運が人生を左右するのか? | 「異端児、常識を疑う」

運が人生を左右するのか?

世の中の所得は全部、運で決まってるという人がいる。

ここに努力して高い所得になった人がいたとする。
しかし苦しんで高所得にたどり着いた努力とて、努力できる環境に居れたことはひとつの運であり、勉強の才能に恵まれ高い給料を得られるようになった人も、たまたま賢い遺伝子を授かれる親の元に生まれた運という要因からは離れられない。
だから高い所得の人から多く課税して、恵まれない人に再分配すれば、高所得者との格差を認めつつもある程度平等が実現できる。

こう言ったのはジョンロールズという人だ。

ロールズの考え方は日本をはじめ現代の福祉国家を正当化する強力な原理になっている。

運によってもたらされる格差は人間の手で是正するには限界がある。だから格差はある程度認めていこうじゃないか、そう暗黙の了解をするしか今の民主主義では平等とは何かについてを答えようがない。

が、そうであるなら今の日本では奇妙なことが起こっている。

大地震の被災者支援のムード。
運が悪かった人をここぞとばかりに哀れみ助けようとする風潮である。

ところが実際のところどうだろう?東京や被災地以外では被災者のことを忘れつつある。
関西の人なんて大震災なんてどこ吹く風らしいし。(阪神大震災のときは逆だったし。)
少なくともオレは忘れてた。まだ体育館で寝泊りしてる人がいるんだとか、原発はどうなったのとか。

本音を言えばこうだ。
「かわいそうだが、被災は運が悪かったと言うしかない。生活の建て直しは政府からの支援と自己の努力でやってくれ。俺達にも生活がある。だから身銭を切ってまでは助けられない。」

しかし依然として被災地に対する冷たい目はタブーとして、表向きの建前では「絆」で見守ってるよと言う。

なぜ本音と建前が真逆になって両立しているのか。

運が世の中の優劣を決定することを震災前と変わらず、続けてゆくことを実は望んでいるからである。

運が人生を左右してしまうことには致し方ない部分があると認めるとしても、「絆」という言葉を利用して、あたかも世の中は平等であると演出しようとする風潮には、何か重大な本音を隠してる匂いがプンプンしませんか?

「絆」が必要かどうかは、かわいそうだからだけではピンと来ないのだろう。
他人同士が欺瞞に満ちて足を引っ張り合う混乱の中でしか、本当に絆が必要かどうかなど分かりっこないのかも知れない。

「自分さえ良ければ」と思うことより、キレイ事で正義を表舞台で言うことのほうがはるかにたちが悪い。
なぜなら、世の中丸く収まってると考えてしまうからである。