人工的な絆
東日本大震災があったからか、先行き不安な社会状況を目の前にして今年の新成人たちも口をそろえてこう言う。
「絆が大切」
その大事とする「絆」とは具体的に、
募金やボランティアに関心を持つこと
福島で苦しんでる人たちを見て涙を流すこと
こんな風な手合いのものと解釈されている。
気持ちは分かる。
が、おおよそニッポンでは小さい頃から「友達は大事だよ」と同じように、ヒューマニズムの脈絡で「絆が大切」は扱われてることを見逃してはならない。
友達は大事ですよ、でもちょっと前まで散々、「絆が大事なのは分かるが、自分の身は自分で守らなきゃ。他人に構ってられない。やっぱり本音は自分が大事だ」とすることが主流だったのに、
ありゃ、どこに行った?
どうやら大震災という天変地異を体験して、自己中心的もやり過ぎはよくないなぁと、「絆が大切」とでも言わなきゃ気まずくなったという風に気まぐれで言ってるようにしか聞こえない。
要するに「絆が大切」とは言ってのけてみたものの、本当は腑に落ちてないのです。
絆とは、ボランティアでもやって義務的に他人のことを思いやったり、人間なら自然に清い心があるはずとヒューマニズムにうったえたり、人工的に生み出すものではありません。
絆とは?
ごく単純な話なのです。
アナタの目の前に、もし働く意欲もあり努力もしてるのに悪戦苦闘した結果、どん底にいる人がいたとしたら…。
その人を何が何でも助けなければならないのです。
なぜなら、自分が助けるべき人と認めた人を助けなければ、、自分が良しとする価値観も正義もただのキレイゴトでしかなくなり、アナタという人間はこれが正義だという価値観を持たない単なる動物に成り下がるからです。
そこでもし彼を見捨てたとしたら、他に何を大事にするべきかをアナタは本質的に見失い、開き直りの境地にさまよってしまうはずです。
個人主義がダメな理由、共同体破壊がいけない理由はここにあるのです。
何も自分のことのみを大事にし、好き勝手やってる人をねたんで言ってるのではないのです。
だから助けるという行為も、福祉制度で国家が助けるべきだとか、困ったときはお互い様でギブアンドテイクの関係が前提にあるのではなく、自分が「善」だとすることを揺るがせにできないと感じ、守ろうとするとき、
例え自分の全財産の半分を差し出してでも、本当は行わなければならないはずなのです。
しかしこの当たり前に皆が持ってるともいうべき「善」という感覚はいつ、誰かに教えられたものではない。
アナタ個人で見つけたものでもない。
どうやって身に付けたのだろうか。
その答えは、この世の中、この国、この土地や町で、何が「善」とされてるか、そこに掛かってくる訳です。
この土地、この町という共同体的な場所で暮らす人々が共通に「善」だとする『共通感情』というものが見えない形で実際には存在してるのです。
これは長年に渡ってそれが「善」だとされてきたものを、この土地や町で暮らす人々が伝統や文化、習慣という形で確実に受け継がれているのです。
これは昨日今日、外国から輸入されてきたような価値観でもなく、アメリカという国が誕生したのよりもずっと前からある日本という土地で長い年月をかけて日本人が固有に共有してきたものなのです。
「あいつのやってることは人としておかしい」
「いや、あいつの言うことにも一理ある」
というように、何が善なのか目には見えない『共通感情』というものを人々は共有し、時には議論し、また今生きてる人間だけでなく、先に生まれた人からその子供へ伝えられてゆく共同体という環境が、どこかから輸入されてきた近代資本主義や近代民主主義によって破壊されている。
そういう背景から、自分の子供が死にそうになってるのに平気なお父さんやお母さんが誕生してしまうのです。
「絆が大切」
その大事とする「絆」とは具体的に、
募金やボランティアに関心を持つこと
福島で苦しんでる人たちを見て涙を流すこと
こんな風な手合いのものと解釈されている。
気持ちは分かる。
が、おおよそニッポンでは小さい頃から「友達は大事だよ」と同じように、ヒューマニズムの脈絡で「絆が大切」は扱われてることを見逃してはならない。
友達は大事ですよ、でもちょっと前まで散々、「絆が大事なのは分かるが、自分の身は自分で守らなきゃ。他人に構ってられない。やっぱり本音は自分が大事だ」とすることが主流だったのに、
ありゃ、どこに行った?
どうやら大震災という天変地異を体験して、自己中心的もやり過ぎはよくないなぁと、「絆が大切」とでも言わなきゃ気まずくなったという風に気まぐれで言ってるようにしか聞こえない。
要するに「絆が大切」とは言ってのけてみたものの、本当は腑に落ちてないのです。
絆とは、ボランティアでもやって義務的に他人のことを思いやったり、人間なら自然に清い心があるはずとヒューマニズムにうったえたり、人工的に生み出すものではありません。
絆とは?
ごく単純な話なのです。
アナタの目の前に、もし働く意欲もあり努力もしてるのに悪戦苦闘した結果、どん底にいる人がいたとしたら…。
その人を何が何でも助けなければならないのです。
なぜなら、自分が助けるべき人と認めた人を助けなければ、、自分が良しとする価値観も正義もただのキレイゴトでしかなくなり、アナタという人間はこれが正義だという価値観を持たない単なる動物に成り下がるからです。
そこでもし彼を見捨てたとしたら、他に何を大事にするべきかをアナタは本質的に見失い、開き直りの境地にさまよってしまうはずです。
個人主義がダメな理由、共同体破壊がいけない理由はここにあるのです。
何も自分のことのみを大事にし、好き勝手やってる人をねたんで言ってるのではないのです。
だから助けるという行為も、福祉制度で国家が助けるべきだとか、困ったときはお互い様でギブアンドテイクの関係が前提にあるのではなく、自分が「善」だとすることを揺るがせにできないと感じ、守ろうとするとき、
例え自分の全財産の半分を差し出してでも、本当は行わなければならないはずなのです。
しかしこの当たり前に皆が持ってるともいうべき「善」という感覚はいつ、誰かに教えられたものではない。
アナタ個人で見つけたものでもない。
どうやって身に付けたのだろうか。
その答えは、この世の中、この国、この土地や町で、何が「善」とされてるか、そこに掛かってくる訳です。
この土地、この町という共同体的な場所で暮らす人々が共通に「善」だとする『共通感情』というものが見えない形で実際には存在してるのです。
これは長年に渡ってそれが「善」だとされてきたものを、この土地や町で暮らす人々が伝統や文化、習慣という形で確実に受け継がれているのです。
これは昨日今日、外国から輸入されてきたような価値観でもなく、アメリカという国が誕生したのよりもずっと前からある日本という土地で長い年月をかけて日本人が固有に共有してきたものなのです。
「あいつのやってることは人としておかしい」
「いや、あいつの言うことにも一理ある」
というように、何が善なのか目には見えない『共通感情』というものを人々は共有し、時には議論し、また今生きてる人間だけでなく、先に生まれた人からその子供へ伝えられてゆく共同体という環境が、どこかから輸入されてきた近代資本主義や近代民主主義によって破壊されている。
そういう背景から、自分の子供が死にそうになってるのに平気なお父さんやお母さんが誕生してしまうのです。
ドリームの温床
「夢は絶対に叶う!」
おおそうかと、本を1ページ開いてみると
「年収1000万円は可能です」
といきなり年収の話になる。
最近やたらと「夢を持とう」と、メンタルトレーナーみたいな人やビジネスマナー講師、経営コンサルタントなる人物までもが、それを利用して人を引き付けている。
どこからともなくやってくるこの夢、「ドリーム」は、分かりやすいが、どことなく
ちまたで流れる自由とか平和とかと同じ匂いがする。
皆さん「自由」ですよと言われても、やりたい放題の自由なのか奴隷が束縛から解放されることなのか、自由にも良い面と悪い面があることが全く仕分けされていないのとよく似ている。
「夢」も同じで、夢という不確定な未来に向けたビジョンに気分や雰囲気だけで
「金」や「地位」が「夢」だと単一化させてるのです。
夢には悪夢もあるのですよ。
このように、その辺で語られるドリームの温床にはふんだんに気分や雰囲気が支配しているのです。
「夢を見るなんて甘い、現実を見ろ」、といいたいのでない。
むしろ夢に敗北した者も、その単一化された夢をうらやましがり、虎視眈々と次の機会を狙っている点では彼らと同じ夢を見てるのと変わらないのです。
つまり夢の描き方が最初から間違えてるのです。
人間は時間の中で生きてる限り、過去を振り返り、未来を見据えざるを得ない。
しかし夢を持つということは、起きてしまった過去に囚われてばかりはいられなく、不確実だが未来に意識を向けていかざるを得ません。
その未来はあいまいで不確実なゆえ、どうしても夢を有形の「金」や「地位」と単一化したくなるものです。
未来という不確実なものから絶えず受ける挑戦に対し、「金」や「地位」と構えてみせるのは、生きてる上での矛盾、葛藤にどう対処するかという人間の知恵を使わないで済むのです。
便利な世の中で夢を単一化したくなるのは無理もありません。
テレビをつければスターがいて、それに憧れる。こんな少年少女の素朴な夢を持つことも大事なのは確かだが、大人になりいくつかの人生経験を通して、まじめに生きていると、矛盾や葛藤からの人間の知恵に対する挑戦がおぼろげにでも、ほのみえてくるのもです。
そういう矛盾や葛藤に知恵をしぼって向かってゆくことを自覚してゆかなければ生きてる値打ちもないというものです。
80歳にもなりそろそろ死にそうになったとき、年収1000万円であーよかったとか、一生低賃金でイヤだったなあとか、死ぬ間際にそんな風に思わないものです。年収1000万なら1000万なりの、100万なら100万なりの、絶えず受ける矛盾や葛藤の挑戦を自覚し、取り組んでる人を、例え年収100万円でも社会は簡単には見捨てないものです。
おおそうかと、本を1ページ開いてみると
「年収1000万円は可能です」
といきなり年収の話になる。
最近やたらと「夢を持とう」と、メンタルトレーナーみたいな人やビジネスマナー講師、経営コンサルタントなる人物までもが、それを利用して人を引き付けている。
どこからともなくやってくるこの夢、「ドリーム」は、分かりやすいが、どことなく
ちまたで流れる自由とか平和とかと同じ匂いがする。
皆さん「自由」ですよと言われても、やりたい放題の自由なのか奴隷が束縛から解放されることなのか、自由にも良い面と悪い面があることが全く仕分けされていないのとよく似ている。
「夢」も同じで、夢という不確定な未来に向けたビジョンに気分や雰囲気だけで
「金」や「地位」が「夢」だと単一化させてるのです。
夢には悪夢もあるのですよ。
このように、その辺で語られるドリームの温床にはふんだんに気分や雰囲気が支配しているのです。
「夢を見るなんて甘い、現実を見ろ」、といいたいのでない。
むしろ夢に敗北した者も、その単一化された夢をうらやましがり、虎視眈々と次の機会を狙っている点では彼らと同じ夢を見てるのと変わらないのです。
つまり夢の描き方が最初から間違えてるのです。
人間は時間の中で生きてる限り、過去を振り返り、未来を見据えざるを得ない。
しかし夢を持つということは、起きてしまった過去に囚われてばかりはいられなく、不確実だが未来に意識を向けていかざるを得ません。
その未来はあいまいで不確実なゆえ、どうしても夢を有形の「金」や「地位」と単一化したくなるものです。
未来という不確実なものから絶えず受ける挑戦に対し、「金」や「地位」と構えてみせるのは、生きてる上での矛盾、葛藤にどう対処するかという人間の知恵を使わないで済むのです。
便利な世の中で夢を単一化したくなるのは無理もありません。
テレビをつければスターがいて、それに憧れる。こんな少年少女の素朴な夢を持つことも大事なのは確かだが、大人になりいくつかの人生経験を通して、まじめに生きていると、矛盾や葛藤からの人間の知恵に対する挑戦がおぼろげにでも、ほのみえてくるのもです。
そういう矛盾や葛藤に知恵をしぼって向かってゆくことを自覚してゆかなければ生きてる値打ちもないというものです。
80歳にもなりそろそろ死にそうになったとき、年収1000万円であーよかったとか、一生低賃金でイヤだったなあとか、死ぬ間際にそんな風に思わないものです。年収1000万なら1000万なりの、100万なら100万なりの、絶えず受ける矛盾や葛藤の挑戦を自覚し、取り組んでる人を、例え年収100万円でも社会は簡単には見捨てないものです。
決意、葛藤、おっちょこちょい
子供を産む産まないの判断は人間しかしない。
犬猫をはじめ動物は必ず産む。
当たり前だが動物自身で避妊や中絶をするわけはなく、獣らに産まない選択などない。
人間の場合、育ててゆけるか、あるいはただ育てるだけでなく、子供をある程度立派な学校に入れて、優秀な会社に就職させてあげられるかまでを考慮に入れて産むということを考えてしまう。
人間が少なくとも犬猫以上の高尚な存在だとするなら、産む産まないの選択をする人間の行為は、高尚と言えるのかもしれない。
だから景気が安定しない今の時代に産まない選択をする人が増える結果、少子化となるのは人間が高尚な証とも言える。
本当だろうか?
いや、全く違う。
産むか産まないかの判断する能力があること自体は人間が高尚な証かもしれないが、その判断の基準を何にするかで本当に高尚かどうかが決まるはずである。
少子化になること自体は地球にとっていいことか悪いことかは別にして(多分いいことだろうが)、将来を悲観し、未来の安全を担保して産まない選択をするのは賢い選択かもしれないが、残念ながらそれは状況適応でしかない。
状況適応とは物事を考えないことである。
では産む判断の基準は、将来を予測してではなく、何にかかってゆくのだろうか?
産めるか産めないかということ以上に、産みたいか産みたくないか、つまり産む意味を考えてしまうのが人間が高尚である証なのです。
子供を産むのにどんな貧乏人でも出来損ないでも、その意味を持たざるを得ないということです。
産まない選択が悪いと言うわけではなく、産む意味を感じない者は決定的に欠けてるものがある、ということです。
では欠けてるものとは何か?
子供を産むことひとつとってもその意味を考えるということは、必ずその過程に決意なり、葛藤なり、おっちょこちょいなどが複雑に絡んでくるわけで、そういったものをリアルに身に迫られることで、本当の生きてる実感や生きる活力が生まれてくるものなのです。
そういう頭の痛くなるようなことを避けて、育てられるかどうかだけを考えたり、それすらも考えず産み捨てるような者は状況適応のただ中にさまよう生き方を延々と続けるのです。
はっきり言って状況適応は自分で考えないで済むから楽なのです。状況だけで判断したり、うまくやってゆけると思うのはうぬぼれであり、せっかくの生きる活力も生まれてこないのです。
子供を産むこと、生きることなどには必ずと言っていいほど犠牲を伴うもので、いいとこ取りはできない。
産む意味を問い続ける場面でのギリギリの決断や葛藤、おっちょこちょいはそのことを如実に教えてくれるのです。
状況適応は結果よければ過程は何でもよい帰結主義です。
それはオレが、あなたが生き残れればいいというだけのことです。
人はいつか死ぬ存在だと本当に認めるなら、オレが、あなたが個人の生にすがりつく姿は傍から見てみすぼらしい。
だからといって「オレなんてちっぽけな存在だ」と居直るつもりも毛頭ない。
ちっぽけな存在だからこそ全力で事にあたる人にこそ、産む産まないの選択する権利が発生するというものです。
犬猫をはじめ動物は必ず産む。
当たり前だが動物自身で避妊や中絶をするわけはなく、獣らに産まない選択などない。
人間の場合、育ててゆけるか、あるいはただ育てるだけでなく、子供をある程度立派な学校に入れて、優秀な会社に就職させてあげられるかまでを考慮に入れて産むということを考えてしまう。
人間が少なくとも犬猫以上の高尚な存在だとするなら、産む産まないの選択をする人間の行為は、高尚と言えるのかもしれない。
だから景気が安定しない今の時代に産まない選択をする人が増える結果、少子化となるのは人間が高尚な証とも言える。
本当だろうか?
いや、全く違う。
産むか産まないかの判断する能力があること自体は人間が高尚な証かもしれないが、その判断の基準を何にするかで本当に高尚かどうかが決まるはずである。
少子化になること自体は地球にとっていいことか悪いことかは別にして(多分いいことだろうが)、将来を悲観し、未来の安全を担保して産まない選択をするのは賢い選択かもしれないが、残念ながらそれは状況適応でしかない。
状況適応とは物事を考えないことである。
では産む判断の基準は、将来を予測してではなく、何にかかってゆくのだろうか?
産めるか産めないかということ以上に、産みたいか産みたくないか、つまり産む意味を考えてしまうのが人間が高尚である証なのです。
子供を産むのにどんな貧乏人でも出来損ないでも、その意味を持たざるを得ないということです。
産まない選択が悪いと言うわけではなく、産む意味を感じない者は決定的に欠けてるものがある、ということです。
では欠けてるものとは何か?
子供を産むことひとつとってもその意味を考えるということは、必ずその過程に決意なり、葛藤なり、おっちょこちょいなどが複雑に絡んでくるわけで、そういったものをリアルに身に迫られることで、本当の生きてる実感や生きる活力が生まれてくるものなのです。
そういう頭の痛くなるようなことを避けて、育てられるかどうかだけを考えたり、それすらも考えず産み捨てるような者は状況適応のただ中にさまよう生き方を延々と続けるのです。
はっきり言って状況適応は自分で考えないで済むから楽なのです。状況だけで判断したり、うまくやってゆけると思うのはうぬぼれであり、せっかくの生きる活力も生まれてこないのです。
子供を産むこと、生きることなどには必ずと言っていいほど犠牲を伴うもので、いいとこ取りはできない。
産む意味を問い続ける場面でのギリギリの決断や葛藤、おっちょこちょいはそのことを如実に教えてくれるのです。
状況適応は結果よければ過程は何でもよい帰結主義です。
それはオレが、あなたが生き残れればいいというだけのことです。
人はいつか死ぬ存在だと本当に認めるなら、オレが、あなたが個人の生にすがりつく姿は傍から見てみすぼらしい。
だからといって「オレなんてちっぽけな存在だ」と居直るつもりも毛頭ない。
ちっぽけな存在だからこそ全力で事にあたる人にこそ、産む産まないの選択する権利が発生するというものです。
スクールパートナー菱田先生
キックボクサーで角刈り、かなりイカつい菱田先生。
不良少年少女や親に捨てられた子供を更正させてる人である。
浅草の中学校にスクールパートナーとしても勤めている。
スクールパートナーとは昔でいう生活指導の先生だが、生徒目線の相談に乗ったりするもっとアニキ的な役割でもある。
菱田先生を見ていれば、モンスターティーチャーとか関係ない。
アル中の父親の家に乗り込み、とことん怒鳴りつけ、子供の前で親をののしる。
親とてひとりの弱い人間であるのだと見せ付けてるかのようにも思える。
虐待や養育放棄は子供にとっては緊急事態だ。住居侵入とか親の権利とか、法律と照らし合わせてる場合ではない。
モンスターティーチャーとかいうのは結局、子供を学校にあずける親たちの“権利”を主張するのに都合よい言葉なのかも知れない。
ここで菱田先生が示唆するのは、どんな出来損ないの親でも、その親が子供を養育するしかない、ということ。
だから最後の砦である親にしっかりやってもらうために子供を保護するだけでは終わらない。
要するに菱田先生のようなやり方はダメな親や産む自信がない大人は子供を産むなとか、養育するなとは言わず、産んだからにはしっかりやれよという立場なのだ。
知識人の西部邁氏も立場としては同じである。
近年の自由主義は個人の自由、つまり個人主義を大切にしてるが、この個人主義で生活観を立ててゆくと、どうしても子供の養育は負担になる。だから結婚を、出産を断念するというのは個人主義を至上価値にしていることになる。
そして個人の自由を求めると言っても大した大義名分はなく、せいぜい贅沢をしたいとかお金を自由に使いたいとかで、人間として生まれたなら、結婚生活とか子育てとか決して簡単にゆかない難題に取り組むべき価値があるのではないかという立場である。
しょうもない人生でどうせ終わるのが人間の大半なんだから、子育て位できてやっと一人前じゃねえのと。
もっと言えば、結婚生活や子育てもろくにできないくせに、人間の“権利”を主張するのは少しあつかましいという見解である。
どんな親も最初のうちは良い親であるよう、仕事に、生活に取り組もうとしてた者が大半であるとは思う。
子供を虐待するために産むような根っからの極悪人はそうはいない。
現にこのアル中親父も子供が6歳の頃、抱き上げて一緒に写ってる写真が紹介されていた。
では何故ダメな親に堕落していったのか?
子供と真剣に向き合うことを怠ってしまったのか?
この親だけがたまたまダメ人間だったというより、やっぱり個人主義の社会背景に知らず知らずの内に引き込まれたという見方から始めてみる価値はある。
その証拠にたまたまダメな親になったひとりが悪いとする自己責任論で片付けるには、児童虐待する親があまりにも多すぎる。
つまり親たちもどう生きてゆけばいいか分らない、不安があるのだといえる。
では大人たちは子育てをはじめとする暮らしにおいて何を大事にしてゆけばいいのだろうか。
そのヒントになることがある。
あるホームレスのオヤジが中学生に暴行を受け、こんなことを言っていた。
「おれはハウス(家)がないが、中学生の子供たちはホーム(家庭)がないのだ」と。
だから中学生の子供たちの方がかわいそうなのだ、と。
不良少年に限らず、引き篭もり青年にしても、ホームという家庭環境を傷つけられた者は自分の居場所を確保するだけで精一杯なのだろう。
そして自分の居場所を失くしてる大人も、子供と言う他者とどう関わるかなんて不安に満ちた大仕事にもなるのは当たり前だろう。
ところで何故、菱田先生のような人たちは、よその子供のことでそんなに必死になれるのか?
その原動力は何だろうか?
個人の自由を認める前に、自分の居場所というか、精神の居場所をリアリティある形で持てるかが人間が生きてゆく上で欠かせないのでは?
そんな危機意識が菱田先生のような人たちを突き動かしているのでは、と思う。
不良少年少女や親に捨てられた子供を更正させてる人である。
浅草の中学校にスクールパートナーとしても勤めている。
スクールパートナーとは昔でいう生活指導の先生だが、生徒目線の相談に乗ったりするもっとアニキ的な役割でもある。
菱田先生を見ていれば、モンスターティーチャーとか関係ない。
アル中の父親の家に乗り込み、とことん怒鳴りつけ、子供の前で親をののしる。
親とてひとりの弱い人間であるのだと見せ付けてるかのようにも思える。
虐待や養育放棄は子供にとっては緊急事態だ。住居侵入とか親の権利とか、法律と照らし合わせてる場合ではない。
モンスターティーチャーとかいうのは結局、子供を学校にあずける親たちの“権利”を主張するのに都合よい言葉なのかも知れない。
ここで菱田先生が示唆するのは、どんな出来損ないの親でも、その親が子供を養育するしかない、ということ。
だから最後の砦である親にしっかりやってもらうために子供を保護するだけでは終わらない。
要するに菱田先生のようなやり方はダメな親や産む自信がない大人は子供を産むなとか、養育するなとは言わず、産んだからにはしっかりやれよという立場なのだ。
知識人の西部邁氏も立場としては同じである。
近年の自由主義は個人の自由、つまり個人主義を大切にしてるが、この個人主義で生活観を立ててゆくと、どうしても子供の養育は負担になる。だから結婚を、出産を断念するというのは個人主義を至上価値にしていることになる。
そして個人の自由を求めると言っても大した大義名分はなく、せいぜい贅沢をしたいとかお金を自由に使いたいとかで、人間として生まれたなら、結婚生活とか子育てとか決して簡単にゆかない難題に取り組むべき価値があるのではないかという立場である。
しょうもない人生でどうせ終わるのが人間の大半なんだから、子育て位できてやっと一人前じゃねえのと。
もっと言えば、結婚生活や子育てもろくにできないくせに、人間の“権利”を主張するのは少しあつかましいという見解である。
どんな親も最初のうちは良い親であるよう、仕事に、生活に取り組もうとしてた者が大半であるとは思う。
子供を虐待するために産むような根っからの極悪人はそうはいない。
現にこのアル中親父も子供が6歳の頃、抱き上げて一緒に写ってる写真が紹介されていた。
では何故ダメな親に堕落していったのか?
子供と真剣に向き合うことを怠ってしまったのか?
この親だけがたまたまダメ人間だったというより、やっぱり個人主義の社会背景に知らず知らずの内に引き込まれたという見方から始めてみる価値はある。
その証拠にたまたまダメな親になったひとりが悪いとする自己責任論で片付けるには、児童虐待する親があまりにも多すぎる。
つまり親たちもどう生きてゆけばいいか分らない、不安があるのだといえる。
では大人たちは子育てをはじめとする暮らしにおいて何を大事にしてゆけばいいのだろうか。
そのヒントになることがある。
あるホームレスのオヤジが中学生に暴行を受け、こんなことを言っていた。
「おれはハウス(家)がないが、中学生の子供たちはホーム(家庭)がないのだ」と。
だから中学生の子供たちの方がかわいそうなのだ、と。
不良少年に限らず、引き篭もり青年にしても、ホームという家庭環境を傷つけられた者は自分の居場所を確保するだけで精一杯なのだろう。
そして自分の居場所を失くしてる大人も、子供と言う他者とどう関わるかなんて不安に満ちた大仕事にもなるのは当たり前だろう。
ところで何故、菱田先生のような人たちは、よその子供のことでそんなに必死になれるのか?
その原動力は何だろうか?
個人の自由を認める前に、自分の居場所というか、精神の居場所をリアリティある形で持てるかが人間が生きてゆく上で欠かせないのでは?
そんな危機意識が菱田先生のような人たちを突き動かしているのでは、と思う。
とにかく寝る
ポジティブになる方法を書いてる書物は多い、特に自己啓発書に多い。
自己啓発書だけに限らず、成功哲学、ダイエット本、マナー本、恋愛術などなど。
気づかないかも知れないが、いずれも読者の“ポジティブ志向”にうったえかけた内容なのです。
ここでは自己を啓発して目の前の仕事を前向きに取り組んだりすることをダメだと言いたいのではない。
これらの書物を代表として、ちまたで言われる“ポジティブ志向”がうまいもんを食ったり、健康を維持して長生きしたり、趣味や娯楽に精を出すという類のものとして語られてるのは、ポジティブなどでなく快楽主義なのです。
空腹があっての満腹、いずれ死があっての健康なのに、うまいもんを食いつくし、やがて退屈に襲われ、「もっとうまいもん」と美食家となったり、究極の健康は不老不死を祈願することがポジティブではないのです。
快楽主義はいずれ退屈にさいなまれるということです。
とにかくポジティブになることに躍起になってるのが現代社会のように見える。
一歩外から見れば変な風景かもしれない。
「ポジティブにならなければならない」と、「なければならない」が付いたとたんに苦役に変わる。
ポジティブに執着すること自体、中毒症状と変わりないものかもしれません。
ネガティブにビクビク怯えてのポジティブ志向ともいえるこんな有様なので、ネガティブと生涯付き合ってゆく方法があってもよいのではないか?
そんな風にも思います。
心理学者の加藤諦三氏がおもしろいことを言っている。
手紙には「かぜを引かないように気をつけてください。」とは書くが、「うつ病にならないように気をつけてください。」とは書かない、と。
これは、うつ病自体が依然特殊なものとして捉えられているからで、実は誰でもうつ病になることを理解しがたい風潮であることを言ってるのです。
仕事での失敗、失恋、家庭内不和、人間関係に疲れた、などなど生きてる上で様々な悩みは付いて回るように、精神状態の起伏は日常的に起こるわけで、快楽主義者のいうポジティブなんて諦め、ネガティブをどう退治するかを考えてみるのは生きにくさを克服するひとつの方法かもしれません。
オレが提案するネガティブを克服する方法とは?
とにかく寝る、です。
オレの実体験だが、やる気が起こらない日々が続き、無気力の原因が何かを求め、気づいたら部屋がゴミだらけで片付けられてない。そして部屋を見るたび気がめいる。
そこで、掃除をしようとしてもそのやる気すら起こらない。
やれることはとにかく寝るだけ。
しかし寝て起きても最低限のことしか出来ず、やる気はいっこうに起こらない。そしてまた部屋は掃除はされないまま数ヶ月があっという間に過ぎたのです。
いい加減掃除しないとやばいと思うが、やっぱりやる気は起こらない。そこでまた寝る。
そんな日々が続いたある日、起きたとき少しやる気が戻っていたときがあったのです。
とにかく寝たから、そこに行き着いたとしか自分では解釈できないのだが、結果的に掃除は少しできました。
これもとにかく寝たからにつきます。
ネガティブを克服する方法、それは差し当たりこの方法しかないと思っています。
自己啓発書だけに限らず、成功哲学、ダイエット本、マナー本、恋愛術などなど。
気づかないかも知れないが、いずれも読者の“ポジティブ志向”にうったえかけた内容なのです。
ここでは自己を啓発して目の前の仕事を前向きに取り組んだりすることをダメだと言いたいのではない。
これらの書物を代表として、ちまたで言われる“ポジティブ志向”がうまいもんを食ったり、健康を維持して長生きしたり、趣味や娯楽に精を出すという類のものとして語られてるのは、ポジティブなどでなく快楽主義なのです。
空腹があっての満腹、いずれ死があっての健康なのに、うまいもんを食いつくし、やがて退屈に襲われ、「もっとうまいもん」と美食家となったり、究極の健康は不老不死を祈願することがポジティブではないのです。
快楽主義はいずれ退屈にさいなまれるということです。
とにかくポジティブになることに躍起になってるのが現代社会のように見える。
一歩外から見れば変な風景かもしれない。
「ポジティブにならなければならない」と、「なければならない」が付いたとたんに苦役に変わる。
ポジティブに執着すること自体、中毒症状と変わりないものかもしれません。
ネガティブにビクビク怯えてのポジティブ志向ともいえるこんな有様なので、ネガティブと生涯付き合ってゆく方法があってもよいのではないか?
そんな風にも思います。
心理学者の加藤諦三氏がおもしろいことを言っている。
手紙には「かぜを引かないように気をつけてください。」とは書くが、「うつ病にならないように気をつけてください。」とは書かない、と。
これは、うつ病自体が依然特殊なものとして捉えられているからで、実は誰でもうつ病になることを理解しがたい風潮であることを言ってるのです。
仕事での失敗、失恋、家庭内不和、人間関係に疲れた、などなど生きてる上で様々な悩みは付いて回るように、精神状態の起伏は日常的に起こるわけで、快楽主義者のいうポジティブなんて諦め、ネガティブをどう退治するかを考えてみるのは生きにくさを克服するひとつの方法かもしれません。
オレが提案するネガティブを克服する方法とは?
とにかく寝る、です。
オレの実体験だが、やる気が起こらない日々が続き、無気力の原因が何かを求め、気づいたら部屋がゴミだらけで片付けられてない。そして部屋を見るたび気がめいる。
そこで、掃除をしようとしてもそのやる気すら起こらない。
やれることはとにかく寝るだけ。
しかし寝て起きても最低限のことしか出来ず、やる気はいっこうに起こらない。そしてまた部屋は掃除はされないまま数ヶ月があっという間に過ぎたのです。
いい加減掃除しないとやばいと思うが、やっぱりやる気は起こらない。そこでまた寝る。
そんな日々が続いたある日、起きたとき少しやる気が戻っていたときがあったのです。
とにかく寝たから、そこに行き着いたとしか自分では解釈できないのだが、結果的に掃除は少しできました。
これもとにかく寝たからにつきます。
ネガティブを克服する方法、それは差し当たりこの方法しかないと思っています。