日時計主義の生き方 -15ページ目

暗黒を消す道とは


暗黒なる世界を歎いてみたところで、

暗黒は消えないのである。



暗黒を消す道は唯光を点ずることだ。

光さえとぼせば闇はないのである。



人の欠点を見て、叱ったり,歎いたりすることは、

暗黒を見て歎くことである。



人の美点を見て褒め称えることは

光をとぼすことである。



更に、其の人の内なる実相が「神」であり「仏性」

であることを見て、それを礼し敬することは、

大いなる光を輝かすことになる。



百万年以前から続いている暗黒さえも、

光を点ずるとき一瞬にして消えてしまうのである。



それは「闇」というものは「光の非在」の別名であり、

「光が無い」と云う事に過ぎないのである。



光を現しさえすれば闇は

消えるほかはないのである。



今回の原発事故のように停電をやむなくされたり、

突然ヒュース゜が切れて周囲が暗黒になると手探りで

蝋燭やランプを探し回り買い占めうろたえたりする。



それと同じように、病気や不幸があらわれれば、

生命の本源である神に心振り向けるか、



ヒューズに当たる「心の導線」を完全にすればよいものを

手探りでいろいろの療法や救済方法を探し回る。



その療法や救済方法は、蝋燭やランプのように

一時的には私達を救ってくれるから、

それも排斥すべきことではないが・・・



「心の導線」を整備して、

大いなる生命の電源なる神様からの光が来るように

することが根本的な救済法になるのである。



暗黒を消す道は「心の導線」を整備し唯光を点ずること。



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真の自己信頼は自己放棄から



イエスが、「我自らにては何事も成し得ず

天の父われにいまして御業(みわざ)を成さしめ給うのである」



と言ったとき、無限の自己放棄と、

深き神への全托とがあるのである。



自己放棄と全托とによってのみ本当に、

自己の力みが除かれ、



自己と神とをつなぐ心の導管が

ひらかれると云うことになるのである。



一旦自己を放ち去り、

神を其処に勧請し来たって、



神が新たなる知恵として自己を

導き給うと云う自覚を得るとき、



本当の自己信頼を

得ることがて゜きるのである。



「肉体の自己」の力を

信頼している限りに於いて、



その自己信頼は力弱きものであって、

やがて困難に逢えば崩れ去る性質のものである。



神が・・・・゛天の父゛が我にいまして

御業(みわざ)を成さしめ給うと云う



自信になってのみ、

真に金剛不壊の自己信頼が得られるのである。



真の自己信頼は自己を放棄するところにある



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霊的自我に目覚めよ



自己を信頼し得ない者は何事も

大成することはできない。



しかし自己を信じるとは

この肉体人間の我を信じるのではないのである。



本当の自己信頼の底の底には、

肉体の我の自己ではなく、



肉体の奥に存在するところの

「霊妙きわまりなき存在」なる゛霊的自我゛を信じることによって、



゛宇宙の霊的自我゛即ち神と協同体なる自己を発見し、

その自己を信じるものでなければならない。



肉体の奥に宿るところの゛霊的自我゛を通して、

私達は神と一体となり、神と協力することが出来、



神の無限大の能力を、自己を媒介として

実現することができるのである。



有限の自己に頼る者は、好運に恵まれている者には

景気がよいようであるが逆境がきたときには、

ひとたまりもなく崩壊するのである。



自己の霊的自我を通して、神との一体感をもつ者は

逆境に処しても崩折れることはないのである。



霊的自我を自覚するとき、

人間は゛有限的存在゛の自覚から

無限の存在゛の自覚に置き換わるのである。



キリスト教では(コーンウ゛ァーション=新たに生まれる)と云う。

心が一回転して物質的肉体の自覚から、

霊的自我への自覚へと振り向くのである。



パウロの「最早、我生くるに非ず、神の命ここにあって生くるなり」

の自覚を得るのである。



釈尊はこれを「涅槃経」に於いて、

「一切衆生、悉く仏性あり」と説き、



親鸞聖人は、「大信心は仏性なり仏性すなわち如来なり」と

和讃の中で説いておられるのである。



自分我、自分我、と云う肉体の我を捨て真我の我を生きるべし



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真に幸福を得る為には


人間が幸福になるためには、

利己主義であってはならないのである。



利己主義の人は他の人の゛何らかの損゛に於いて

自分が利益又は幸福を得ようとするのである。



だから、利己主義の人にとっては他の人は、

或る意味において「利用すべき相手」であるということになる。



しかし誰でも利用されると云うことは好まないから、

利用される側の人は本当に、

その人を愛することができないのである。



利己主義者は或る意味において、

労働者に対する苛酷な資本家みたいなものである。



苛酷な資本家はただ自分の利益ばかりに労働者を

利用しようとするから、常に労働者から愛されることはできない。



それと同じく、他を自分の幸福のためばかりに利用しょうとする人も、

他から本当には愛されることはできない。



ただ無条件に他を愛する人のみが、

また他の人々から真に愛され、真に幸福を得るのである。



資本家でも真に労働者を愛する人は

其の従業員から慕われることになるのである。



真に愛するとは己を捨てて無条件に他を愛することである。



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生活経験は魂の向上のためにある



毎日の私達の経験は、ただ魂の向上のためにある。

肉体が健康になるためにあるのでも、ゆたかに富む

ためにあるものでもない。



健康や富は魂が向上するための

゛精神体操道具゛みたいなものなのである。



魂の向上の目盛りとして健康が向上することもあれば、

魂が向上した目盛りとして富が裕になることもある。



しかしずるいことをして魂を向上させる事もしないで

おきながら計器の目盛りだけを上げる人もあるのである。



神は「魂の修練学校」の教師であり校長のようなものである。

サタンを拝してサタンの前に跪いて栄華を得ても、

魂の向上の点数を増加することはできないのである。



神を拝し、神の教えに従って、

神性を発揮しつつ幸福に健康に富栄えつつその富を愛のために、

魂の向上のために使うものは幸福なるかなである。



あなたは神の善をしんじなければならないし、

人間の神性(仏教では仏性と謂う)を信じなければならない。



人間には神なるものが内在していて、

それがとりも直さず貴方自身の「生命」なのである。



だから自己の生命の尊厳と美と完全と永遠とを

信じなければならない。



神は遠く遙か空の彼方にましますのではなく

すぐ近くあなたの内に宿っていたもうのである。



釈尊が自己を「仏陀」と称し、

イエスが自己を「神の子」と言われたのも

此の自覚から発しているのである。



神とつながるとき一切の善きことは成就する。

神が自己の内に宿り給うと云うことを知りえたくらい

深く大いなる歓喜はあり得ないのである。



内在の神を自覚し自己を尊び自己の尊厳を大切にすべし



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あなたは既に完全である


人間は完全なのである。

不完全な人間などひとりもいないのである。

大体「不完全」と云うものは「完全」が半ば頭を出しているのである。



「完成しない」と云うことは其処に「不完全」が存在するということではなく、

「完成」が進行中であるということである。



例えば車がまだ「完成していない」と云うことは、

心の中で設計された「完成した車」が工作中であったり、

テスト中であったりするだけで、



既に心の中では「完全な車」が描かれて存在するのである。

あなたの中に「完全像」があるのであって、



あなたの「完全像」の自覚の゛ひろがり゛が、

あなたの環境となり境遇となって現われてくるのである。



自分の自覚の程度があなたの運命の程度である。

今が時である。常に今が時なのである。



今一層あなたの完全像(実相)を自覚せよ。

今一歩一歩自己の完全像に自分を近づかせよ。



それには必ずしも今いる環境から

抜け出さなければならないということはないのである。



今与えられた環境に居て愛行をつくせよ。

「愛」はあなたの完全像の一部である。



今いる環境で吸収できる一切の知識を吸収せよ。

「知」はあなたの完全像の一部である。



あなたの完全像をあらわせばあらわすほど、

あなたの現実は完全となるのである。



周囲が幸福になることを心描けて行動せよ。

「行」はあなたの完全像の一部である。



愛と知と行と三拍子そろってあなたの完全像が現象化する。


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理想を実現するには


高き理想を実現するために最初に必要なことは、

自分の心の底に横たわる障害を

まず取り除くことが必要なのである。



それは「そんなことはとても実現しない」と思う心なのだ。

理想と現実のギャップをあまりに大きく考え過ぎると、

実行の勇気が湧いて来ないことになる。



故に理想と現実のギャップを考えてはならない。

理想は既に「実相世界」では成就している。



それは地下に埋蔵されている炭層のようなもの。

炭層とは地層 中に 層状 に存在す 石炭 の層を云う。



しかし、それは現実にはまだ見えない、

だが、実相観のレーダーで透視すれば

「既にある」のだ。



あとは、それを掘り出す実践だけである。

行動を伴わぬ信仰は何の力も無いのである。



着々としてその理想に向かって掘り続けて行くならば、

ついに理想を現実にすることができるのである。



もし、あなたが自分自身の現在を「不完全」と

思うなら、あなたの中には完全な理想像が存在していて、

それと比較の上で不完全と思うだけなのだ。



既にあなたの中にある完全なる理想像をイメージし

心を集中せよ。そして、その完全なる理想像が

自然に動きだすように行動せよ。



やがてそのその行動が、実相の完全な理想を

実現さすことになるのである。



想念は動力なのである。



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艱難の中に魂の栄養がある



自分の内に神がいる自分は神の子そのものであるとして、

「自分ができると思うものは必ずできる」と念ぜよ。

自信を高めた程度に、あなたの運命は伸びるのである。



自ら自分を縮めて矮小になってはならない。

一切の環境、境遇、人間関係ことごとく、

自分を磨く素材となるのである。



どんなに悪いとみとめられる境遇でも、

「みじめ」な境遇でも、「貧しい境遇でも、

そこでなければ得られない魂の栄養があるのである。



艱難を乗り越えた有名な偉人達の自叙伝などをを読めば

そのことが明らかに示されている。



あなたの運命を良くするのも悪くするのも

あなたの選択にある。



たとえあなたの近くにヤクザがいようが悪人かいようが、

貧乏神がいようが、それがあなたに影響を与えるか与えないかは、

あなたの「想念」如何にあるのである。



あなたの想念に高き理想をもつことである。

その「理想」を中心にあなたの精神を想念を

感情を勉学を修行を行動を整えることである。



そこからあなたの尊き運命が自ずと開けてくる。



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運命はあなたの選択にある


人はこの世に生まれて或る環境に置かれ、

ある物質的条件に置かれ、

ある人間関係の条件の下に置かれている。



しかしこれは決して人間を束縛する

運命ではないのである。

それはただ素材に過ぎない。



その環境を如何に利用し、その物質的条件と人間関係とを

如何にその人自身が活用するかと云うことによって、

その人の運命は如何ようにも変化するのである。



例えばその人が裕福な家庭に生れ、

何でも欲することが出来る環境に育ったとして、

その人の選択が享楽だとしたら、



豊かなる財力を享楽にのみ乱費し、

酒や女に溺れ、財産を蕩尽し、早老して血管が硬化し、

忠風になって惨めな生活を送ることもできれば、



その裕なる境遇から自己教養につとめ、

或いは大科学者になって人類のためな功績を挙げ、

栄誉を勝ち取ることもできるのである。



両者の相違は運命にあらず、

ただ選択の相違である。



故につとめて偉大なるものを選択し、

つとめて真に価値あるものを選択すべきなのである。


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自分自信を発見する


神がこの世に人間を生み出したのは、

その人にはその人でなければならない

使命があるからである。



人間が他の人の真似をして類型的になることは

神が人間を地上に生み出した使命に反することになる。



多くの人は他の人が会社員になるから

自分もその方面に進出したいとか、



他の人が小説家になって大いに設けたから、

自分も小説を書いてみたいとか考えるけれども、



それは、神が其の人をある位置に置いた

その位置と異なるところに自分自信を置くことになるのである。



神が置かない位置に其の人が座るならば其の人の生活は

落ち着かないものとなり、常に背伸びをして立っているようで

魂の底から喜べる生活を送ることが出来なくなるのである。



何人にも個性があり、神が与えた使命があり、それを伸ばし、

実践することによって生き甲斐を感じることができるのである。



自分の魂の底からなる願いこそ、

偽らぬ自分自身の使命なのである。

「小説家になって金を儲けよう」と思うとすれば、



小説家になることは金を設ける手段であって

自分の魂の底からなる願いではない。



手段や道具になることは「自分自身」になることではない。

「お金が儲かっても儲からなくても文学で身を立てたい」

との自覚があるならば自分には天分があると思ってさしつかえない。



全ての人間は自分自身にならなければならない。

そして天分を見い出し人類に新しい価値を加えることで、

真の生き甲斐と喜びが得られ、きっとその道で伸びると確信する。


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