おためごかしのボランティア
今回の震災では1円たりとも募金してない。
そんなオレに、東北でのボランティアや現地で支援にあたってる人についてあれこれ言う資格すらないのかも知れない。
だがオレもボランティアのことを少しは知ってる。
盲目の人や自閉症ぎみの人にパソコン操作を教えるようなボランティアを1年くらいやってる。
最初はボランティアにどこか嫌悪感があり、ボランティア行為自体が偽善行為でないかという疑いが常にあった。
が、しかしだからといって“しょせん自分を助けられるのは自分だ”とか“自分のことで精一杯だ”と個人主義にのめり込んでゆくのは日本では非常に多く、偽善行為以上に浅はかなのも事実だ。
なぜなら社会という公共の場で、自分ひとりでは生きられないことは皆薄々分かっているからだ。
それはおのずと好きな人も嫌いな人とも、困ってる人もそうでない人とも暮らさざるを得ない「相互扶助」の場であることを認めねばならず、「相互扶助」とは何かを知る必要がある。オレがボランティアをはじめたキッカケはそれだ。
だからボランティアとは実は、誰にでも関係のあることで、考えることから逃れられないものなのである。
そうでないと大震災とか惨事のときだけ突如現れるボランティアは、キレイ事のおためごかしに終わってしまう。
「困った人のために、できる限りのことをする」
これが今回の震災支援におけるスローガンで、プロスポーツ選手も一流企業の経営者も、チャリティー試合や莫大な金を寄付している。
だが「困ってる人のため」とか「人の役に立ちたい」と言っても、心の底では他人から立派だと思われたいからやってるかも知れない。
だったら、いい人ぶられるのは煩わしいから金だけ置いて帰ってくれと思うことだって当然ある。
あるいは孫正義が100億円寄付したと言うが、1兆円もの資産があるのになんでもっと出せないのかとなる。お前の「できる限り」はしょせんそんなものか、と。
皮肉なことに5月のゴールデンウィーク明けにボランティア人口は激減したそうだ。
理由は学校や会社が始まったからだ。
こうなると、どこまですればボランティアとして成立するのか、結局「人の役に立ちたい」とか「できる限り」とかは軽々しく言えないものなのだ。
今の日本のボランティアは、個人個人の良心や善意でしか動くキッカケは見出せない。
「相互扶助」には必ず「相互排除」が表裏一体となってる。
助け合いが大事である一方で、運悪く社会からこぼれ落ちてしまう者が少なくともいるということだ。
学生にも日常生活がある。学校が始まればボランティアから身を引くしかない。
「もう帰んなきゃ、申し訳ないが、支援は諦めてくれ」としか言いようがない。
しかしこれは言いにくいことだが、「オレは人のためにやってる、これは正義の行為だ、そこをどけ!」というのとあまり変わらない。
では、性善説なんて嘘だ、人は自分のことだけがかわいいものさ、と現実論だけに支配され、公共での相互扶助を諦めることになるのは仕方ないのか。
そんなオレに、東北でのボランティアや現地で支援にあたってる人についてあれこれ言う資格すらないのかも知れない。
だがオレもボランティアのことを少しは知ってる。
盲目の人や自閉症ぎみの人にパソコン操作を教えるようなボランティアを1年くらいやってる。
最初はボランティアにどこか嫌悪感があり、ボランティア行為自体が偽善行為でないかという疑いが常にあった。
が、しかしだからといって“しょせん自分を助けられるのは自分だ”とか“自分のことで精一杯だ”と個人主義にのめり込んでゆくのは日本では非常に多く、偽善行為以上に浅はかなのも事実だ。
なぜなら社会という公共の場で、自分ひとりでは生きられないことは皆薄々分かっているからだ。
それはおのずと好きな人も嫌いな人とも、困ってる人もそうでない人とも暮らさざるを得ない「相互扶助」の場であることを認めねばならず、「相互扶助」とは何かを知る必要がある。オレがボランティアをはじめたキッカケはそれだ。
だからボランティアとは実は、誰にでも関係のあることで、考えることから逃れられないものなのである。
そうでないと大震災とか惨事のときだけ突如現れるボランティアは、キレイ事のおためごかしに終わってしまう。
「困った人のために、できる限りのことをする」
これが今回の震災支援におけるスローガンで、プロスポーツ選手も一流企業の経営者も、チャリティー試合や莫大な金を寄付している。
だが「困ってる人のため」とか「人の役に立ちたい」と言っても、心の底では他人から立派だと思われたいからやってるかも知れない。
だったら、いい人ぶられるのは煩わしいから金だけ置いて帰ってくれと思うことだって当然ある。
あるいは孫正義が100億円寄付したと言うが、1兆円もの資産があるのになんでもっと出せないのかとなる。お前の「できる限り」はしょせんそんなものか、と。
皮肉なことに5月のゴールデンウィーク明けにボランティア人口は激減したそうだ。
理由は学校や会社が始まったからだ。
こうなると、どこまですればボランティアとして成立するのか、結局「人の役に立ちたい」とか「できる限り」とかは軽々しく言えないものなのだ。
今の日本のボランティアは、個人個人の良心や善意でしか動くキッカケは見出せない。
「相互扶助」には必ず「相互排除」が表裏一体となってる。
助け合いが大事である一方で、運悪く社会からこぼれ落ちてしまう者が少なくともいるということだ。
学生にも日常生活がある。学校が始まればボランティアから身を引くしかない。
「もう帰んなきゃ、申し訳ないが、支援は諦めてくれ」としか言いようがない。
しかしこれは言いにくいことだが、「オレは人のためにやってる、これは正義の行為だ、そこをどけ!」というのとあまり変わらない。
では、性善説なんて嘘だ、人は自分のことだけがかわいいものさ、と現実論だけに支配され、公共での相互扶助を諦めることになるのは仕方ないのか。