戦乱の旅-甲州征伐 | 高遠落城以降の織田信忠、織田信長の動向 | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)
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武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」 史跡めぐりの旅の紹介再開です。
高遠落城以降の織田信忠および織田信長の動向を紹介します。

いよいよ織田信長の甲州征伐も大詰めに近づいてきました。
武田勝頼が新府城を焼き払い 、小山田信茂の岩殿山城 を目指すものの、裏切りにあい、天目山へと進路を変更するまでの間、攻める側の織田信長および織田信忠の動向はどうなっていたでしょうか。
それは「信長公記」に詳しいので、以下に要約し抜粋ます。

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織田信忠の動向

3月2日、
高遠城攻略

3月3日、
上諏訪へ進軍。
諏訪大社はじめ諸所を焼き払った

3月7日、
織田信忠は、上諏訪から甲府(躑躅ヶ崎) へ入り、一条蔵人の屋敷 に陣を張る。
武田勝頼の一門·親族·重臣を探索させ、捕えた物を処刑。
処刑された武田の将は、一条右衛門大輔(信龍) 、清野美作守、朝比奈摂津守、諏訪越中守、武田上総介、今福筑前守、小山田出羽守(信有)、逍遥軒(武田信廉)、山県三郎兵衛の子、隆宝(武田信親)。
(※他の史料では処刑された日にちが違う人もいます。3月7日に信忠が探索を命じ、それ以降捕らえた者を順次処刑していったというニュアンスで捉えた方がいいのかもしれません。)

織田勝長、団忠直、森長可を上野国に向かわせるが、小幡は人質を差し出して降伏したため問題なし。

駿河·甲斐·信濃·上野の四カ国の地侍たちは信忠に帰順の挨拶をするため、それぞれ縁を頼って出頭してくる。
それにより、信忠の陣屋の門前はごったがえした。

織田信長の動向

3月5日、
近隣諸国の軍勢を率い安土より出陣。
近江柏原の上菩提院(米原市)に宿泊。

3月6日、
仁科盛信 の首が届く。
呂久の渡(揖斐川)で検分。
その後、岐阜へ運ばせて長良川の河原 に晒した。

3月7日、
雨のため岐阜に滞在。

3月8日、
岐阜から犬山まで進軍。

3月9日、
兼山泊(可児市)。

3月10日、
高野泊。

…以上が織田信忠および織田信長の動向です。
織田信忠は高遠城の激闘 の後は難なく躑躅ヶ崎まで乱入しています。
織田信長は信忠に任せて戦もなく余裕の乱入です。
この甲州征伐によって信忠は織田の次期頭領として誰もが認める存在となったことでしょう。

さて、武田勝頼の運命ははてなマーク


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