未来に対する前のめり
ここにロマンチストな質問がある。
「君はなぜ明日を生きられるのか?」
少なからず誰もが昨日より今日、今日より明日の方が状況が良くなって欲しいと、明日の展望を何となく抱けているから生きる活力が湧いてくるものであろう。
もちろんはっきり意識されるものではない。
もし仮に明日になれば持ち金が尽き、1年後には周りから全ての人が自分の元から去ってゆくのを自覚されてしまえば、それは生きる活力も失われるだろう。
しかしそんな都合よく全ての未来に希望を持てるほど、簡単にゆかないことは現実生活で誰もが感じてもいる。
そこに誰もがおちいる罠(トラップ)がある。
「未来に対する前のめり」である。
簡単な例だと、安易な儲け話に乗ったり、今の苦しさに「救い」を求めな何かに飛びついた結果、おかしな宗教にハマったりすることです。
これらはごく一部の人だけだろうが、我々は簡単に言えば「幸せ」という漠然としたイメージに近づくよう先を生きている。
では幸せとは具体的に言うと、経済的に豊かになることやたくさんの人と関わることだったりするわけで、逆に東日本大地震で被災したり、観光バスや自動車事故で被害に合うようなことを一般的に不幸と呼ぶ。
つまり「心地よさ」を幸せと呼び、そうでないことを不幸と呼んでいて、これが行き過ぎると快楽主義になる。
もちろん天災や事故で身内を亡くしたとしたら計り知れない辛さがあるのは事実で、そのような危機を避けようと生きるてるのも事実です。
が、この幸と不幸を快楽主義だけにスポットを当ててしまうと、どうしても未来は効率的なもので、(快楽主義としての)不幸が起こりにくい社会でなければならなくなり、行き着く先は技術信仰やいつまでも長生きできることに価値が置かれてくるのです。
つまり、絶対に幸せや安全が約束される未来を要求してしまうのです。
未来に期待しすぎるがゆえに、次々と新しいものを求め、非効率を排除、合理性を追求することが習慣化してしまうのです。当然、過去の知恵や習慣は劣ったものとして軽んじられることになる。
こういう思考回路を「進歩主義」と呼ぶ。
この進歩主義への軽信に対して決定的に欠けているものがある。
それは今生きている者が信じることや考え方は、もしかしたら全員ヤバいことに片足をつっこんでるかも知れないという疑いを持たないことです。
それでも「幸せとは何か」と問うことが、「人のあり方はどうあるべきか」の問いに近い意味であることは、誰もが薄々感じているはずです。
であるならば、たまさか浮かんだアナタの意見やちょっとした専門家や有名人の意見で、ものの道理や公正なものを決められるなんて、危なっかしくて採用できっこない。
進歩主義に染まった意見に耳を傾けるのを止めるなら、何に問い合わせればよいか?
人間とは何か?尊重される人間とは誰か?
今生きてる人間だけが、「人間」ではないのです。
未来に生まれるものも、過去に生きたものもいて、人間が生きる上でよき知恵を残し、その知恵が未来へ運ぶものに値するかを吟味するものが「人間」であるならば、過去に問合せることがひとつ大事なことです。
これを「伝統主義」と呼ぶ。
「伝統」の中には過去人が長い歴史という時間をかけて道理の何たるかを考えを重ね時には争い、道徳とは何か、美意識はどうか、何が真理かなどを慣習や暮し方や精神のあり方の中にすべり込ませて来たのです。
つまり過去からの伝統には我々が生きるために必要な知恵がつまってるはずなのです。
これを無視して壊し、進歩主義に期待をかけ過ぎているから、おかしな政治やおかしな事件が起こるのでないでしょうか。一面の真理があると思います。
「君はなぜ明日を生きられるのか?」
少なからず誰もが昨日より今日、今日より明日の方が状況が良くなって欲しいと、明日の展望を何となく抱けているから生きる活力が湧いてくるものであろう。
もちろんはっきり意識されるものではない。
もし仮に明日になれば持ち金が尽き、1年後には周りから全ての人が自分の元から去ってゆくのを自覚されてしまえば、それは生きる活力も失われるだろう。
しかしそんな都合よく全ての未来に希望を持てるほど、簡単にゆかないことは現実生活で誰もが感じてもいる。
そこに誰もがおちいる罠(トラップ)がある。
「未来に対する前のめり」である。
簡単な例だと、安易な儲け話に乗ったり、今の苦しさに「救い」を求めな何かに飛びついた結果、おかしな宗教にハマったりすることです。
これらはごく一部の人だけだろうが、我々は簡単に言えば「幸せ」という漠然としたイメージに近づくよう先を生きている。
では幸せとは具体的に言うと、経済的に豊かになることやたくさんの人と関わることだったりするわけで、逆に東日本大地震で被災したり、観光バスや自動車事故で被害に合うようなことを一般的に不幸と呼ぶ。
つまり「心地よさ」を幸せと呼び、そうでないことを不幸と呼んでいて、これが行き過ぎると快楽主義になる。
もちろん天災や事故で身内を亡くしたとしたら計り知れない辛さがあるのは事実で、そのような危機を避けようと生きるてるのも事実です。
が、この幸と不幸を快楽主義だけにスポットを当ててしまうと、どうしても未来は効率的なもので、(快楽主義としての)不幸が起こりにくい社会でなければならなくなり、行き着く先は技術信仰やいつまでも長生きできることに価値が置かれてくるのです。
つまり、絶対に幸せや安全が約束される未来を要求してしまうのです。
未来に期待しすぎるがゆえに、次々と新しいものを求め、非効率を排除、合理性を追求することが習慣化してしまうのです。当然、過去の知恵や習慣は劣ったものとして軽んじられることになる。
こういう思考回路を「進歩主義」と呼ぶ。
この進歩主義への軽信に対して決定的に欠けているものがある。
それは今生きている者が信じることや考え方は、もしかしたら全員ヤバいことに片足をつっこんでるかも知れないという疑いを持たないことです。
それでも「幸せとは何か」と問うことが、「人のあり方はどうあるべきか」の問いに近い意味であることは、誰もが薄々感じているはずです。
であるならば、たまさか浮かんだアナタの意見やちょっとした専門家や有名人の意見で、ものの道理や公正なものを決められるなんて、危なっかしくて採用できっこない。
進歩主義に染まった意見に耳を傾けるのを止めるなら、何に問い合わせればよいか?
人間とは何か?尊重される人間とは誰か?
今生きてる人間だけが、「人間」ではないのです。
未来に生まれるものも、過去に生きたものもいて、人間が生きる上でよき知恵を残し、その知恵が未来へ運ぶものに値するかを吟味するものが「人間」であるならば、過去に問合せることがひとつ大事なことです。
これを「伝統主義」と呼ぶ。
「伝統」の中には過去人が長い歴史という時間をかけて道理の何たるかを考えを重ね時には争い、道徳とは何か、美意識はどうか、何が真理かなどを慣習や暮し方や精神のあり方の中にすべり込ませて来たのです。
つまり過去からの伝統には我々が生きるために必要な知恵がつまってるはずなのです。
これを無視して壊し、進歩主義に期待をかけ過ぎているから、おかしな政治やおかしな事件が起こるのでないでしょうか。一面の真理があると思います。