武将の墓 | 日向大和守の墓 - 光村寺!武田武者の気骨を持った老将が眠る | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)
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武将の墓めぐり、日向大和守(虎頭)の紹介です。
武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」史跡めぐりの旅ともリンクしていますので、よろしくお願いします。


人物名墓のある施設住所
日向大和守(虎頭)光村寺山梨県北杜市高根町村山北割
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スマホで地図が表示されない場合、一度前の記事に戻ってもらい再度次の記事を読み込みすると表示されるようで。
日向大和守の墓は光村寺にあります。
発見難易度★★☆☆☆
お寺の裏山にあります。
大きく「日向大和守墓所」と書いてあるので多分分かると思います。

甲州征伐ブログの時系列から言うと、ちょっと話が前後していまうんですが…。
高遠城の攻防から遡ること2週間あまり前の話ですが、天正10年(1582年)2月17日、飯田城まで駒を進めた織田信忠は次に大島城の攻略にかかります。
大島城を守っていたのが日向大和守(虎頭:ひなたとらあき)でした。

武田勝頼は要の大島城に武田逍遥軒(信廉)小原丹後守(継忠)安中景繁を加勢として送り込み織田に備えさせますが、飯田城落城の報を受けた城兵は色めき立ち、その夜に撤退または降伏してしまいました。
その様子は「甲乱記」に詳しいので、以下に要約して記します。
「元来城は堅固な上、兵、兵糧、鉄砲、弾薬は不足なく、更に逍遥軒をはじめとした歴戦の猛者を援軍に送ったので、いかなる強敵といえどもすぐには落とすことは出来ない」
と勝頼は思っていた。
しかし実際には、城兵は飯田城が落ちたのを聞き明日は我が身と色めき立ち、夜になると外曲輪に火を放ち悉く敵へ寝返ってしまい、肝心の武田逍遥軒も城が落ちるとあたふたし、もはや戦どころではなかった。」


武田の恩義に報いた城主・日向大和守
武田逍遥軒をはじめとした将は早々に退散してしまいますが、城主の日向大和守は武田武者の意地を見せます。
以下、「甲乱記」からの抜粋&要約です。
「愚老が事は数代の御恩を蒙り~城を預かり申す事、数十年に及ぶ。
老後の思い出にこの城を枕として腹を切り君恩を報ずべし」
と覚悟を決め、敵に立ち向かった…はずです。
その後については記されていません。

ですが、「甲乱記」の最後の方に武田一族および家臣のその後が記されており、そこに日向大和守の最期も記されています。
それによると日向大和守は「城で自決せずに領地へもどって息子とともに自害した」となっています。
どっちが正しいんでしょうね。
また、城を出た理由については、家臣に騙され城から連れ出されたとも言われているようです。
それが本当なら、日向大和守にとって屈辱的なことだったのでしょう。


haka_hinatayamato03
本堂。



haka_hinatayamato01
鐘楼。



haka_hinatayamato02
庭園もありました。



haka_hinatayamato04
日向氏の墓。
大和守とともに自決した子息もここに眠っているのでしょう。
本堂の裏手を登った所にあります。
分かりますかねはてなマーク「日向大和守」って土台の部分に大きく書いてあるんです。
分かりやすいですよね。



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日向大和守の墓。多分。


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