タンパク質の塊 | 「異端児、常識を疑う」

タンパク質の塊

世の中には色んな人がいる。
レイプされた女性がそのまま妊娠してしまい生まれてきた子供、昔なら貧しい事情などで娼婦となり売春してできた子供。当然ながら彼らは望まれず愛されず、ひっそりと生まれ、生きている。

また、子供を身ごもった女は母性本能で必ず子供を愛せる保証などどこにもなく、現代ではよく聞かされる「子供を愛せない」母親も当然ありえる話で、彼女らは「子供を愛しなさい」と命令されても自然な形では愛せないのはある意味仕方がない話である。

「愛」の定義は非常にあいまいで難しいが、ひとまず「人から大切にされること」とするなら、「愛されない子供」たちの存在が意味することは、人にとって「愛は大事」ということが破綻しているということなのだろうか?

そうではない。

まずこう答えたい。
人間なんて多かれ少なかれ、そんな風に生まれてくるものだと。

たまたま大切に育てられる人とそうでない人。そのことが決定的に大事なのではない。
だから愛されなかったとしても、ふて腐れる必要もなく、子供を愛せないからといってストレスを感じる必要もない。
そんなことで絶望してるのは、自分を無条件で価値ある存在だと思い込んでるからである。

だが、人間など価値のない低俗な生き物だという意味とはまた違う。

低俗な生き物、そんな程度の存在でいられるほど我々は強くもないし、人間は賢いから犬猫のようにただ生存する生き物としてでなく、自分の存在する意味、自分の人生を意味あるものにしたい願望を持ち、必要な存在でいたいと願うのです。

つまり「人間」と「タンパク質の塊」とを決定的に区別する何かを必要としてるのである。

それは何か?
獣でも、単なる物質でもない、人としての道、「人の道」というと大袈裟かも知れないが、そんなものを抱かずにはおれない。

たまたま悲運な環境に立たされストレスの多い人生だったとする。そしてそのせいで自分の子供を虐待して挙句の果てに死なせて捕まり、誰かが決めた法律で裁かれ、牢屋に何年も入れられてしまったとすれば、そのように運命にただ翻弄されることこそが、本当の悲運なのです。

運よく愛される環境にいれればなおいいのだが、例え愛されない運命の下に生まれたとしても、人間と「タンパク質の塊」である人体とをはっきり区別するものがないと人格も崩壊するわけで、そこに「人の道」というものがあるはずなのです。

たまたま生まれてしまった子供を虐待し、自分のストレスの帳尻を合わせて生体のバランスを取ってるに過ぎないのだが、もしも「タンパク質の塊」から何とか逃れ、自分が生きた証として何かを成し遂げようと企てるなら、目の前のかわいいと思えない子供を義務感だけで立派に育てようとすることも人生なのです。
ミルクを欲しがり泣く子供を、うるさいなと思いながらエサを与えることは、あなたの存在する意味をその赤ん坊が教えてくれてるのです。

「愛が大事」なのは間違いではない。しかし、何らかの事情で「愛」が欠落した場合、子供への八つ当たりやお金による満足など何かで代償を支払わねばならないのなら、それは単に欲望の裏返しなのです。

人間の命は無条件で尊いというヒューマニズムは、時に人をタンパク質の塊へとおとしめる。
自分はタンパク質の塊で終わらないと人の道を歩みだしたとき、親に捨てられていようが、愛されてなかろうが、その人に価値が生まれ、魅力ある人間になるのではなかろうか?

しかし「人の道」などそう簡単に理解でき、実践できるものでもない。
日本人が1億2千8百万人いて、その内何人がそれを成し遂げられるか、おそらく少ないだろう。
だからこそ、「人の道」は目指す甲斐のある取り組みなのかも知れない。