の虐待死の場合、母親の再婚相手の義父に暴行されたらしい。
そりゃあ、実の子供でなければ可愛く思えないこともあるだろう。
最近シングルマザーが異様に多い。てことは彼女らが再婚したら、子供は実のおやじじゃないどこかの「おじさん」と暮らす事になるわけだな。
母親は十分、子供の安全を気にしてやる義務を忘れてはならんだろう。
義理の娘の性的虐待なども、子供が隠して言えないだけで実はたくさん起こってるらしいし。
離婚するのは結構だが、その前に男と女という根本的に違う生き物が一緒に暮らすとうまくいくことの方が奇跡に近いと認識を持たねば。
それを承知で続けてゆくのが結婚生活だとするなら、離婚する前に「私は生活を構築するのに失敗したんだ」と絶望に暮れるべきである。それを自分の満足感だけを求め、離婚してスッキリしてるから、他人のおやじと子供を住まわせることに何の危機感も覚えないのだろう。
本当は自分の子供を殺してはいけない明確な理由などない。あるのは殺したら罰せられるという規律だけだ。
だから殺さない理由は道徳感でしか保てない。その道徳感もあっさりと手放してしまう位に弱い生き物なのだ。特に今の社会では。
彼ら、親の言い分はおそらくこうだろう。「親である自分が生きてないと子すら守れない。」
チェスタートン曰く、
「勇気とは何か、自分の生命を守らんとする行為だ。本当の勇気とはどんなものか、自分の命を捨ててかかることだ。」と。
声優の女(43)が3歳の里子を虐待死させ、大阪では7歳の男の子が義理の父(44)から暴行を受けて死んだ。
子供の虐待は2010年の下村早苗の事件から社会問題化している様子だが、おそらく親の子殺しは太古の昔からあるのだろう。
それを今だけの問題として考えても決定的な解決は見つからない。
特に「残忍な親は死刑だ」という論調のように、子供らの親、「個」の問題で片付けても、またどこかで虐待する親は発生しないとも限らない。
7歳の男の子の虐待死の場合、母親の再婚相手の義父に暴行されたらしい。
そりゃあ、実の子供でなければ可愛く思えないこともあるだろう。
最近シングルマザーが異様に多い。てことは彼女らが再婚したら、子供は実のおやじじゃないどこかの「おじさん」と暮らす事になるわけだな。
母親は十分、子供の安全を気にしてやる義務を忘れてはならんだろう。
義理の娘の性的虐待なども、子供が隠して言えないだけで実はたくさん起こってるらしいし。
離婚するのは結構だが、その前に男と女という根本的に違う生き物が一緒に暮らすとうまくいくことの方が奇跡に近いと認識を持たねば。
それを承知で続けてゆくのが結婚生活だとするなら、離婚する前に「私は生活を構築するのに失敗したんだ」と絶望に暮れるべきである。それを自分の満足感だけを求め、離婚してスッキリしてるから、他人のおやじと子供を住まわせることに何の危機感も覚えないのだろう。
本当は自分の子供を殺してはいけない明確な理由などない。あるのは殺したら罰せられるという規律だけだ。
だから殺さない理由は道徳感でしか保てない。その道徳感もあっさりと手放してしまう位に弱い生き物なのだ。特に今の社会では。
彼ら、親の言い分はおそらくこうだろう。「親である自分が生きてないと子すら守れない。」
チェスタートン曰く、
「勇気とは何か、自分の生命を守らんとする行為だ。本当の勇気とはどんなものか、自分の命を捨ててかかることだ。」と。