武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」史跡めぐりの旅、
高遠落城後の武田勝頼の動向その1を紹介します。
天正10年(1582年)3月2日、仁科盛信(信盛)の籠る高遠城が落城しました。
高遠城の壮絶な攻防戦の模様はこちら。
それ以降、武田家滅亡へのカウントダウンは急速に加速します。
3月2日~3日にかけて
新府城の武田勝頼のもとへ高遠城陥落の様子が次々と伝わる。
その際の状況が「信長公記」に詳しいので以下に要約して記します。
勝頼は高遠城がしばらく持ちこたえるだろうと予測していたが、城は一日で落ち、敵将・織田信忠は新府への進撃を続けているという。
その報を受け、新府城の武田家一門、家老衆は慌てふためき、逃げ出すことしか考えず、戦いの準備など出来る状態ではない。
それに加え、
武田信玄の甥で、武田勝頼の従弟にあたる武田信豊(典厩)は勝頼の命により、佐久郡・小諸城の下曽根賢範のもとへと向かってしまう。
ここに至って勝頼軍はついに孤立。
新府城では即座に軍議が開かれ、迅速にまとまります。
「新府城を焼き払い、岩殿城を目指す」と。
なぜなら、新府城は武田の集大成とも言える巨城であったものの、まだ未完成の状態でとても籠城できる状態ではなかったからです。
「甲陽軍鑑」には、こう記されています。
「前年秋よりの御普請なる故、半造作にて、更に人数百と、籠るべき様之無」と。
…100人も籠れないというのは言い過ぎだと思いますが、織田軍が迫る状況の中、兵は離散し、まだ防御があまい巨城では籠城できないと判断したのではないでしょうか。
3月3日
勝頼は城を焼き払い、慌てて出立しています。
前年、煌びやかにさっそうと入城した姿はそこにはありませんでした。
新府城を人質もろとも焼き払う
城は、人質もろとも火がつけられました。
「信長公記」には、
城には諸将の人質がいたが、閉じ込めたまま、焼き殺した。
その有様は、「人質、焜と泣き悲しむ声、天にも響くばかりにて~」であった。
と記されています。
「武田三代軍記」ではその様子がさらに詳しく描かれています。(「武田三代軍記」では処刑を命じた日は3月1日と記されています)
勝頼は、阿部加賀守、土屋惣蔵に、武田諸将の人質は忠不忠の者が混同している、速やかにその者達を選別せよ。と命じた。
詳しく調べてみると、1,000人の内、忠臣の人質は100人、残る900人は不忠者の人質だった。
まず、この度の謀反の張本人、木曽義昌が母と妹を引出し、大手勝手山口に逆さ磔にした。
その他は、悉く曲輪に追い込み焼草を積んで一度に火をかけ焼き殺した。
忠義者の人質たちには一人につき黄金100両を渡した。
怒った勝頼、信長なみに怖いですね~( ̄□ ̄;)
岩殿城か岩櫃城か
さて、勝頼は岩殿城を目指すこととなりましたが、その決定には以下のようなやり取りがありました。
この場面、よくドラマに出てきますよね。小山田信茂の岩殿城か、あるいは真田昌幸の岩櫃城かって話です。
「武田三代軍記」
真田昌幸は上州岩櫃城へ、小山田信茂は岩殿城へと進言。
そこに長坂長閑斎が言上。真田家は一徳斎(幸隆)以来、三代だけ仕えた家柄であり、それよりは譜代の小山田の岩殿城が望ましい。
勝頼は言う。頼みとした高遠が落城した上は、一刻も早く郡内へと向かい岩殿城へ籠り切り死にすべし。
「甲陽軍鑑」
真田昌幸は上州岩櫃城へ、小山田信茂は岩殿城へと進言。
そこに長坂長閑斎が進言。真田家は一徳斎(幸隆)以来、三代だけ仕えた家柄であり、それよりは譜代の小山田の岩殿城が望ましい。
(「武田三代軍記」と同じ内容ですけど勝頼の言葉はありません)
「甲乱記」
跡部勝資が小山田信茂の岩殿城を推薦したことになってます。真田昌幸は出てきません。
…長坂長閑斎か跡部勝資、あるいはその両者が小山田信茂の岩殿城を推したようです。
上記文献を読む限りは、真田に味方してくれる重臣はいなかったみたいですね。
血染めの逃避行
勝頼一行は山道を進みます。
その様子は「信長公記」に詳しく、
歴々の夫人や子供たちは踏みなれない山道を裸足で歩き、足は紅に染まり、落ち人の哀れさ、見ていられなかった。
と記されています。
また、「甲乱記」には、
初めての歩きで、土も踏んだことのない足で、慣れていない草履を履き~目も当てられぬ有様なり。
と記されています。
なお、
「三河後風土記」には、習ってもいない馬に乗り~
「信長公記」には、武田一門親類の夫人、付き人の中で馬に乗ったものは20人を過ぎなかった。
と記されていますので、勝頼夫人らは馬で移動したと思われます。
※この際の勝頼夫人関係の史跡は下記。
涙の森、回看塚(みかえりづか)、泣き石
その日3月3日は、柏尾(勝沼)に逗留
勝頼一行は、古府中(躑躅ヶ崎城)に立ち寄り、一条信龍の屋敷に入る。
↓
古府中を発った時には勝頼主従は6~700人になっていた(「甲陽軍鑑」。「武田三代軍記」では600人)。
↓
和田平(甲府市)という町で、武田領の駿河方の侍が勝頼をあざ笑う。
「昔駿河の今川氏真が武田信玄の旗を見て逃げ出したのを見て笑ったではないか。今では、信長の旗がまだ見えてもいないのに退散をするのか。今川氏真よりも何十倍も見苦しいことだぞい。」
侍は即座に成敗されたものの、勝頼は下の者にまで舐められる始末(「甲陽軍鑑」「武田三代軍記」)。
↓
甲府善光寺前で小幡豊後守(昌盛)が病気をおして勝頼のもとへと駆け付け、二町ほど同行する。
小幡豊後守の忠義に勝頼は涙した(「甲陽軍鑑」「武田三代軍記」)。
↓
柏尾(勝沼)大善寺に逗留
大善寺は勝頼の乳母・理慶尼がおり、その夜は勝頼、勝頼夫人、信勝、理慶尼で束の間のひと時を過ごしました。「理慶尼記」
…さて、勝頼一行は織田の追っ手を逃れ、岩殿城へたどり着けるのでしょうか
その2へ続く
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