生活の保護か、社会の安定か? | 「異端児、常識を疑う」

生活の保護か、社会の安定か?

お金は大事である。
お金が大事だと言う意味が、裕福になるための手段として大事というのではない。

お金とはいとも簡単に出てゆくものだが、得るのには大変困難を伴うものである。
ひとたび収入の口が途絶えたら、別の収入源を切り開くのが大変なのは、失業したことのある人なら痛いほど分るはずで、お金とは、なめて掛かってはならないもの、そんなものに縛られてる恐ろしさに対して大事だと思うのである。

であるなら、一気に法外な金額を得ようとする行為も、いかに安いものを得ようかと安物買いの銭失いに走ることも本質的には同じで、どちらもお金が簡単に出てゆくものであり、得るのには大変困難を伴うものということが忘れられてしまってる感覚なのである。

お金は価値の基準となっているので、全てのものには価格が付けられる。
スーパーのあらゆる商品にはそれに見合った価格が付けられ、あなたの労働にも給料という価格が付けられている。
「金で買えないものはない」ということであり、自分の時間を切り売りする以外に生活する術がないということである。
つまり人は、易々とお金の呪縛にはまらざるを得ない環境にいるのであり、そこからどう距離を取るかが大事ということである。

本来、価格とはモノの価値が適正かどうかを表わす指標であるのならば、広い意味では社会の価値基準が適正なものかという感覚が根本的に関わってくるのです。
適正な社会の価値基準とは、何が正義で、どうあれば人はまっとうなのかということなので、「公正さはどうあるべきか」という感覚が問われてくるのです。

社会はその運行を首尾よく進めるために、公正な感覚を頼りに安定させてゆかなければならないのです。
本当の意味でのお金が大事という感覚を忘れてしまい、楽して一気に法外な金を得ようとしたり、いかに安いものを買って得しようとすると、どういうことになるのか?

ひとつの例として、テレビ芸人の親族が生活保護をもらっていたという報道が象徴的である。

誤解しないで欲しいのが、芸人の親族が生活保護をもらうことが良いか悪いかを判定したいのではない。
誰が生活保護をもらうべきかの議論でなく、生活保護というものは社会の運行上、どういう役割を持つものか理解しなければならない。

誰が生活保護をもらうべきかの議論は、誰に施しを恵むか、個別に指名することが前提の議論で、結局「恵まれない人」のためになる。
そしてそこに群がるのが、楽してもらおうとする者や収入が少ないのを装ってもらおうとする者が現れるのは至極当然なのです。

社会は公正な感覚で安定させてゆくことが目的ならば、不運な目に会った人を極力少なくする使命を少なからず帯びているのです。

そしたら、生活保護というものは「恵まれない人」に配るのは当然ではあるのだが、社会を安定させるために配るという役割があるのも理解できる。
社会を安定とは?

お金に困ってる人の中には、出来る限りの努力をしたにもかかわらず不運にも落伍者となった人も少なからずいる。
そういう人たちは、生活保護という社会の施しを簡単に受けることにもプライドが傷つくのです。
できるならば仕事が欲しい、仕事で稼いで生活を立て直したい。そんな思いです。

社会の安定とは、恵まれない人に配ればおしまいと簡単にはゆかず、人が生きる糧を実感できたりすることが達成されて始めて安定と呼べるのであり、勤労のありがたみというのはそういう意味が込められているのでしょう。

そういう思いを巡らせれば、お金は大事なんて簡単に締めくくれないものなのです。