お城めぐりの旅、岩櫃城の紹介です。
武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」の史跡めぐりの旅
ともリンクしていますので、よろしくお願いします。
城名(別名) | 住所 | 関連する人物 |
---|---|---|
岩櫃城山麓 潜竜院跡 | 群馬県吾妻郡東吾妻町郷原 | 真田昌幸、武田勝頼、根津潜竜斎 |
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潜竜院跡は岩櫃城山麓にあります。
少し離れた場所に岩櫃山登山・岩櫃城登城用の駐車場があります。
![くるまr](https://emoji.ameba.jp/img/user/na/namida-egao/88449.gif)
真田昌幸、主君・武田勝頼を迎えるため、御殿を築く。
真田昌幸は勝頼を迎えるため、岩櫃城の山麓に御殿を築きました。
御殿は風雲急を告げる中、わずか三日で造られたといいます。
昌幸は勝頼を迎え入れ、岩櫃城をはじめとする自領の中で織田軍と戦うつもりだったのでしょう。
もしかしたら、武田と命運をともにするつもりだったのかもしれません。
そうなれば、この地で武田対織田の激戦が繰り広げられていたかもしれません。
そう考えるとこの地は趣深いですね。
しかし実際は、勝頼は小山田信茂の岩殿城 へと向かい、この御殿に入る事はありませんでした。
※岩櫃城ではなく岩殿城へと向かう事となった経緯はこちら。
昌幸の一族、潜竜院を築く。
武田家滅亡後は昌幸の一族の根津潜竜斎がこの地を拝領し、潜竜院というお寺を造りました。
寺は明治に廃寺となったようで、現在建物は何も残っていません。
護摩堂は移築され他のお寺の本堂となっているようです。
ですので、現在この遺跡は潜竜院跡となっていますが、勝頼ファンの僕としては勝頼御殿跡と表記してほしいですね。
勝頼の御殿の遺構は石垣を残すのみ。
現在、御殿跡は石垣が残るのみですが、周辺には曲輪や土塁らしき遺構や礎石等が見られます。
御殿跡。遺構は石垣のみ。
御殿の敷地は城の造りをしています。岩櫃城の城域なので当然ですが…。
曲輪A。御殿跡の下の段には曲輪らしき削平地があります。
御殿跡を曲輪Aより見る。ここも草の陰に石垣が見られます。
曲輪B。御殿下には曲輪らしき削平地が数か所あります。
礎石。
御殿跡。現在は広大な削平地が広がるのみ。
御殿跡の石垣と岩櫃城。城は岩山ではなくその左側にあります。
土塁も残ります。
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