戦乱の旅-甲州征伐 | 高遠城の戦い - 武田の意地を見せた仁科盛信と織田信忠の戦い | 地図付 | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)
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お城めぐりの旅、高遠城の戦いの紹介です。
武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」の史跡めぐりの旅ともリンクしていますので、よろしくお願いします。

城名(別名)住所関連する人物
高遠城(兜山城)長野県伊那市高遠町東高遠織田軍:織田信忠、森武蔵(長可)、団平八郎(忠直)、川尻肥後守(秀隆)、毛利河内守(長秀)、小笠原信嶺、山口某、佐々清蔵、梶原次右衛門、桑原吉蔵、森各務兵庫介、戸田半左衛門、織田信長
武田軍:仁科盛信(信盛)、小山田備中守(昌行)、渡辺金大夫、羽桐九郎次郎、小菅五郎兵衛、春日河内守、今福又右衛門(信長公記によると又左衛門)、畑野源左衛門、諏訪勝左衛門(信長公記によると勝右衛門)、飯島民部丞、飯島小太郎、今福筑前守(昌和)、神林十兵衛、小幡周防守、小幡五郎、春日河内守、原隼人(昌栄)、飛志越後守、小山田大学(昌貞)、諏訪勝左衛門の女房、武田勝頼
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 日本100名城スタンプ
 No.30

 登城年月:2010年11月
 登城順:80/100
高遠城は、織田の甲州征伐の際に唯一徹底抗戦した城で、今は全国屈指の桜の名所として有名です。
※桜の時期は入城料が必要です。

くるまr駐車場があります。
冬季は無料ですが、桜の時期は有料です。
臨時の無料駐車場もありますが、少し歩きます。

100名城スタンプは伊那市立高遠町歴史博物館にあります(少し離れてます)。
伊那市立高遠町歴史博物館
開館時間:9:00~17:00
休館日:月曜日

スタンプは24時間押印可。

武田諸将が降伏あるいは逃亡し、織田の快進撃が続き、3月2日、いよいよ織田の本隊・織田信忠軍による高遠城攻めがはじまります。
高遠城を守るは仁科盛信(信盛)
織田軍対武田軍最大の決戦・高遠城の攻防戦の火蓋が切られました

武田の意地を見せた高遠城
攻防の様子は「武田三代軍記」に詳しいので、以下に要約して紹介します。
なお、分かりやすいよう、武田方は赤織田方は青で記します。

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メラメラ諸将が降る中、高遠だけは二月下旬になってもまだ開城せず。
城を守るは武田勝頼の弟・仁科盛信(信盛)。
その他、小山田備中守(昌行)、渡辺金大夫、羽桐九郎次郎、小菅五郎兵衛、春日河内守、今福又右衛門、畑野源左衛門、諏訪勝左衛門(信長公記では勝右衛門)、飯島民部、飯島小太郎、今福筑前守(昌和)、神林十兵衛、総勢3千。


メラメラ織田信忠、わが旗本にて殲滅すべしと1万の軍勢を搦め手に配置。
一方、降将・小笠原信嶺を案内人に、森武蔵(長可)、団平八郎(忠直)、川尻肥後守(秀隆)、毛利河内守(長秀/秀頼)、総勢2万の兵を大手に配置。


メラメラ城将・盛信、「華々しく討ち死にし、誉をこうせいに残すべし。」と3月1日(信長公記では2日)辰の刻に3尺7寸の太刀を帯て1,400の兵を率いて出撃。

小山田備中守は大手から撃って出て、辰の刻から牛の刻まで戦い、城中に引き上げた際に討ち取った敵は270人、味方は107人討たれていた。


メラメラ川尻肥後守は大将・信忠に言う。
「この城を捨て置き、兵を先に進め敵の大将・勝頼を討ちましょう」
しかし、信忠は、
「武田の強勇なることかねて知る所なり。武勇を揮いこの城を落とすべし。この城を落とせば甲府も攻めやすくなる」と言い、矢文を書く。
※1
「勝頼は2月28日、甲府の館にて果てた。一門は殉死、あるいは降り、もはや甲・信は平らげた。
仁科一人が城に籠るは殊更なれど、早く開城すればこの信忠、命を助け本領安堵を約束しよう。」と。


メラメラ城将・盛信、この手紙を見て、
「信忠はうそを言っている。勝頼はまだ生きている。偽って降伏させ、縄をうって辱め、信長の面前に連れ出し、首を斬るのだろう。
例え本当であったとしても、不義にして千年の喜びを保ち栄華を子孫に伝うとも我何ぞ浮雲の富を好とせん。
さあらば、軍兵共に最後の合戦をさせ、潔く腹を切らん」

と、搦め手の多聞に上がり、
「我は昨日の戦いで深手を負って歩行自由にあらず。各々、最期の戦いを我に見せよ」
といい、大手搦め手、一気に開き撃って出た。

まず、搦め手より小幡周防守、小幡五郎、春日河内守、畑野源左衛門、今福又右衛門、1,700人撃って出た。
信忠の備え、七段まで切り崩し、4度突撃し、437の首を獲った。

大手からは、小山田備中守、羽桐九郎、小菅五郎兵衛、今福筑前守、諏訪勝左衛門、6度まで敵を切り崩し、280の首を獲った。
諏訪勝左衛門の女房、長刀をもって敵に向かい、7人まで薙ぎ伏せ討死をした。
6度の駈け合いに小山田備中守は討たれ、過半数の兵が討ち死にし、あるいは傷を負い、
敵は城門を打ち破り城内へとなだれ込んで来た。

メラメラ信忠の小姓・山口某、佐々清蔵、馬回りの梶原次右衛門、桑原吉蔵、森武蔵守の家臣・各務兵庫介等々、一番に乗り込みける。
これに続いて戸田半左衛門も搦手の門際に乗り付け指物を城戸に立てかけた。


メラメラ小菅五郎兵衛は城将・盛信に、
「敵すでに城中に入り込み候、今は御腹を召され候べし。」と進言するが、

盛信は、櫓の狭間の板を押し開き、織田勢にこう言う。
「軍門に下れば命を助け所領安堵するとの矢文が来たが、我は清和源氏の流れをくむ名門・法性院信玄が5男なり。義に反し敵に媚をうって信長の馬前に降らん。
早く勝頼親子、わが首をとって信長に見せるべし。
汝が父は若いころより不義を働き親族を殺し、延暦寺を焼き、数千の門徒を殺し、将軍家を蔑ろにし、武威を誇ってもやがてはその身におよんでたちまち滅びるだろう。
今、武田五郎仁科薩摩守、生年34才にして生害するぞ。
汝の武運が尽きて腹斬るときの手本とせよ。」

と言い放つと、左脇から右まで切り裂き、返す刀を胸元に押し立て十文字に切り裂いた。
小菅五郎兵衛は、盛信の首をはね、すぐに火をかけた…。



以上の戦いで、城方は全滅し、織田方が討ち取った頸は信長公記によると、
仁科五郎(盛信/信盛)、原隼人(昌栄)、春日河内守、渡辺金大夫、畑野源左衛門、飛志越後守、神林十兵衛、今福又左衛門、小山田備中守(昌行)、小山田大学(昌貞)、小幡因幡守、小幡五郎兵衛、小幡清左衛門、諏訪勝右衛門(勝左衛門)、飯島民部丞、小島小太郎、今福筑前守(昌和)、以上頸数四百余あり。

仁科五郎(盛信/信盛)の頸は信長のもとへと送られました。(信長公記)


※1)甲乱記によると、信忠の手紙を届けたのは僧で、盛信は激怒し、
「仏の使いとして文珠・維摩の室へ入り給ふには抜群に劣りたる次第なり」
と、僧の耳鼻を削いで送り返したと言います。


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歴史資料館にある高遠城の模型。
信長公記によると、三方険しき山城にて後ろは尾根続き、城の麓西から北へ富士川(藤沢川)がたぎって流れ、
城の構えは殊更堅固である。と書かれています。



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高遠城縄張図。
この図は江戸以降の縄張で、仁科盛信時代は大手と搦手が逆でした。



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現・大手門跡。
仁科盛信時代はこちらが搦手でした。
武田三代軍記によると、ここには多聞櫓が建っており、その櫓から仁科盛信が檄を飛ばしています。
織田信忠軍が攻め入ったのもこの門からです。



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現・搦手門跡。
仁科盛信時代はこちらが大手でした。
織田勢は、降将・小笠原信嶺を案内人に、森武蔵(長可)、団平八郎(忠直)、川尻肥後守(秀隆)、
毛利河内守(長秀/秀頼)らが攻め入っています。



次回、日本100名城にも選定されている現在の高遠城を紹介しますので、よろしくお願いします。


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