人工的な絆
東日本大震災があったからか、先行き不安な社会状況を目の前にして今年の新成人たちも口をそろえてこう言う。
「絆が大切」
その大事とする「絆」とは具体的に、
募金やボランティアに関心を持つこと
福島で苦しんでる人たちを見て涙を流すこと
こんな風な手合いのものと解釈されている。
気持ちは分かる。
が、おおよそニッポンでは小さい頃から「友達は大事だよ」と同じように、ヒューマニズムの脈絡で「絆が大切」は扱われてることを見逃してはならない。
友達は大事ですよ、でもちょっと前まで散々、「絆が大事なのは分かるが、自分の身は自分で守らなきゃ。他人に構ってられない。やっぱり本音は自分が大事だ」とすることが主流だったのに、
ありゃ、どこに行った?
どうやら大震災という天変地異を体験して、自己中心的もやり過ぎはよくないなぁと、「絆が大切」とでも言わなきゃ気まずくなったという風に気まぐれで言ってるようにしか聞こえない。
要するに「絆が大切」とは言ってのけてみたものの、本当は腑に落ちてないのです。
絆とは、ボランティアでもやって義務的に他人のことを思いやったり、人間なら自然に清い心があるはずとヒューマニズムにうったえたり、人工的に生み出すものではありません。
絆とは?
ごく単純な話なのです。
アナタの目の前に、もし働く意欲もあり努力もしてるのに悪戦苦闘した結果、どん底にいる人がいたとしたら…。
その人を何が何でも助けなければならないのです。
なぜなら、自分が助けるべき人と認めた人を助けなければ、、自分が良しとする価値観も正義もただのキレイゴトでしかなくなり、アナタという人間はこれが正義だという価値観を持たない単なる動物に成り下がるからです。
そこでもし彼を見捨てたとしたら、他に何を大事にするべきかをアナタは本質的に見失い、開き直りの境地にさまよってしまうはずです。
個人主義がダメな理由、共同体破壊がいけない理由はここにあるのです。
何も自分のことのみを大事にし、好き勝手やってる人をねたんで言ってるのではないのです。
だから助けるという行為も、福祉制度で国家が助けるべきだとか、困ったときはお互い様でギブアンドテイクの関係が前提にあるのではなく、自分が「善」だとすることを揺るがせにできないと感じ、守ろうとするとき、
例え自分の全財産の半分を差し出してでも、本当は行わなければならないはずなのです。
しかしこの当たり前に皆が持ってるともいうべき「善」という感覚はいつ、誰かに教えられたものではない。
アナタ個人で見つけたものでもない。
どうやって身に付けたのだろうか。
その答えは、この世の中、この国、この土地や町で、何が「善」とされてるか、そこに掛かってくる訳です。
この土地、この町という共同体的な場所で暮らす人々が共通に「善」だとする『共通感情』というものが見えない形で実際には存在してるのです。
これは長年に渡ってそれが「善」だとされてきたものを、この土地や町で暮らす人々が伝統や文化、習慣という形で確実に受け継がれているのです。
これは昨日今日、外国から輸入されてきたような価値観でもなく、アメリカという国が誕生したのよりもずっと前からある日本という土地で長い年月をかけて日本人が固有に共有してきたものなのです。
「あいつのやってることは人としておかしい」
「いや、あいつの言うことにも一理ある」
というように、何が善なのか目には見えない『共通感情』というものを人々は共有し、時には議論し、また今生きてる人間だけでなく、先に生まれた人からその子供へ伝えられてゆく共同体という環境が、どこかから輸入されてきた近代資本主義や近代民主主義によって破壊されている。
そういう背景から、自分の子供が死にそうになってるのに平気なお父さんやお母さんが誕生してしまうのです。
「絆が大切」
その大事とする「絆」とは具体的に、
募金やボランティアに関心を持つこと
福島で苦しんでる人たちを見て涙を流すこと
こんな風な手合いのものと解釈されている。
気持ちは分かる。
が、おおよそニッポンでは小さい頃から「友達は大事だよ」と同じように、ヒューマニズムの脈絡で「絆が大切」は扱われてることを見逃してはならない。
友達は大事ですよ、でもちょっと前まで散々、「絆が大事なのは分かるが、自分の身は自分で守らなきゃ。他人に構ってられない。やっぱり本音は自分が大事だ」とすることが主流だったのに、
ありゃ、どこに行った?
どうやら大震災という天変地異を体験して、自己中心的もやり過ぎはよくないなぁと、「絆が大切」とでも言わなきゃ気まずくなったという風に気まぐれで言ってるようにしか聞こえない。
要するに「絆が大切」とは言ってのけてみたものの、本当は腑に落ちてないのです。
絆とは、ボランティアでもやって義務的に他人のことを思いやったり、人間なら自然に清い心があるはずとヒューマニズムにうったえたり、人工的に生み出すものではありません。
絆とは?
ごく単純な話なのです。
アナタの目の前に、もし働く意欲もあり努力もしてるのに悪戦苦闘した結果、どん底にいる人がいたとしたら…。
その人を何が何でも助けなければならないのです。
なぜなら、自分が助けるべき人と認めた人を助けなければ、、自分が良しとする価値観も正義もただのキレイゴトでしかなくなり、アナタという人間はこれが正義だという価値観を持たない単なる動物に成り下がるからです。
そこでもし彼を見捨てたとしたら、他に何を大事にするべきかをアナタは本質的に見失い、開き直りの境地にさまよってしまうはずです。
個人主義がダメな理由、共同体破壊がいけない理由はここにあるのです。
何も自分のことのみを大事にし、好き勝手やってる人をねたんで言ってるのではないのです。
だから助けるという行為も、福祉制度で国家が助けるべきだとか、困ったときはお互い様でギブアンドテイクの関係が前提にあるのではなく、自分が「善」だとすることを揺るがせにできないと感じ、守ろうとするとき、
例え自分の全財産の半分を差し出してでも、本当は行わなければならないはずなのです。
しかしこの当たり前に皆が持ってるともいうべき「善」という感覚はいつ、誰かに教えられたものではない。
アナタ個人で見つけたものでもない。
どうやって身に付けたのだろうか。
その答えは、この世の中、この国、この土地や町で、何が「善」とされてるか、そこに掛かってくる訳です。
この土地、この町という共同体的な場所で暮らす人々が共通に「善」だとする『共通感情』というものが見えない形で実際には存在してるのです。
これは長年に渡ってそれが「善」だとされてきたものを、この土地や町で暮らす人々が伝統や文化、習慣という形で確実に受け継がれているのです。
これは昨日今日、外国から輸入されてきたような価値観でもなく、アメリカという国が誕生したのよりもずっと前からある日本という土地で長い年月をかけて日本人が固有に共有してきたものなのです。
「あいつのやってることは人としておかしい」
「いや、あいつの言うことにも一理ある」
というように、何が善なのか目には見えない『共通感情』というものを人々は共有し、時には議論し、また今生きてる人間だけでなく、先に生まれた人からその子供へ伝えられてゆく共同体という環境が、どこかから輸入されてきた近代資本主義や近代民主主義によって破壊されている。
そういう背景から、自分の子供が死にそうになってるのに平気なお父さんやお母さんが誕生してしまうのです。